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偶然名著に出会った。
河内洋輔著「古代政治史における天皇制の論理」
この本の第一章が「六世紀型の皇位形成原理」
六世紀の皇統がどういう原理原則で行われたかということが
以下のように簡潔明快に説明されている。
安閑帝、宣化帝、欽明帝、敏達帝、用明帝に
共通してみられる特徴を三点挙げている。
(女性の推古帝と暗殺された崇峻帝は除く)
①妻の一人に皇女(天皇の娘)が存在する。
②欽明帝と敏達帝のみその母が皇女である。
残りの安閑帝、宣化帝、用明帝の母は全て氏出自の女性。
推古帝、崇峻帝も母は氏出自。
③子孫に皇位を伝えたのは欽明帝と敏達帝の二人のみ。
この三項目から結果として、
皇統は欽明帝から敏達帝、敏達帝からその子孫へ一筋に作られた。
その他の安閑帝、宣化帝、用明帝、崇峻帝、推古帝は
その身一代限りで終わった。
皇統を伝えた欽明帝、敏達帝が直系で、
一代限りの安閑帝、宣化帝、用明帝、崇峻帝、は
傍系の天皇であると区別することができるとしている。
この原則を適用すると、
用明帝の皇子だった聖徳太子はいかに有能であっても
即位することはできないことになる。
敏達帝の後は皇后豊御食炊屋姫尊(推古帝)の皇子である
竹田皇子が継承すれば直系の天皇となるところだった。
竹田皇子は何らかの理由で即位できず
皇后が即位して推古帝となったのだろう。
竹田皇子以外には、
敏達帝の最初の皇后である広姫所生の押坂彦人皇子が
皇位継承候補となるが、
傍系の用明帝の皇子である聖徳太子には
皇位継承権は本よりなかったと考えられる。
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スタディ
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【日本書紀の「地震」の記事】
日本書紀の「地震」の記事は允恭5年7月を初出として、
ざっと数えて25箇所ほど掲載されている。
その内、天武紀に19箇所出てきており突出している。
天智紀までは余程の大地震か、不吉の予兆として
書かれていることが多いが、
天武朝では朝廷内の記録がしっかり残っているために、
ある程度の大きさの地震が発生するたびに書かれている。
推古7年(605年)4月に起きた地震が比較的大規模だったようだ。
圧倒的な規模だったのは「南海・東海・西海大地震」と言われる
天武13年(684年)のもので、
超大型の津波が発生したことが書記からも読み取ることができる。
地震(なゐふる):「ナ」は大地の意。「ヰ」はしっかり座っているところ。「フル」が震動の意。
地震の記述とその後にどういう記事が続いているかを見てみよう。
【允恭5年7月】地震のあった日の夜に、先帝である反正帝の殯(みもがり)が 行われたが殯宮太夫(殯宮の長官)に任命された玉田宿禰が殯に出席せずに
自宅に人を集めて宴会をしており、
天皇にとがめられて結局捕えられて殺されるという事件が起きている。
【推古7年4月】4月27日に大地震があり、建物がことごとく崩壊したとある。
この地震の後に、地震の神を祀るよう命令が下され た。
【皇極元年10月8日、9日、24日】642年10月に地震の記事が3回続く。
地震に引き続いて天変地異が起こる。
「雲無くして雨降る。」「大雨降り雷鳴る。」
「雷一たび西北の隅に鳴る。」
「雷五たび西北の角に鳴る。」
「天の暖かなること春の気の如し。」など。
この年に蘇我氏の横暴的な振る舞いが目立つようになり、
天子にだけ許されている八佾の儛(やつらのまい)を行い、
天下を横領しようとする行動を起こしていた。
翌年も天変地異の記事が続く。
【天智3年春】 地震の記述の前に「星有りて京(みやこ)の北に殞つ。」
とある。
不吉な予兆のようだが、その後は外交記事が続く。
【天武4年11月】地震の記事の前に宮の東の山に登って自ら首をはねて死んだ人のことが書かれている。
【天武6年6月】地震の記事の前に旱のため雨乞いをしたことが記される。
【天武7年12月】筑紫国の大地震。
豊後風土記にも「山丘崩落」の記述有。
この記事の前には臘子鳥(あとり)が天を覆って
西南から東北へ飛ぶとある。
【天武8年10月】地震の記事の前に天武帝は詔して、
「この頃世の中に暴悪者が多数いるようだが治安のやり方が悪いので
はないか」、と苦言を呈している。
【天武8年11月】前月に続いて地震の記載が出てくる。
【天武9年9月】地震と同じ月に、朝妻の騎馬隊の場所に行幸し、
騎射を見る。
(朝妻には新羅系帰化人の騎馬隊があった。)
同月に桑内王(未詳)死去の記事あり。
【天武10年3月】この月に、
「帝紀及び上古の諸事を記し定めしめたまう。」
とあり、古事記の序文にあるように指示したか、
あるいは日本書紀の編纂を開始したことをさすものと
みられる。
【天武10年6月】この月は雨乞いをしている。
【天武10年10月】前月には彗星が見え、火星が月に入る現象があった に。同月には地震に先んじて日食が起こった。新羅の使者が新羅文武王の死去を知らせた。
【天武10年11月】2か月続いて地震があった。
【天武11年正月】地震の前日に天武帝の氷上夫人(ひかみのおほとじ)死去。
【天武11年3月】新城に遷都を準備していたころ、地震があった。
【天武11年7月】地震の翌日、膳臣摩漏(かしはでのおみまろ)が死去。天武 帝甚く悲しむ。
【天武11年8月】12日に大地震があった。
この月には大きな流れ星が東から西へ流れ、
大きな火の色を含んだ虹が北の方に向かってかかり、
東の山に白い形がかかった。
17日にも地震があった。
この日に天の中央に太陽に向かって虹が出た。
13日に筑紫で「三つ足の雀」が見つかった。
【天武13年10月】巨大地震発生。山が崩れて河が涌き、役所や家・寺や 神社が破壊されて、数えきれない建物が崩壊した。人々や 家畜が大量に死に、伊予の湯が埋まってでなくなった。ま た土佐の田畑が一千町歩没して海になった。
大津波発生による被害だと思われる。
【天武14年12月】10日に西から発した地震があった。(?) この月の初めに、防人が船で漂流して衣服を失ってしまったので458人分の布を筑紫に送った。
【朱鳥元年正月】19日地震発生。その前の14日に難波の大蔵省が火事でほぼ全焼した。
【朱鳥元年11月】9月9日に天武帝が崩御し、10月3日大津皇子謀反の罪で賜死。
11月17日地震発生。その前日に伊勢神宮に奉仕していた大来皇女が帰京。
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【律令とは:ウィキペディアより抜粋】
律令(りつりょう)とは、東アジアでみられる法体系である。律は刑罰法令、令は律以外の法令(主に行政法)に相当する。
律令は魏晋南北朝時代に発達し、7世紀〜8世紀の隋唐期には最盛期を迎え、当時の日本や朝鮮諸国(特に新羅)へも影響を与えた。唐と同様の体系的法典を編纂・施行したことが実証されるのは日本だけである。このような統治体制を日本では律令制(または律令体制)というが、中国にはこのような呼称は存在しない。
律令を制定できるのは中国皇帝だけであり、中国から冊封を受けた国には許されないことだったが、日本は冊封を受けておらず独自に律令を制定した。
日本では、唐の脅威にさらされた7世紀後期、国力の充実強化を目的として、律令の概念が積極的に受容され、まず先駆的な律令として飛鳥浄御原令が制定された。ついで、701年の大宝律令により律令の完成を見た。
「律」と「令」:「新漢和辞典」(大修館書店)より
「律令」:国家のおきて、刑律と法令。また、大綱を律、条目を令という。
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