仲哀帝・神功皇后ご夫妻と舒明帝・皇極(斉明)帝ご夫妻記紀が作られたのは、7世紀後半から8世紀初頭にかけての時代だと言われている。天武天皇から元正天皇の時代に当たる。たとえそうでないとしても、その時代の影響を大きく受けていることに変わりはない。
天武天皇の側近たちの多くが応神朝に始祖をもつ氏族だったことから、応神天皇の時代に興味を持って記紀を読んでみた。
応神朝が想定されている4世紀から5世紀にかけて、東アジアは風雲急を告げる時代にあり、朝鮮半島の動乱を避けて、日本へ渡来する人々が多くいたらしいことがわかった。
さらに応神朝を理解しようとすると、どうしても仲哀天皇・神功皇后ご夫妻までさかのぼる必要が生じてくる。
どうやら記紀は仲哀天皇、神功皇后、応神天皇を1セットで記述しているらしい。
否、「足(タラシ)」の名をもつ景行天皇から神功皇后までを応神天皇誕生までの序章として考えているのかもしれない。
ここではまず後に八幡宮の祭神となった仲哀天皇、神功皇后、応神天皇について記紀を読み直してみようと思う。
仲哀紀を開くとまず注に「タラシ」→補注4−1を、見よと出ている。補注4−1には、
「景行、成務、仲哀、神功皇后はタラシを共通にする一団。隋書には7世紀初頭天皇をタラシヒコと言ったとある。天皇のことをタラシヒコと呼ぶならわしであったらしい。7世紀初頭の舒明はオキナガタラシヒヒロヌカ、皇極(斉明)はアメトヨタカライカシヒタラシヒメと言った。」
と景行天皇から神功皇后の命名法は7世紀前半の天皇名と親近的であるとしている。
舒明天皇、皇極(斉明)帝ご夫妻から天智天皇、天武天皇以降の7世紀後半の日本国を支配する天皇たちが出ていることから、「タラシ」でつながった景行天皇から神功皇后の4代は舒明天皇・皇極(斉明)天皇以降の天皇たちにとって重大な意味があるのだろう、ということを前提にして仲哀紀から読んでみようと思う。
(To be continued)
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仲哀紀と神功皇后紀
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