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【考古学で確定できる史実もある】
考古学の成果について、ほぼ100%確定と考えられることは別枠の一覧表にしていただきたい。
古代史を考える時日本書紀や古事記に書いてあることも史実であると考えることはできない。
史料批判した上で判断するというが、いつどこで起きたことか、それ以前にそんなことが本当にあったのかどうかでさえ文献史学では確定できることなどほんのわずかしかない印象である。
【寺崎保広『藤原京の形成』】
2002年に発刊された寺崎保広の『藤原京の形成』、この中に藤原宮の設営された時期と順序がほぼ確定できることが記されている。
藤原宮を作る時に、まず条坊をつくった。次に宮の造営に使用する資材を運ぶ大規模な南北溝をつくり、溝を埋め戻した後に宮の北面に位置する北面中門(猪使門)がつくられたという。
設営順序は遺跡の発掘によって明確になっている。
さらに、南北溝からは年代を示す干支木簡が出土して溝の設営時期がほぼ確定できる。
木簡は、壬午年(天武11年、682)から癸未年(天武13年、684)が記されているもの、及び進大肆(天武14年に制定された冠位)が記されているものがあり、天武14年すぎまでまだ溝があったことがわかる。
【藤原京の設営は天武11年に意思決定された】
日本書紀には天武11年3月1日条に、「三月甲午朔、命小紫三野王及宮內官大夫等遣于新城令見其地形、仍將都矣。(小紫三野王と宮內官大夫を新城に派遣しその地形を実地検分し、その結果そこに都を造ることを決めた。)」、と記されている。
日本書紀の記述と藤原京の発掘結果との一致を見たのである。
ここに記された「新城」が藤原京のことであることは確定としなければならないであろう。
古代史においてこれほど一致したことをまだ学問的に確定したわけではないといい始めたら何も確定することはできなくなってしまう。
日本書紀の記述と、考古学的な発掘(とくに木簡の発見)は相互に利害があるものでも打ち合わせをしたわけでもない。
それぞれがそれぞれの事情で存在していたものが1300年後の今日に照らし合わせてみると矛盾なく説明することができるのである。
藤原京は天武11年頃に意思決定されて上記したような順序で設営されていったのである。
遷宮は日本書紀には持統8年(694)12月6日とあるが、このことの真偽は上記とは別に考えなくてはならない。
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朝日カルチャーセンター
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忘却について本日、朝日カルチャーセンターで面白い話を聞くことができた。
遠山美都男氏の講義「日本書紀を読む」で、
畑村洋太郎著「未曾有と想定外」のなかに、
人間の忘れっぽさの法則性が書かれていることが紹介された。
それによると、
人は三日坊主という言葉にあるように「三日」で飽きてしまい、
大概のことは「三か月」もすると忘れてしまう。
かなりつらい体験でも「三年」でかなり忘れてしまうという。
それが個人ではなく組織の場合はもっと長続きするが、
「三〇年」もするとほとんど忘れ去られてしまう。
日本書紀は720年(養老4年)に完成した。
学者によると推古帝以降はかなり信頼性があると評価されている。
しかし「大化の改新」は645年で書紀の完成より75年前の出来事、
実録的だとかドキュメント性が高いと言われている、
「壬申の乱」(672年)でさえも48年前の出来事で、
人々の記憶がかなり薄くなった後に書かれている。
遠山美都男氏は、
「そもそも日本書紀に実録性だとかドキュメント性などというものを
望んではいけない。」
と言っていた。
全く同感である。
日本書紀を読む時の姿勢として、
そのこと(「大化の改新」や「壬申の乱」)が、
どういう意図で書かれたかを追及することが大切だと思う。
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