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【土器編年で決められた縄文時代、弥生時代の区分】
縄文時代、弥生時代という区分はいつまで続くのだろうか。
発掘された土器の編年で土器の文様や形体、あるいは発掘場所から考古学的に定められた区分が時間軸の標準として使われている。
【実年代測定との不一致が生じている】
現在では科学の進歩によって炭素年代測定などによって実年代の割り出しもかなり精度が高くなってきているらしい。
縄文時代と弥生時代の境界線は、水田稲作が行われているかどうかを判断基準にしているという。
当然のことながら水田稲作の開始は地域によってかなりの時間差がある。
北九州と近畿地方でも数百年の違いがある。
したがって「縄文前期前半」だとか、「弥生後期後半」といっても地域によって絶対年代が大きく前後している。
この土器は弥生前期の土器であるといった場合でも地域によってはBC900年頃を指しているし、他の場所ではBC300年頃になることもあるわけだ。
【縄文時代、弥生時代の概念は使いにくくなった】
このように縄文時代、弥生時代という区分を使うことは、論文を書く側にとっても読む側にとっても混乱を生じる可能性が高い。
使い慣れたわれわれ日本人にとってもわかりにくい状況になっているのに、外国人から見れば時間軸や地域軸がわかりやすく表示されたグラフを見ながら解釈していかなければならない。
学問的にも使い勝手がよくない概念になっているのではないだろうか。
子供のころから親しんできているのでなじみは深く名残惜しい気持ちは残るのだが、縄文時代、弥生時代という言葉の賞味期限はとっくに過ぎてしまっているように思う。
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古代史
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→ 「日出ずる国の古代史」
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【阿蘇神社から盗用した日本書紀の龍田神の祭り】
古田史学会報135号に記載された正木裕氏の「盗まれた風の祭り」を興味深く読むことができた。
日本書紀の天武紀と持統紀に重ねて記載されている龍田神に対する祭りが、
九州王朝の阿蘇神社および摂社の龍田神社で行われてきた祭事を盗用して日本書紀に記載したとするもの。
私もかねてから天武紀と持統紀にほとんど毎年のように4月と7月に繰り返されている龍田神と広瀬神に対する祭事の意味することは何だろうかと疑念を抱いていた。
【天武・持統紀だけに記されている龍田神の祭り】
天智紀以前には全く出てこないし、著者の記しているように続日本紀になると突然記載されなくなっており、天武時代と持統時代に特化された祭祀として日本書紀は取り扱っている。
【奈良県の「龍田大社」と「龍田神社」】
正木氏によると、奈良県には現在「龍田大社」と「龍田神社」のふたつがあり、
後者は前者の摂社と考えられているという。
しかし現在地名として残っている龍田にあるのは「龍田神社」の方で、
祭神は龍田大明神(龍田比古神と龍田比女神)、
阿蘇神社の祭神と同様に比古神と比売神の一対の神で構成されている共通性に注目している。
【法隆寺鎮守として勧請された龍田大明神】
さらに龍田大明神には法隆寺鎮守の伝承が残されており、
正木氏はこの伝承を九州王朝の天子多利思北孤が法隆寺を大和に創建した際に、
鎮守として龍田神社を肥後から勧請したのではないかと推理している。
【なぜ日本書紀は龍田神の祭りを盗用する必要があったか】
私の疑問は、天武・持統朝で国家の中心の信仰対象とされていたと日本書紀が記す「龍田神・広瀬神」がなぜ文武朝以降の続日本紀では姿を消し、伊勢神宮信仰に取って代わられているかということなので、
「龍田神・広瀬神」から伊勢神宮信仰への変換の理由は何なのか。
あるいは正木氏のいうように阿蘇神社祭祀の登用だとすると、
なぜ日本書紀が登用をしなければならなかったのかなどの疑問は残るが、
正木氏の龍田大明神の勧請説及び日本書紀への登用説は切り口も新鮮でオリジナリティに富んだ興味深いもので、
もう一度考え直してみようと思うきっかけになった。
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【人麻呂が用いた万葉集記載の「遠の朝廷}】
「遠の朝廷」は万葉集で使用されている言葉である。
柿本人麻呂作歌の中に出てくる。
人麻呂が用いたこの言葉を後に大伴家持が借用している。
人麻呂は九州大宰府を指して用いたが、家持は越国を示す言葉として使用した。
【古事記で使われた「遠飛鳥」】
「遠飛鳥」は古事記で使用されている。
古事記序では、「近淡海」と対比されており、
履中記の中では「近飛鳥」に対して使用されている。
允恭帝は遠飛鳥宮に坐して統治していたとされ、
近飛鳥宮の顕宗帝と対比されている。
【日本書紀は「遠の朝廷」、「遠飛鳥」を封印した】
日本書紀は顕宗帝の居住した場所を「近飛鳥八釣宮」として、
古事記の記述を採用しているが、
允恭帝については宮の表記はなく「遠飛鳥」の使用を避けている気配がうかがえる。古事記が現在の飛鳥の地を「遠飛鳥」と記していることを
肯定することができなかったのであろう。
なぜ天武帝が天下を統一した飛鳥の地を「遠飛鳥」と言わなければならないのか、
と元正帝の朝廷は反発したものと思われる。
【「遠の朝廷」、万葉集の時系列的推移】
時系列的に見てみよう。
柿本人麻呂は倭国=九州王朝が滅亡し、日本国=大和朝廷が建国された後、
これまで都があった九州の大宰府周辺を指して「遠の朝廷」と呼んで懐かしんだ。
大君の 遠の朝廷と あり通ふ 嶋門を見れば 神代し思ふ
(大君の君臨された「遠の朝廷」へと宮人達がいつも通い続けた嶋門を見ると
神代のことが懐かしく思われる)
人麻呂のこの歌を作った基準点は大和であろう。
すでに大和に都があり大和から見て九州大宰府を「遠の朝廷」と詠んだ。
天平4年(732年)藤原宇合卿を西海道節度使に送る宴席で聖武天皇が、
食(をす)国の 遠の御朝庭に 汝等が 是く退去りなば 平けく 吾は遊ばむ
手抱きて 吾は在さむ 天皇と朕 宇頭の御手もち 掻き撫でぞ 労ぎ賜ふ
打ち撫でぞ 労ぎ賜ふ 還り来む
と詠んでいる。
聖武天皇が大宰府を「遠の朝廷」と認識していることをあらわしている。
天平8年(736年)の遣新羅使には、
大君の 遠の朝廷と 思へれど 日長くしあれば 恋にけるかも
の歌が記載されている。
天候待ちで待機しているこの地(大宰府)が天皇所縁の「遠の朝廷」であることは
わかっているが、何日も待たされると出発してきた奈良の都がなつかしくなってくる、
と述べている。
遣新羅使のひとり雪連宅満は病のため壱岐島で亡くなるが、
死の直前に奈良に残してきた妻を思って作った歌にも「遠の朝廷」が詠まれている。
天皇(すめろき)の 遠の朝廷と から国に 渡る我が背は 家人の 齋ひ待たねか ただ身かも あやまちしけむ 秋さらば 帰りまさむ 垂乳根の 母に申して
時も過ぎ 月も経ぬれば 今日か来む 明日かも来むと 家人は 待ち恋ふらむに 遠の国 いまだも着かず 大和をも 遠く離(サカ)りて 岩が根の 荒き島根に
宿りする君
これらは人麻呂と同様に大宰府を指して「遠の朝廷」が用いられている。
後に大伴家持が越中守に赴任する時(天平18年:746年)に
「遠の朝廷」を詠み込んで作歌している。
大君の 遠の朝廷と 任き給ふ 官のまにま み雪降る 越に下り来
古田武彦氏は、
倭国=九州王朝の都であった大宰府を「遠の朝廷」とした人麻呂に倣って、
家持が奈良朝廷の祖先である継体帝の出身地である越国を
「遠の朝廷」と詠んだものと指摘している。
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【万葉集に出てくる「遠の朝廷」】
近淡海、近飛鳥、遠飛鳥を考えているが少し遠回りして、
万葉集に出てくる「遠の朝廷(とほのみかど)」を考えてみようと思う。
万葉集に「遠の朝廷」が含まれる歌は8首に出てくる。
【「遠の朝廷(とほのみかど)」の慣用的な使い方】
「遠之朝廷」の前には8首のうち、「大王能(乃)」が3首、
「 於保伎美能 (於保支見能)」が2首、「須賣呂伎能」が1首「天皇乃」が1首、
「食国」が1首、枕詞のようについている。「遠の朝廷」は「遠乃朝庭」、
「等保乃朝廷」、「遠乃御朝庭」、「等保能美可度(等)」、「等保能朝庭」、
など表記はさまざまである。
【「遠の朝廷」の所在地はどこか】
「遠の朝廷」の所在地はどこであろうか。
デジタル大辞泉の解説には、
「 とお‐の‐みかど〔とほ‐〕【遠の朝=廷】 都から遠く離れた地方にある政庁。
陸奥(むつ)の鎮守府や諸国の国衙(こくが)などをさす。
万葉集では大宰府や官家(朝鮮半島南部に置いた官府)についても
この名称を使っている。」
と記されている。
陸奥、大宰府(筑紫)、任那日本府などのことを言うと説明している。
万葉集304番、794番、3668番、3688番、4331番の中では、
題詞ないし本編に九州近辺を指す言葉が記されており、
大宰府辺りを指していることをうかがうことができる。
973番の「食国遠乃御朝庭」は聖武天皇が
節度使を送る宴席で歌ったとされているが、
この歌は藤原宇合卿が西海道節度使に派遣されるときに作られた
971、972番歌に続いているので九州のことを言っている可能性が高い。
4011番と4113番は大伴家持が越国国司になった時の歌であり、
越国を指している。
万葉集の8首を見てみると筑紫と越国2国だけである。
デジタル大辞泉にあるように陸奥と朝鮮半島南部は出てこない。
古田武彦氏は、4011番と4113番の作者である大伴家持は
天皇家の祖先である継体天皇が越国出身であることから
これまでの歌が全て九州の大宰府を指していた「遠の朝廷」を拡大解釈して
越国に対して用いたものだと述べている。
「遠の朝廷」は8首中6首が九州を指しており、
大伴家持作歌の2首が越国を指していることになる。
【聖武天皇は倭国=九州王朝を認識していた】
古田武彦氏は「遠」とは空間的な距離を表すと同時に
時間的な隔たりをも意味しており、
「遠の朝廷」は大和朝廷の前に存在した倭国=九州王朝のことを述べている、
と主張する。
973番歌の作者と思われる聖武天皇の時代には
まだ倭国=九州王朝に対する認識が残っていたことになる。
【参考:「遠の朝廷」を含む万葉集歌8首】
(1)304柿本朝臣人麻呂の筑紫国に下りし時に、海路にして作りし歌二首
大君の 遠の朝廷と あり通ふ 嶋門を見れば 神代し思ふ (2)794日本挽歌一首、また短歌
(妻を失った大伴旅人に捧げた山上憶良の歌)
大君の 遠の朝廷と しらぬひ 筑紫の国に 泣く子なす 慕い来まして 息だにも いまだ休めず 年月も いまだあらねば 心ゆも 思はぬ間に 打ち靡き 臥やしぬれ 言はむすべ 為むすべ知らに 岩木をも 問ひ放け知らず 家ならば 形はあらむを 恨めしき 妹の命の 吾をばも いかにせよとか にほ鳥の 二人並び居 語らひし 心背きて 家離りいます
(3)973天皇の酒を節度使の卿等に賜へる御歌一首并せて短歌
食(をす)国の 遠の御朝庭に 汝等が 是く退去りなば
平けく 吾は遊ばむ 手抱きて 吾は在さむ 天皇と朕 宇頭の御手もち 掻き撫でぞ 労ぎ賜ふ 打ち撫でぞ 労ぎ賜ふ 還り来む日 相飲まむ酒ぞ 此の豊御酒は
(4)3668筑前国志麻郡の韓亭に到り、舟泊まりして三日を経ぬ…(略)
(遣新羅大使 阿部継麿の歌)
大君の 遠の朝廷と 思へれど 日(ケ)長くしあれば 恋にけるかも (5)3688壱岐の島に到りて、雪連宅満(ユキノムラジヤカマロ)の忽ち鬼病(エヤミ)遭ひて
死去れる時に作りし歌一首、並びに短歌
天皇の 遠の朝廷と から国に 渡る我が背は 家人の 齋ひ待たねか ただ身かも あやまちしけむ
秋さらば 帰りまさむ 垂乳根の 母に申して 時も過ぎ 月も経ぬれば 今日か来む 明日かも来むと 家人は 待ち恋ふらむに
遠の国 いまだも着かず 大和をも 遠く離(サカ)りて 岩が根の 荒き島根に 宿りする君
(6)4011放逸せる鷹を思ひて…作りし歌一首 (大伴家持が越の国の国司に
なって行ったとき作った歌
大王の 遠の朝廷と 御雪降る 越と名に負へる 天ざかる 夷にしあれば 山高み 川透白(とほしろ)し 野を広み 草こそ茂き 鮎走る 夏の盛りと 島つ鳥 鵜養(うかひ)が伴は 行く川の 清き瀬ごとに 篝さし なづさひ上る 露霜の 秋に至れば 野も多(さは)に 鳥多集(すだ)けりと 大夫(ますらを)の 友誘(いざな)ひて 鷹はしも あまたあれども 矢形尾の 吾が大黒に 大黒ハ蒼鷹ノ名ナリ 白塗の 鈴取り付けて 朝猟に 五百(いほ)つ鳥立て 夕猟に 千鳥踏み立て 追ふ毎に 免(ゆる)すことなく 手放(たばなれ)も 還(をち)も可易き これをおきて または在り難し さ並べる 鷹は無けむと 心には 思ひ誇りて 笑まひつつ 渡る間に … (7)4113庭中の花を眺めて作りし歌一首(原文:庭中花作歌一首)
(大伴家持)
大君の 遠の朝廷と 任(ま)き給ふ 官のまにま み雪降る 越に下り来
(8)4331防人の悲別(わかれ)の心を追痛(いた)みて、詠める歌一首、
並びに短歌(大伴家持の歌)
大王の 遠の朝庭と しらぬひ 筑紫の国は 賊守る 鎮への城ぞと
聞こしめす 四方の国には 人多に 満ちてはあれど 鶏が鳴く 東男は 出で向かひ かへり見せずて 勇みたる 猛き軍士と 労ぎたまひ 任のまにまに たらちねの 母が目離れて 若草の 妻をも枕かず
あらたまの 月日数みつつ
葦が散る 難波の御津に 真櫂しじぬき 朝凪に 水手ととのへ 夕潮に 楫引き撓り率もひて 漕ぎゆく君は 波の間を
い行きさぐくみ 真幸くも 早く到りて
大王の 命のまにま 大夫の 心をもちて ありめぐり 事し終はらば 恙まはず 還り来ませと 斎瓮を 床辺に据ゑて 白栲の 袖折りかへし
ぬば玉の 黒髪しきて 長き日を 待ちかも恋ひむ 愛しき妻らは
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