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【記紀に出てくる名前を変える説話】
記紀は万世一系を装うために工夫を凝らしているようだ。
そのひとつが、説話に出てくる名前の交換ではなかろうか。
良く知られたものを挙げてみよう。
●景行紀27年12月条と景行記のヤマトタケルの熊襲征圧説話
熊襲国の征圧に向かったヤマトタケルは
首尾よく殺害した熊襲の首領から死ぬ直前に、
「これからはヤマトタケルと名乗ってくれ」と言われる。
●応神紀即位前紀と仲哀記の誉田別と去来紗別の名前の交換説話
太子(後の応神帝)が越国の敦賀気比大神を拝みに出かけた時に、
大神と太子が名前を交換した。
その結果、太子が誉田別、大神が去来紗別(いざさわけ)となった。
●仁徳紀元年正月条の誉田天皇の息子と大臣武内宿禰の息子の名前の交換説話
誉田天皇の息子(後の仁徳帝)が生まれた時に、
産屋に木菟(つく、みみずくのこと)が飛び込んできた。
同じ日に大臣武内宿禰の息子も生まれ、
そちらの産屋には鷦鷯(さざき、みそさざいのこと)が飛び込んできた。
天皇に聞かれた武内宿禰は
「これは吉祥なので、その鳥の名をとって交換して子供の名前にしましょう。」
と言った。
太子は大鷦鷯皇子となり、
武内宿禰の子供は木菟宿禰(平群氏の始祖)となった。
【名前を変える説話の意味するところ】
一番目のヤマトタケルの熊襲征圧説話は古田武彦氏が「盗まれた神話」で、
九州王朝の遠征譚を近畿天皇家が借用したと証明している。
北九州にあった九州王朝が
南九州を征圧した時の説話をベースにしてできたストーリーだろう。
これは明らかに南九州のあるエリアの支配者が交替をあらわしている。
二番目の気比神社の説話は
表面的には天皇家と神社の親密な関係を描いているともとれるが、
これも九州王朝、あるいは出雲王朝が
日本海側に勢力を拡大し、
越国を征圧した時の説話がベースになっているのではないだろうか。
前支配者が去来紗別だったエリアが征服された話に
誉田別を組み込んだものだろう。
三番目は平和なストーリーに仕上がっている。
しかしここに近畿天皇家の一つの秘密が隠されているかもしれない。
仁徳紀では鷦鷯と木菟の鳥の名の交換となっている。
木菟の名がついた木菟宿禰は平群氏の始祖とされている。
その平群氏は後に武烈紀において、
武烈帝=小泊瀬稚鷦鷯天皇に滅ぼされている。
仁徳紀で武内宿禰の息子として生まれて
鷦鷯の名をもつ皇子と名前の交換をして誕生した平群氏が、
武烈紀では同じ鷦鷯の名をもつ武烈帝に滅ぼされることになる。
これは難波というエリアの支配者であった平群氏の興亡を描いた説話を
仁徳紀と武烈紀の二ヶ所に分けて記載したものだろう。
仁徳紀は非現実な説話となっているが、
武烈紀は生々しい戦争譚として描かれている。
【結論】
近畿天皇家は記紀の編纂において、
神武帝即位から元明帝、元正帝の現在に至るまで
「王朝交代はなかった」ということを前提にしている。
過去において実際にあった各地での王朝交代説話を取り込む時に、
そのままはめ込んでしまうと、
過去の出雲王朝、九州王朝、越王朝、平群王朝などの存在を示すことになる。
したがってその事実を隠すために、
支配者の交替を名前の交換で著そうという編集方針をとったのではないか、
と考えてみた。
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スタディ
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河内洋輔著「古代政治史における天皇制の論理」で学んだことを整理しておこう。
【6世紀の皇位継承の考え方】
6世紀の天皇位がどのようにつくられていたかを分析している。
共通する特徴として妻の一人に皇女がいる。
天皇の子供には皇位を継承する資格があるようだが、
更にその子供に皇位を伝えることができるのは
皇女を母とする天皇(直系)のみである。
仁賢帝皇女の手白香皇后を母とする欽明帝、
宣化帝皇女の石姫を母とする敏達帝は子孫に皇位を伝えたが、
その他の天皇(傍系)は氏出自の母をもつために一代限りだった。
したがって皇統は欽明帝から敏達帝、
敏達帝からその子孫へと一筋に作られている。
【舒明帝は何故即位できたか】
敏達帝の崩御後は用明帝、崇峻帝、推古帝と続き、
欽明帝の皇子、皇女が即位した。
敏達帝には皇后が二人いた。
最初の皇后広姫(息長真手王の女)には
押坂彦人大兄皇子と二人の皇女がいた。
二番目の皇后が豊御食炊屋姫尊(後の推古帝)で
二人の皇子(竹田皇子、尾張皇子)と五人の皇女を産んだという。
男女を合わせると、
10人の天皇になることができる候補がいたにもかかわらず、
推古帝が崩御する頃には
押坂彦人大兄皇子の子田村皇子、
厩戸皇子の子山背大兄皇子の二人に候補は絞られていた。
(系譜から見ると二人とも皇子とは言えない)
田村皇子は父母がともに敏達帝の子という血統的な優位があった。
山背大兄皇子は父の厩戸皇子が
約30年もの間推古帝の皇太子だったという実績が頼りだった。
しかし二人とも決定的な皇位継承の資格を持っていないため
不安定な状態のまま田村皇子が即位し、舒明帝となった。
【皇極帝の即位】
敏達紀では豊御食炊屋姫尊(後の推古帝)所生の
田眼皇女は舒明帝に嫁いだことになっているが、
舒明紀には記載がない。
舒明帝の崩御後、すぐに皇極帝が即位したことになっている。
皇極帝は即位前「宝皇女」と書かれているが
実際には天皇の娘ではない。
舒明帝の皇后とされているが、
実際には既婚歴があり、
前夫(高向王)との間には漢皇子が産まれている。
皇女でもなく、皇后であったことも疑わしい「宝皇女」が
日本書紀によると舒明帝崩御後すぐに
何の問題もなかったかのように即位している。
はなはだ不審であると言わざるを得ない。
河内氏は舒明崩御後の4年間は空位だったが、
日本書紀編纂者が皇極帝を創作してはめ込んだとしている。
【息長氏vs蘇我氏の視点:私の考え方】
以上が河内洋輔氏の見解を基にまとめたものだが、
蘇我氏の権力が強力だった中で、
息長氏系と思われる舒明帝、皇極帝が
根拠があいまいなまま即位できたとは思えない。
山背大兄皇子を蘇我入鹿が抹殺する経緯は
まるで息長氏のために蘇我氏が同士討ちしているように見える。
非常に不自然な展開になっている。
息長氏による蘇我氏の抹殺を乙巳の変に集約しているが、
実際には舒明帝から皇極帝にかけての治世17年間が
息長氏によって蘇我氏が滅亡させられた
天皇不在(=権力移行)の期間だったのではないだろうか。
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もう少し河内洋輔氏の著書「古代政治における天皇制の論理」を
参考にしてみよう。
河内洋輔氏は皇極帝には天皇に即位する資格がなく、
即位は「日本書紀」編纂の際の創作。
舒明帝の崩御後の4年間は、
誰も天皇に立つことができずに空位の状態が続いた。
日本書紀では皇極帝は4年後に譲位しているが、
創作の即位を行ったために、
異例の「譲位」をする必要が生じた、としている。
実に論理的な見解である。
【皇女、皇子ではなかった皇極帝と孝徳帝】
言うまでもなく皇極帝と次代の孝徳帝は同母姉弟である。
父は敏達帝の皇子押坂彦人皇子の息子茅渟王。
母は欽明帝の子桜井皇子の女吉備姫王。
即位前皇極帝は宝皇女、
孝徳帝は軽皇子と記されているが、
これも日本書紀が記述しているだけで、
系譜から見てどちらも皇女、皇子でないことは明らかである。
父も母も天皇との血縁は3親等で、
皇位継承資格から考えると血統の価値はほとんどないと言える。
【子持ち再婚だった皇極帝】
さらに皇極帝には既婚歴があったことが斉明紀に記されている。
つまり舒明帝とは再婚であり、
およそ皇后にふさわしからぬ経歴と言わざるを得ない。
客観的に見ると、皇極帝には即位できる資格が何もない。
さらに皇后であったかどうかも疑わしいのである。
たとえ皇后であったとしても、
皇后であることが即位するための十分な資格とはならない。
皇后でも皇女でなければ即位することはできない。
日本書紀の編纂者もそのことは百も承知なので、
皇極帝を宝皇女、あるいは皇后だったと記している。
【皇極帝→斉明帝重祚は日本書紀の創作】
河内洋輔氏は、
皇極帝が一代おいて重祚したことになっている斉明帝については、
中大兄皇子が殺戮合戦を勝利した後なので、
長期間皇太子の地位にいて天皇と同様な資格を得たとみなすことによって、
皇太子の実母として即位の可能性はあると述べている。
皇極帝は4年間の空位時代を埋めるための
日本書紀編纂者のアイデアであった、とする
河内氏の考え方は一考に値するだろう。
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本日も河内洋輔氏の著書「古代政治における天皇制の論理」に
基づいて記述してみようと思う。
日本書紀は持統帝以降の近畿天皇家にとって
都合のよいように構成された史書である、
ことを前提に読んでいくと見えてくることが多々ある。
もともとバイアスがかかった記述になっているのであるから、
編集者の意図を理解して読むことが
読む側の正しい姿勢とも言えるだろう。
推古帝の崩御後、
舒明帝は条件も満たさず根拠もないまま即位した。
原理原則に沿っていない舒明帝の即位に対して必然的な結果として
殺戮合戦が行われたことが日本書紀に記されている。
643年 山背大兄皇子抹殺(皇極紀)
645年 蘇我蝦夷・入鹿親子抹殺(皇極紀)
古人大兄皇子処刑(孝徳紀)
山背大兄皇子を追い込んだのは蘇我入鹿となっている。
蘇我親子と古人大兄皇子に対しては中大兄皇子が主導している。
日本書紀は蘇我氏を山背大兄皇子滅亡の主犯として描き、
さらに天皇家をも顧みない横暴ぶりを詳細に記述している。
蘇我氏の「悪行」の詳細を書いた後に
中大兄皇子が登場して、
蘇我親子を滅ぼし、
謀反を企てた古人大兄皇子を逮捕・処刑している。
勧善懲悪劇の善側の主人公が中大兄皇子である。
日本書紀の描き方はともかくとして、結果として、
「生き残ったのが中大兄皇子=天智帝だった」
このことは史実と考えてよいだろう。
その結果を踏まえて、
日本書紀の中大兄皇子に対する記述を
さかのぼって読み返してみると、
①舒明帝在位のもとで、
中大兄皇子はすでに「東宮」、「太子」の地位にあったとされている。
②中大兄皇子の生母である皇極帝が
舒明帝の皇后に立てられている。
(皇極帝は再婚でかなり遅れて後宮入りしたにもかかわらず。)
③舒明帝の死後、皇極帝がすぐに即位したとされている。
①から③は日本書紀の編集方針の反映であって、
結果として生き残った中大兄皇子=天智帝の正当性を主張するために、
・生母を皇后だったことにしている。
・早期に中大兄皇子を皇太子だったとしている。
もしこのことが事実であったなら舒明帝の死後に
中大兄皇子はすぐに即位していたはずである、
と河内氏は述べている。
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もやもやしていることを一気に解決してくれる本との出会いがある。
河内洋輔著「古代政治史における天皇制の論理」は
私にとってまさにそんな本である。
推古帝から舒明帝の時代への移り変わりの不自然さは
多くの人たちが指摘しているところである。
私は以前その日本書紀の記述の不自然さの原因として、
舒明帝即位は実は息長氏がクーデターによって
蘇我氏から実権を奪い取ったのではないかと考えていた。
舒明帝即位後の、
山背大兄皇子抹殺、
乙巳の変による蘇我親子殺害、
古人大兄皇子処刑と日本書紀は記述しているが、
全てが7世紀後半の舒明帝の血統の繁栄につながる結果となっている。
息長氏の勢力を背景にして
蘇我氏の主流を追放した経緯を正当化するようなストーリー展開を
日本書紀は行ったのだろうと想像した。
それはあくまで結果から考えた推測にすぎなかったが、
河内洋輔氏はそのもやもやしたものを見事に論理的に埋めてくれた。
日本書紀では推古帝の遺言の解釈によって
蘇我蝦夷が田村皇子を後継に指名して
舒明帝が即位する展開になっている。
河内洋輔氏は、それでは
「田村皇子はいかなる立場で即位したのか?」
と疑問を呈している。
6世紀には天皇に即位するための原理原則があって徹底されていた。
しかし田村皇子即位はどれにも当てはまらない。
田村皇子にはそれまでの原則からすると
皇位を継承する資格が十分とは言えなかった。
推古帝の時代には厩戸皇子が約30年間皇太子の地位にいたという。
厩戸皇子のその実績を重視するならば
厩戸皇子の息子である山背大兄皇子が最有力となる。
山背大兄皇子が選ばれなかったのは血統上の理由で、
生母が蘇我氏のためあくまで傍系の存在でしかなかった。
それに対して田村皇子は父母が敏達帝の男女子、
直系天皇の孫という立場だった。
両者とも決定力に欠ける中で
不安定な共存関係のまま田村皇子が即位した。
舒明帝に好意的に記述しているはずの日本書紀でさえも
はっきり即位の正当性を書くことができないほど
舒明帝は天皇になる資格が希薄であったということだろう。
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