のんびりと古代史

自分なりに「削偽定実」を試みる。

古代史

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【敗者の歴史を残したい】
秋田孝季の総序に引き続いて、
秋田孝季と津軽飯積之住飯積庄屋和田長三郎による序言が記載されている。
安倍一族が支配した時代の歴史が失われていくことを危惧してこの書を残すが、
取材したことを取捨選択せずに記しているので、
後に読んだ人がその真偽を考えてほしいと述べている。
古事記が「削偽定実」を標榜し、
ここに書いてあることが真実だと宣言しているのとは明らかに姿勢を異にしている。謙虚で誠実な序である。

【「総括篇二序言」抄】
秋田孝季は、
「無常の世に是の書を遺しは失せる真説を保つ故の思案に依るものなりせば、
後世の人々能く是を加味して読み憶するべきなり。」
と記す。
和田長三郎も、
「本書をうのみに史実の飼とすべからず。
外三郡誌は諸説不漏に綴りたる歴書なりせば是を究明の要あり。」
このまま放っておけば失われてしまう歴史を保存するために記したが、
とりあえず資料として玉石混交のまま残しておくので、
後に読んだ人がふるいにかけてほしいと言っている。

東日流外三郡誌総序

【敗者の歴史を記した秋田孝季】
東日流外三郡誌は三春藩の秋田孝季が江戸時代の寛政年間に30年余りかけて東北を中心に日本全国を歩いて取材したことを記している。
各地に残る古文書や伝承を丹念に拾い上げたものである。
したがってその内容は記紀の記述などに合わせて修正されていたりもするので、
そのまま鵜呑みにはできないが丁寧に検証することによって、
他では接することができない貴重な記述が見つかることも少なくない。
東北自動車道の建設の際に発見されるまで誰も知らなかった宮沢遺跡が
すでに記載されていたりする。
偽書などと言って無視することは簡単だが、
消されていた東北地方の敗者の歴史を取り戻す機会を
失うことになってしまうだろう。

【東日流外三郡誌総序】
秋田孝季は「総序」で東日流国の地理と歴史の概略を述べている。
東日流国は三方海で荒吐一族が豊かに暮らしていた。
そのうちに和人である安東氏と曽我氏が移住してきて、
東日流を「内三郡」と「外三郡」に二分したことによって戦争が絶えなくなった。
荒吐一族は安東氏と祖先が同じ長髄彦命で安東氏の治領下でも繁栄した。
曽我氏は権力をかざして夷人を窮地未開に追いやったので
安東氏領に移る人が多かった。
東北は朝廷にとって鬼門の方向に当たるので末代に災いありということで、
征夷の軍が向けられた。
阿部比羅夫、田道将軍、坂上田村麿、源氏八幡太郎などである。
東日流は征夷の追手が届かない場所なので、
安東氏は港を開いて繁栄し都を追われた罪人や僧侶を多く受け入れていた。
阿部一族は源氏に敗れて以来、
東日流を砦として外三郡に唐川城、内三郡に藤崎城を築いた。
その後内三郡を国司に委任すると氏族豪族が入り込んで来て国内が乱れ始めた。安東氏は羽州の一族の援助で北畠氏と萬里小路氏の派遣を受けて
勢いを取り戻し兵乱を封じた。
南部氏が国司になると再び兵乱が起こったが
北畠氏と萬里小路氏が何とか南部氏の侵略を抑えた。
しかし天正年間(16世紀末)に、
久慈兵蔵為信に安東氏一族はことごとく平征された。




山人と平地人

【平地人を戦慄せしめよ】
「国内の山村にして遠野より更に物深き所にはまた
無数の山神山人の伝説あるべし。
願はくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ。」
遠野物語の序文に書かれた柳田国男の有名な文章である。

【「山人」、「平地人」とは誰か】
ここでいう「山人」とは誰で、「平地人」とは誰か。
柳田は「山人は此島国に昔繁栄して居た先住民の子孫である。」
としているので縄文人を意識していたと考えられる。
となると必然的に「平地人」は弥生人ということになる。
柳田は概念的に山人=縄文人と規定し、
彼らを山奥に追いやった平地人=弥生時代以降の日本人を見返す
手助けをしようとしていたのかもしれない。
平地人のひとりである柳田の正義感でもあっただろう。
しかし、山人=縄文人との割り切りはそれでよいのだろうか。
柳田が対象とした遠野は東北である。
かつて日本書紀で「日高見国」と記され、
蝦夷が住んでいるといわれた場所である。
日本書紀の編纂者にとっては蝦夷は、
東北に追いやられた縄文人という認識だったかもしれない。
しかしそれでよいのだろうか。

【日本列島内の攻防によって「山人」は生まれた】
日本列島には3,000年前まで約一万年の間縄文人が
平和な暮らしをしていたという。
同じ縄文人と言っても北方から陸地伝いに歩いて渡って来た人々もいただろう。
あるいは南方から船に乗り漂流して到着した人々もいただろう。
一万年の間の事だから日本列島に到着する可能性が考えられる
様々なことが起こったと考えてよいのではなかろうか。
弥生時代が始まってから現代までの時間(約3000年)の
3倍の時間が縄文時代と呼ばれているのだから。
弥生時代に強力な武力をもって入ってきた集団に追いやられて
山の中での暮らしを余儀なくされた人もいたかもしれない。
あるいは北へ、あるいは南へ避難した人々もいただろう。
それは一度ではなく何度でもあったのではないか。
あとからあとから近代化した武器を持った集団が入って来て先住民を追い払う。
歴史時代では日本書紀(斉明4年4月)は阿倍臣の蝦夷征討を記載している。
この時にも海から攻めてきた阿倍臣を避けて、
山中に逃亡した「蝦夷」は数多くいたに違いない。
柳田が言う「山人」の中には、
縄文人だけではなく「蝦夷」と呼ばれた人もいたであろう。
さらに降っては平家の落人たちも山中で生き延びて「山人」になったかもしれない。

【「東日流外三郡誌」】
柳田は「彼らの為に記された一冊の歴史もない。」と嘆いているが、
「蝦夷」を描いた大量の文書が偽書として捨てられようとしている。
「東日流外三郡誌」である。
368巻の写本を藤本光幸氏が年代ごとに編集を加えている。
第一巻の古代編を少しずつ見ていきたい。

ウソから始まる論理学

【ウソだらけの記・紀】
古事記も日本書紀もウソだらけである、
と書いてしまうと乱暴な記事だと早合点されてしまうかもしれない。
しかしどちらも8世紀初頭の大和朝廷の権威を正当化することを目的に
書かれていることは誰も否定することはできないだろう。

【百王相続と大和中心主義】
天照大神の孫瓊瓊杵尊が降臨し瓊瓊杵尊の曾孫神武帝が
九州から大和へ東征し、
その子孫が文武天皇、元明天皇、元正天皇であるということを
記・紀ともに表現している。
この系譜を史実として承認する学者は誰もいない。
しかし神武東征以来大和朝廷が日本列島の中心政権であったと
考えている研究者は少なからず存在している。
普通に考えれば神武帝から元明天皇、元正天皇まで天皇系譜が
継続していることにするために、
ヤマト付近に中心政権があり続けたことにしたのだろうと
疑ってかかることが妥当ではないかと思う。

【成立しない邪馬台国大和説】
大和中心主義の延長線上にあるのが邪馬台国大和説である。
卑弥呼に関する記事が古事記には一行もなく、
日本書紀には神功皇后紀の細注に記されているに過ぎないのに、
卑弥呼の墓は箸墓古墳に違いないとマスコミまで巻き込んで主張しようとする。
卑弥呼が古事記に登場しない理由は?
神功皇后がもし卑弥呼であり、卑弥呼が大和にいたならば狗奴国との戦いは
どう説明するのか?
女王国の南に接する狗奴国との戦いは日本書紀に描かれているのか?
神功皇后の戦いの場は全て九州内か、九州発ではないか。

【日本古代史:ウソから始まる論理学】
残念ながら古事記も日本書紀もウソであることを前提にして
出発しなければならないのが日本古代史である。
誰が何のためについたウソなのか、そこが出発点である。
つまり日本古代史はウソから始まる論理学なのである。
【「筑紫嶋、身一而面四」と九州の平野部】
古事記上巻の大八島生成の段に、「筑紫嶋、身一而面四」とある。
「面四」については次のように記している。
「筑紫国謂白日別、豊国謂豊日別、肥国謂建日向日豊久士比泥別、
熊曾国謂建日別」。
これは弥生時代に関する記述である。
弥生時代と言えば稲作の始まり、
人々は稲作ができる土地を求めて拡大していった時期である。
ここでいう「面」は平野を指している。
九州島の地図を開いてみると、中央部は全て山間部である。
大きな平野はいくつもない。
筑紫国は筑紫平野、豊国は直方平野、肥国は熊本(菊地)平野、
熊曾国は宮崎平野であろう。

【「筑紫嶋、身一而面四」と前方後円墳分布の対応】
古事記に記述されている「筑紫嶋、身一而面四」は、
九州地方の前方後円墳の分布に対応している。
当然の事ではあるが弥生時代に「国」ができ始めた後、
優劣によって「大国」が形成されて古墳時代に入る。
古墳時代の大国に前方後円墳ができると考えるのが自然だが、
分布を見ると前方後円墳は時代を追って大平野部に展開している様子がわかる。
前述した出田和久氏の「九州地方における前方後円墳の分布論的検討」では、
前方後円墳の分布は1期から10期までに分けられている。
3世紀中頃(235年頃から265年頃)を1期として、
10期を6世紀中頃(535年頃から565年頃)と年代を想定し、
各世紀を「前・中・後」の3等分と考えてみた。
1期を3世紀中頃としたのは前方後円墳の出現が現在の分析では
それ以上遡れないと見られていることによる。
10期を6世紀中頃としたのは九州最後の巨大前方後円墳である岩戸山古墳が
10期に入れられているからである。

【前方後円墳の時期的分布と魏志倭人伝の記述】
前方後円墳は1期に北部九州に出現する。
糸島半島と博多湾岸、それに周防灘に面した苅田町あたりである。
その中で最大のものは苅田町の石塚山古墳。
石塚山古墳には竪穴式石槨があるので、
「槨がない」と記される卑弥呼の墓ではない。
卑弥呼より少し後の時代になるのだろう。
2期になると、北部九州以外では宮崎平野に出現する。
倭人伝の「投馬国」(5万戸を有する)が独立性を強めたのではなかろうか。
3期になってから熊本平野と対馬・壱岐の島嶼部に出現することになる。
前方後円墳の時期的分布から魏志倭人伝の記述を考えると、
北部九州にあった卑弥呼の国は南の狗奴国との戦いに勝利し、
西晋のバックアップを得て倭国内の覇権を強固にする。
北部九州に出現した前方後円墳のひとつは、
卑弥呼の宗女壹与の墓であることになる。
3世紀末になると女王の支配下にあった「投馬国」に前方後円墳が出現する。
生目古墳群の1号墳である。
3期になってからようやく熊本平野にも前方後円墳が出現するようになる。

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