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倭王武は宋順帝の昇明元年(477年)に朝貢し上表文を献じた。
宋が滅び斉が起こった後も
建元元年(479年)、鎮東大将軍を受号している。
さらに斉が滅び次の梁の武帝からは、
天監元年(502年)、征東大将軍を授けられた。
倭王武は宋、斉、梁の各王朝に対して朝貢を行い、
冊封体制に組み込まれていたことになる。
その後倭国の朝貢は記述されなくなる。
高句麗、百済、新羅は梁に朝貢しているので、
倭国の事情で朝貢を中止したのだろう。
「二中歴」に記された『年代歴』の年号を九州王朝の年号とすると、
517年に九州王朝では「継体」という年号を建元している。
何らかの理由で南朝梁への朝貢を中止し、冊封体制から離れて、
倭国(九州王朝)独自の年号をもつに至ったということだろう。
この頃日本書紀には「筑紫国造磐井の乱」が出てくる。
磐井を滅ぼしたのは継体帝である。
磐井の死と「継体」年号の建元を結びつけると、
必然的に倭国内にクーデターが起こり、
倭国王が「磐井」から「継体」へ代わったとも考えられる。
そのように考えると、
日本書紀に出てくる「筑紫国造磐井」が
「倭王武」その人である可能性も否定できない。
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倭の五王
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藤原不比等は、8世紀初頭に唐の制度を取り入れて
天皇を中心とした律令国家を作り上げることを目指した。
そのために大宝律令を制定し、
日本国独自の元号を「大宝」として以降継続した。
また国史編纂事業を進めた。
7世紀後半から8世紀初頭にかけては、
近代史における明治維新、太平洋戦争後の復興に匹敵する状況が
古代史において起きていた。
663年の白村江の敗戦によって
倭国は唐・新羅連合軍による占領の危機に直面していた。
唐・新羅は668年に高句麗を滅ぼし朝鮮半島を統一した。
残る日本列島を占領すれば東アジア統一を成し遂げることができる。
そんな時に唐と新羅は朝鮮半島の支配をめぐって争い、
670年には戦争状態に入った。
倭国にとっては幸運なことではあったが、
倭国自体は白村江の敗戦を契機に急速に衰退したと思われる。
701年近畿天皇家は倭国に代わって日本国を設立した。
独自の元号「大宝」を採用し、
唐からは独立した国家であることを示した。
大国の唐からは、
かつて南朝にしていたように今なぜ朝貢してこないのか、
と責められるにちがいない。
そのために特に唐に対して、
過去において冊封体制に組み込まれて、
中国南朝(魏、西晋、東晋、宋など)に朝貢していたのは
今の近畿天皇家ではないことを主張しなくてはならない。
倭の五王の倭国は日本とは別の国のこととするために、
日本書紀に不記載にすることにしたのではないだろうか。
8世紀の遣唐使は、朝貢とはちがって、
経済的目的も軍事的目的も持たず、
純粋に中国文化を摂取するための目的だったという。
このような遣使の存在はは古今東西を見渡しても
稀有であるといわれている。
日本書紀は8世紀に成立した独立律令国家の日本が
日本列島の支配者として正当であることを
主張するために編纂されたもので、
各地、各氏族から地誌や墓誌を提出させて
近畿天皇家自身の歴史に付加して
万世一系の支配者であることが成立するように造り上げられた。
その時中国史に記載がはっきり残っている
倭国(九州王朝)と中国南朝との交渉史である
「倭の五王」については不都合な内容として不採用となった、
というのが真相ではないだろうか。
藤原不比等が日本を独立した律令国家にしようとした
高い志の表れということができるかもしれない
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前回は3世紀の卑弥呼の邪馬臺国から
5世紀末の倭王武の時代までが
倭国と呼ばれた同一王朝だということを「梁書」で確認した。
今回は別に視点から邪馬臺国から倭の五王までが
同一王朝であることを証明している論証を紹介する。
1970年代に古田武彦氏によって著された
「失われた九州王朝」の『第二章 倭の五王の探求』に記述されている。
その著書では中国・朝鮮の史書に書かれている
「倭国」という国名の前後関係に注目している。
取り上げている史書は
「三国志」、
「晋の起居注」、
「百済記」、
「百済新撰」、
「百済本紀」
の五書である。
ほぼ古い時代から時代を下る形でその五書は書かれている。
「三国志」には卑弥呼、
「晋の起居注」には臺与、
「百済記」は神功皇后紀から雄略紀、
「百済新撰」は雄略紀から武烈紀、
「百済本記」は継体紀と対応している。
ここで古田が注目したのは
この海外史書の記載が日本書紀の中で時間軸が重複していることだ。
臺与の記事が日本書紀の中では「百済記」の記事の間に存在し、
「百済記」と「百済新撰」が雄略紀の中で次代が重なり、
「百済新撰」に登場した百済武寧王が「百済本紀」で死亡記事となって出ている。
古田はこのことから、この五書に出てくる倭国は同一であると断じている。
百済本記は西暦531年まで記述されているので、
邪馬臺国の3世紀から6世紀初めまで
倭国は同一王朝として存在していたことになる。
前回の繰り返しになるが、
邪馬台国が九州のどこかにあったとすると、
倭国の中心、あるいは中国・朝鮮から見た倭国とは
九州の王朝だったことになる。
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有名な倭王武の上表文は「宋書・夷蛮伝・倭国条」に出てくる。
宋書とは別に「梁書・諸夷伝・倭条」には、
3世紀に魏に朝貢した邪馬臺国から
南朝斉の高祖明帝から倭王武が征東将軍を受号する5世紀末までが
通史的に述べられている。
邪馬臺国の部分は卑弥呼から臺与の共立まで
「魏志」を簡略化して書かれているようだ。
「正始中卑弥(呼が抜けている)死更立男王。
国中不服更相誅殺。
復立卑弥呼宗女臺与為王。」
魏の正始年間(240年〜247年)に卑弥呼が死んでまた男王を立てた。
しかし国中が服さずまた互いに誅殺しあうようになった。
また卑弥呼の宗女である臺与を立てて王とした。
ここまでが邪馬臺国と呼ばれた倭国のことである。
続いてすぐに、
「其後復立男王並受中国爵命。
晋安帝時有倭王賛。」
臺与の後にまた男王が立ち中国から爵命を受けたという。
この頃の中国はすでに東晋(318年〜420年)になっていた。
そして東晋の安帝(在位:397年〜418年)の時に、
倭の五王の最初の王である倭王賛(宋書では讃)がいたと記述されている。
その後東晋に代わった宋(420年〜479年)に、
倭の五王は朝貢を続ける。
梁書においては、倭の五王の五番目の倭王武が
宋の次に起こる斉の高祖明帝(495年〜498年)が即位した時に、
征東将軍を受号するまで記述されている。
梁書に書かれている「倭国通史」は
邪馬臺国が卑弥呼を共立した時から
倭王武の5世紀末まで倭国が継続していたことを示している。
魏志倭人伝の記述から、
私は邪馬壹国(梁書では邪馬臺国)は九州のどこかにあったと考えているが、
梁書の記述のように倭国が継続していたとすると、
邪馬臺国九州説を唱えることはとりもなおさず、
5世紀末まで倭国の中心は九州にあったということを
主張する覚悟が必要であることを示している。
そのことは同時に、
応神朝や仁徳朝が5世紀までの王朝だとするならば、
記紀の記述は大きな矛盾をはらんでいることを主張することになるだろう。
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山川出版社「日本史B詳説日本史(2007年版)」では、
倭の五王について次のように書かれている。
「宋書倭国伝には、倭の五王が中国の南朝に朝貢して倭王と認められたことや、
478年の倭王武の上表文に、
倭の王権が勢力を拡大して地方豪族たちを服属させたという記事がみえる。
5世紀後半から6世紀にかけて、ヤマト政権は大王を中心とし、
関東地方から九州中部におよぶ地方豪族をふくみ込んだ支配体制を
形成していった。」
「宋書倭国伝」の倭の五王を何の疑問も抱かずに、
ヤマト政権の大王としており、
ヤマト政権が6世紀までに
関東以西を支配体制化に組み込んだとしている。
宋書倭国伝には倭の五王がヤマト政権の大王とも書かれていないし、
関東まで勢力を拡大したとも書かれていない。
5、6世紀の日本が近畿天皇家に支配されていたことを前提として
倭の五王を解釈しようとしている。
記紀には倭の五王について一言も触れられていないし、
記紀の内容からは、
中国南朝の宋と交渉があった様子は全く感じられない。
中国や朝鮮に伝わる史書に倭国や日本のことが出てくると、
無批判にヤマト政権と結び付けてしまう。
このような学問的とは言いにくい姿勢が
相変わらず古代史学界を支配していることを
象徴的に表しているようだ。
本来なら、中国の正史である宋書に5世紀の倭国について、
「讃、珍、済、興、武という名の五王」のことが書かれていて、
その中にある、宋の皇帝に対する倭王武の上表文によると、
当時の状況がかなり詳しく知ることができる、
程度のことを明記するのが、
現段階の教科書の正しい在り方ではないだろうか。
倭の五王がヤマト政権の大王であると断言する根拠は
どこにもないとしか言いようがないのが現状だと思う。
岡田英弘は「倭国の時代」の中で、
宋書倭国伝にある『倭王武の上表文』について、
「信用できる度合いは『日本書紀』などとは比べものにならないくらい高い。」
として、その史料価値を高く評価している。
そのように信頼性が高い史料の記述を、
短絡的に記紀が造り上げた近畿天皇家の系図に当てはめようとするのは、
順序が逆だし、あまりにももったいない話である。
むしろ日本書紀の記述の真偽を
外国の史料で確かめるのが筋ではないだろうか。
信頼性の高い史料を先入観なしに捉えて、
古代倭国の真相を考えてみたいと思っている。
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