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あけましておめでとうございます。
本年も変わらずよろしくお願い致します。
【神武37年が最初の「丁酉」年】
今年は「丁酉」の年だそうです。「丁酉」年は西暦年を600で割って37余る年になります。
「丁酉」年に想定されるのは日本書紀ではどういう年になっているのでしょうか。
神武紀に記載されている太歳年と比較して考えると、東征に出発した年は太歳「甲寅」、即位した年は「辛酉」(東征開始から7年後に即位していることになります。)ですから、 「丁酉」は神武37年に当たることになりますが日本書紀にはその年には何も記述がありません。
【雄略天皇の即位年は「大歲丁酉」】
日本書紀に干支年として 「丁酉」が記載されているのは雄略紀です。
雄略天皇の即位年が「大歲丁酉」(雄略紀と持統紀だけなぜか「大歲」と「大」が使われています。)。
日本書紀は雄略天皇の巻から書き始められたという説がありますが、もしそれが本当のことだとすると太歳年として「丁酉」が初めて当てられたことになります。
西暦では「457年」が有力視されているようです。
【百済太子腆支の入質が丁酉年(397年)】
その他では、応神8年3月条に、百済記からの引用で、百濟記に云わく、「阿花王が即位して貴國に対して礼がなかったので、我枕彌多禮・及峴南・支侵・谷那・東韓の地を(倭国が)奪いとった。これによって王子直支を天朝に遣わし、先王の好を修めた。」とあります。日本書紀のこの記述に対応する記事が三国史記に載っています。百済阿花王6年(397、丁酉)5月条、西暦397年の丁酉年に阿花王は倭国に太子腆支を人質として差し出したと記されています。
倭国と百済の関係にとってはエポック的な事件でした。
人質となった太子腆支は阿花王の死後、国王(在位:405年 - 420年)となります。
【日本書紀は丁酉年(持統11年、697年)で完結】
日本書紀は持統11年8月条、「八月乙丑朔、天皇、定策禁中、禪天皇位於皇太子。」の記述で完了していますが、日本書紀記述の最終年である持統11年が丁酉年に当ります。
本年の干支「丁酉」は日本書紀の最終年と同じであり、日本国の最初の天皇となる文武天皇の即位年ということになるわけです。
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