|
【応神紀の日本書紀における位置づけ】
応神帝は日本武尊の孫、神功皇后の子として記紀にさっそうと登場する。
神功皇后の胎内で共に新羅制圧に向かい、
凱旋と同時に誕生し、生まれながらにして逞しい鞆(ほむた)のような腕をしていた。
記紀の中で最も劇的な登場の仕方をしている。
そして新王朝の祖とも言われるだけあって多くの皇子、皇女を残している。
古事記では10人の后に26人の御子たち。
日本書紀では8人の后に20人の御子たち。
こちらでも堂々とした実績を残したことになる。
応神紀を読んでみると、
百済との外交記事があふれていることに気が付く。
少なくとも10か所に百済関係のことが書かれている。
(三年)是歳 百済の辰斯王立ちて、貴国の天皇のために失礼し、・・・
七年秋九月 高麗人、百済人、任那人、新羅人、・・・
韓人等を領ゐて池を作らしむ。
八年春三月 百済人来朝り。百済記に云えらく、・・・
(王子直支 来朝)
十四年春二月 百済の王、縫衣工女を貢る。
(十四年)是歳 弓月君、百済より来帰り。
「百二十県を領ゐて帰化く。」
十五年秋八月 百済の王、阿直伎を遣して、良馬二匹を貢る。
十六年春二月 王仁来り。則ち太子菟道雅郎子、師としたまふ。
(十六年)是歳 百済の阿花王薨りぬ。
二十五年 百済の直支王薨りぬ。
三十九年春二月 百済の直支王、その妹新斉都媛を遣す。
(この条は死んだ王が生きていたことになるのでおかしい)
この中には逸文となっている「百済記」からの
引用が多くあると言われている。
(引用が明記されているのは二か所)
このように百済との関係が強調されている。
そればかりではなく、
帰化系雄族となった秦氏や倭漢(東漢)氏の祖先渡来伝承となる
説話が紹介されている。
さらに土木工事、織物技術者、縫製技術者、船舶技術者などの
各種技術を持った人たちが来朝したことが記されている。
これらの人々もそれぞれ帰化系氏族を形成していく。
このように応神朝でその後の近畿天皇家を構成する
人と技術の礎が築かれている。
まさに応神紀は日本書紀の中で、
百済を中心にした渡来系氏族のプラットホームとしての
役割を担っていると言えるだろう。
|
応神天皇の位置づけ
[ リスト | 詳細 ]
|
【神秘的に描かれている応神帝】
天武帝の制定した「八色の姓」の最高位「真人」を
授与された氏族の系譜から稚野毛二派皇子までさかのぼった。
稚野毛二派皇子の父である応神帝は記紀において
どう位置づけられて、どういう意味を持っているのかを探るのが
今回のテーマである。
応神帝には、記紀の大ヒーローと大ヒロインの血が
濃厚に流れ込んでいる。
九州まで行って熊襲を征圧し、東国で服ろわぬ蝦夷を服従させて、
国内を平定した英雄 日本武尊。
応神帝にとって日本武尊は祖父にあたる。
(日本武尊の子の仲哀帝を応神帝の実の父とした場合だが)
仲哀帝の死後、自ら新羅遠征を行って凱旋し、
国外に勢力を広げたヒロイン、神功皇后=気長足姫尊を母にもつ。
そして応神帝自身は、
胎内天皇であり、
生まれた時から腕が鞆(ほむた)のように逞しく、
笥飯大神と名前を交換する、
などなどと神秘的な演出で登場して、
後世においては、
八幡神としてニラミをきかせながら影響力を持続している。
7世紀後半の政治状況において、
応神帝をここまで神秘的な存在として描く狙いは何か、
しばらく検討していきたい。
(To be continued)
|








