のんびりと古代史

自分なりに「削偽定実」を試みる。

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司馬遼太郎の著書を久しぶりに読んでいる。
「なるほど!」と感心させられる文章が多いことに驚かされる。
たまには自分でも一つくらいは他の人たちから
「なるほど!」といわれる言葉を発してみたいものだと思う。
「近江散歩、奈良散歩」の中に、
「日本人の遺伝性の痼疾」であると指摘している箇所がある。
 
「日本人だけに見られる(あるいは韓国人もそうかもしれない)
異常な首都崇拝と地方蔑視がそれである。
この痼疾は外来文化を奈良平城京に大量輸入した
奈良朝以来のものだと私はおもっている。」
 
遣唐使や中国朝鮮からの渡来者たちによってもたらされた
外来文化を金科玉条にした時に、
「平城京とそれ以外」という異常な首都崇拝と地方蔑視が生まれたという。
さらに、
 
「江戸期は、江戸と京に価値が集中していたとはいえ、
しかし諸藩にもそれぞれ独自な学問と文化があった。
明治後、律令時代にもどった。
文明開化は、すべてその吸収・配分機関として東京がうけもったため、
田舎は単に陋劣なものという意識の構造ができた。」
 
平城京で生まれた「異常な首都崇拝と地方蔑視」の意識が明治維新で復活した、
と言っている。
 
司馬はここまでしか言っていないが、
終戦後東京を中心とした復興が行われたことによって
その意識が数倍に膨れ上がったことはいうまでもない。
 
白村江の敗戦→遣唐使→平城京
黒船→明治維新→東京中心の文明開化
太平洋戦争の敗戦→駐留軍による占領→東京中心の高度経済成長
 
外圧によって異常な首都崇拝と地方蔑視意識が醸成されて
不均衡な社会構造を生み出していくことを繰り返している。
そのことを司馬は「日本人の遺伝性の痼疾」と呼んでいる。
 

豊前王朝説

「大和朝廷の前身 豊前王朝」(大芝英雄著、同時代社、2004年)
という本がある。
古田武彦氏の九州王朝説から出発し、
批判発展した内容になっている。
発想は隋書俀国伝の
「倭王は天を以て兄となし、日を以て弟と為す。
天未だ明けざる時、出でて政を聴き、跏趺して坐す。
日出ずれば便ち理務を停め、我が弟に委ねんと云う」
という記述にあるようだ。
俀国は兄と弟によって統治されていた兄弟王朝だったと書いてある。
さらに隋書には隋の使者、文林郎と裴清が俀国に派遣されると、
竹斯国にいたった後さらに東に行き秦王国に至った、
と書かれている。
これを大芝氏は「筑紫本朝と豊前東朝」の二王朝であるとする。
天と日による兄弟統治の実態を筑紫と豊前に求めたようだ。
白村江敗戦の後、弟王朝(豊前東朝)の一部王族は近畿地方へ退避し、
再興を画策して近江朝を創設し、
壬申の乱を経て天武飛鳥浄御原朝を開朝したという流れになる。
7世紀の日本書紀の記述に疑問を以て悶々としている私にとっては、
非常に魅力的に感じる説ではある。
しかし、天智帝、天武帝が豊前から近畿に逃げた後、
すぐに日本国大和朝廷につながる権力を手にすることができるものだろうか、
検討しなければならないことは残されている。
民間の古代史研究者の名論文に接することができた。
日本に伝来する文書の書写材料に注目し、
近畿天皇家が701年に日本に律令国家を設立する前には
多元的に国家(あるいは王朝)が存在していたのではないかと推論している。
 
菅野拓「日本における書写材料についての一考察」
中国の書写材料には
伝来品として、獣骨・亀の甲羅➝青銅器➝石➝紙が考えられていた。
ところが、20世紀に考古学的発見があった。
20世紀初頭以降の考古学的発掘により、
西域(せいいき)などから
木簡(もっかん)や竹簡(ちっかん)、帛書(はくしょ)が発見された。
この発見によって、紙の普及の前に、
木簡・竹簡・帛書が書写材料として
重要な役割を担っていることがわかった。
伝来品による記録の空白が発掘品によって埋められた。
獣骨・亀の甲羅青銅器石➝木簡・竹簡・帛書(はくしょ)
木簡は荷札、竹簡は本文に使われた。
 
日本の書写材料を見てみよう。
・竹簡の欠落
中国の影響を受けて文字が発達した日本ではあるが、
木簡の出土があっても竹簡は全く出てこない。
竹の豊富な日本で加工が容易な竹簡が使用されていないことは
不可解である。
・帛書の欠落
紀貫之は「土佐日記」を不打紙に書いていたと、
書写した際に藤原定家は言っているという。
何故不打紙に書いたかというと
帛書に書かれた文字のにじみに
芸術性を感じていたからだろうという。
つまり紀貫之は帛書の存在を知っていたことになる。
魏志倭人伝以来絹が日本で生産されていたことは明らかなので
書写材料として絹がなかったとは考えられない。
 
日本では書写材料としての竹簡と帛書が欠落している。
 
・正倉院文書の怪
正倉院文書は701年以降の物しかない。書写材料は全て紙である。
701年より前の日本には国家はなかったのか。
書写材料に文字を記して命令を発するような国家の存在はなかったのか。
倭の五王がいた強力な国家は文字を用いなかったのか。
というような疑問がわいてくる。
 
日本における竹簡や帛書の欠落は欠落ではなく実は破棄ではないか。
 
この竹簡・帛書の欠落=破棄は、
多元的古代という歴史観でしか説明できない。
 
701年に律令国家を設立した近畿天皇家は、
それまでに存在した国家・王朝の記録を徹底的に破棄したのではないか、
と推論している。
 
たしかに、邪馬台国、倭の五王、多利思北孤など
中国の資料に残る倭国、俀国に関することは
701年以降の律令国家には何も残されていない。

 
 

天才児 織田信長

昭和48年、山崎正和と丸谷才一が直木三十五の実弟植村清二(東洋史学者)を
迎えて織田信長をテーマに行った対談が「雑談歴史と人物」に載っている。
 
【はじめて中部地方が歴史の表舞台となった。】
戦国時代になって、にわかに中部地方が歴史の表舞台になったことに
注目している。
信長、秀吉、家康、3人とも中部・東海の出身。
「(中部地方は)前にも後にもあのあたりが歴史の表舞台に
登場することはありません。」(山崎)
「関東型の幕府官僚的な人間でもなく、関西型の宮廷貴族的な人間でもない。
強いリーダーシップが求められた時代。」(山崎)
※再選された河村市長はリーダーシップ型を引き継いでいるのか?
 
【信長の時代を超えた近代合理主義】
「宣教師が残したものを読みますと、
(信長は)部下の言うことを聞かない大将だった。」(山崎)
その信長が、
「桶狭間の戦いの時の作戦では家来の進言を入れているんですね。」(丸谷)
「梁田出羽守政綱というのが、義元の足が桶狭間で延びている。
そこを払えば必ず勝つ、という意見だった。」(植村)
信長は政綱の意見を採用して奇跡的な勝利をつかむ。
「政綱は戦いが済むとすぐに4千貫の土地をもらっている。
ところが、今川義元の首をとった毛利新助なんかは
ごくわずかな賞しかもらっていない。」(植村)
敵将の首をとった部下よりも作戦の構想を立てた人間に
大きな賞を与えるというのは信長の持つ近代的合理主義で
ここに戦国を勝ち抜く資質を見ている。
また植村は信長の「商業に対する目のつけ方」に注目している。
「新しくとった土地では関所を撤廃し通過税を廃している。
楽市・楽座もそうですね。」
信長は経済政策に優れた政治家だったと指摘している。
 
【信長は一筋に京都を目指した。】
信長の成功の秘訣は、
「信長が京都一筋に目指して進撃するのが結果的に良かった。」(山崎)
北条早雲や上杉謙信が関東にも未練を残していたことに比べて、
「京都だと決めて一筋に動いた信長の見識があった。」(山崎)
 
【信長の二面性】
信長の行動の二面性に話は及ぶ。
一方では文化の政治的な使い道をわきまえていて、
他方では部下に対して狭量な態度をとる、二面性をもっている。
その点を分析すると、信長のような「真率な個性でさえも、
当時の文化尊重という気風は重んじなければならなかった。」
と丸谷がまとめると、植村から、
「後に信長は公家になるわけです。秀吉も関白になって公家になる。」
その傾向が強い時代でかつて黒坂勝美が『京都武家時代』と名付けたという。
その伝統を家康がきれいにぶち壊して武家の天下を確立した、
と植村は述べている。
 
【信長の残忍性に対する評価】
叡山焼き打ちや一向一揆に対する信長の行った
徹底した弾圧について植村は、
「現在のヒューマニズムで裁くのは誤りですね。」
と述べている。
「戦国時代の人間というものは抵抗すればこうなるぞということを
見せつけなければだめなんです。」
残酷な一面とは裏腹に、京都へ上がった時に、
「一銭切という命令を出して、一文でもとった奴は斬罪に処するとした。」
軍令を厳しくして都の秩序を守った。
「太平洋戦争の時の日本軍と比べると、軍律は数段行き届いていた。」(丸谷)
 
【戦国時代で一番の美人は?】
「戦国時代で一番の美人は誰ですか。」
という丸谷の質問に対して、植村は、
「お市の方の画像が高野山にあって、我々の大先輩の
星野恒先生(国史学者、新潟県出身)がその画像を見て、
『今なお楚々として人を動かす』と書いた。」
というほどでここは定説にしたがって、
お市の方ということにしておきたい。
 
 
 

王朝文化について

【丸谷才一、山崎正和「雑談 歴史と人物」(昭和51年、中央公論社) ②】
 
丸谷才一と山崎正和が
古代史・考古学から王朝文学まで、幅広い分野で実績を残した
角田文衛を交えての対談『王朝文化と後宮』。
約400年ほとんど戦争もなく続いた平安時代。
主に後宮の女官たちによって書かれた
奇跡ともいわれる王朝文学について
博識の3人が存分に話し合っている。
この対談を読んで、平安時代についての知識を
ほとんどもちあわせていないことを自覚できたことが収穫だった。
対談の中で初めて聞いたことや知識があいまいなことを
恥を忍んで、列挙してみることにした。
・仙洞御所
・王朝時代の女性はお産でずいぶん死んでいる。
 →このことが一夫多妻を正当化した。
・平安時代は嵯峨天皇(809年即位)以降保元の乱(1156年)まで
 約300年間死刑がなかった。
・宇多天皇(887年即位)の時代に変わり目があり、
 武力天皇から象徴天皇に変わった。
・平安京の人口は25万人で世界5大都市のひとつだった。
 (ローマ、コンスタンチノポリス、長安、洛陽、平安京)
・女性の社会的地位が高く、財産処分権を持っていた。
・世界の中で日本の女性の脳の容積は大きく目方も重い。
・藤原氏(摂政、関白)の奥さんはほとんど源氏だった。
 
以上はほんの一部であるが、
平安時代についてほとんど無知であることが分かった。
王朝文学を読むことによってかなり理解が深まるらしい。
「源氏物語」、「平家物語」でも
読みはじめようかという気にさせてくれる対談だった。
 
 

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