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職麻那那加比跪(ちくまなながひこ)と沙至比跪(さちひこ)は百済記に登場する倭国人である。
日本書紀は職麻那那加比跪を千熊長彦ではないかとする。
武蔵国出身で額田部槻本首の祖先らしい。
千熊長彦は華々しい活躍をしている。
倭国から朝鮮半島にわたり新羅を攻撃し七国四邑を平定し、百済肖古王と辟支山の上で同盟を結んでいる。
百済記の職麻那那加比跪の事跡として書かれていたものを基にして日本書紀が述作したのだろう。
職麻那那加比跪=千熊長彦は倭国と百済の親密な関係を作った英雄である。
将軍として登場するが、肖古王と同盟を結んでいる姿は倭国王のようでもある。
もしこの記述が史実であれば、後の日本が百済文明の影響を強く受けながら「近代化」していくことを考えると忘れることができない人物である。
なぜもっとこの人物について詳細な記述がないか不思議な気がする。
沙至比跪は葛城襲津彦と同一人物として扱われている。
沙至比跪は百済記では朝貢を怠った戒めで新羅国を攻撃に向うが、港で新羅の美女に出迎えを受けて惑わされて、攻撃先を加羅に変えてしまう。
そのことに関して天皇の怒りが消えないのを知って自害してしまう。
ところが葛城襲津彦としては応神十四年にも登場し、ここでも新羅に妨害されて来朝できない弓月君の一団を迎えに派遣されるが、3年経っても戻ってこない無能な使者の役回りで描かれている。
沙至比跪は職麻那那加比跪が英雄として描かれているのとは異なり、役に立たない裏切り者として登場している。
日本書紀の編纂者は沙至比跪=葛城襲津彦に悪意をもって記述しているとしか考えられない。
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日本書紀の中の百済
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百済本記 56 近畿天皇家は百済三書を活用した。日本書紀の中に朝鮮半島関係の記述がこれほど多いとは思わなかった。
神功皇后紀に記された百済記(逸文)から欽明紀の百済本記まで倭国内の出来事よりも百済及び百済の対倭国関係の記述の方がはるかに多いのではないかと思うほどだった。
おそらく倭国では文字の使用が一部の人に限られていたため十分に史料が残っていなかったのだろう。
さらに日本書紀を編纂した近畿天皇家には文字史料がほとんどなかったのではないだろうか。
したがって他の王朝の(特に九州王朝の)伝承を集めるだけ集めて近畿天皇家の歴史として焼き直したという気配が濃厚だ。
その中で百済三書は、日本が倭国時代に朝鮮半島の出来事に積極的に関与したことが鮮明に書かれているので近畿天皇家としては利用価値十分だと認識したよだ。
以前にも書いたが、
百済王は実名で出てくるのに、天皇の実名は一切出てこない。
おそらく日本書紀編纂者の手元にあった百済三書の原本には、「倭王某」のように実名が書かれていたことだろう。
百済の同盟相手だった筑紫の倭王の名前を書かずに、「天皇」と肩書だけ記すことにしたようだ。
百済聖明王が仏像や経典を献上した時にも、もし近畿天皇家の史実であるなら、
「百済王臣明、(仏教文物を)帝国(みかど)に伝え奉る」
などと言わずに堂々と、
「欽明帝に奉る」
と実名を出すべきところだろう。
さすがに偽りの述作に天皇の実名を出すことは憚られたのだろう。
欽明紀の終盤には、不時着した高麗の使者を近江でもてなしたことと、新羅に使者を派遣して任那を滅ぼした理由を問いただしたことが記されている。
欽明三十一年(570年)秋七月、高麗の使者は近江に到着した。
是月に許勢臣猿と吉士赤鳩を派遣して、難波津を出発し船を引き上げて狭狭波山を越え、船を飾りたてて、琵琶湖北岸まで迎えに行かせた。山背の相楽館まで船を引きいれて、東漢坂上直子麻呂、錦部首大石を派遣し、守護として高麗の使者をもてなした。
欽明三十二年(571年)春三月、坂田耳子郎君を新羅に派遣して、任那を滅ぼした理由を聞かせた。
翌夏四月十五日天皇は病の床に就き、その月に内寝で崩御した。
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百済本記 55 多元的王朝の存在の傍証このところの記事は、「日本書紀の中の百済」、『百済本記』というタイトルとはそぐわなくなっている。
欽明紀では百済中心の記述から、終盤になって高麗の帰化人に関する記述に変わる。
百済と倭国の連合軍によって王城が攻略されたということが記された後、高麗人の帰化説話が始まる。
戦乱によって荒らされた国土をさけて海を渡る人々が増えたのかもしれない。
本日取り上げる説話の中に漂着した高麗の使者に対して越の国の国造が偽って天皇を名のる件(くだり)が出てくる。
垂仁紀で都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)がたどり着いて、穴門であった人が国王を名のったという話が出ているが、この説話と類似している。
日本書紀を編纂した8世紀初頭の考え方からすると、「偽って国王を名のった。」と言わざるを得ないだろうが、都怒我阿羅斯等の頃はもちろんだが、高麗の使者がやってきた6世紀中葉の日本列島は、近畿天皇家や九州筑紫王朝が統一王朝を築いていたのではなく、多元的に各地に王国らしきものが存在した時代だったかもしれない。
したがって、偽って国王を名のったのではなく、それなりの意味で穴門にも越の国にも、国王は存在したと考えることは可能だと思う。
欽明三十一年(570年)夏四月、天皇は泊瀬柴籬宮に行かれた。
越人江渟臣裙代(えぬのおみもしろ)が京に詣でて奏上し、「高麗の使人が風と荒波に遮られて進路を迷い目的の港に行くことができず、波のまにまに漂流を続け岸に着いたので、郡司が保護した事を報告します。」と言った。
天皇は詔して、「私は即位してから今日に至るまでで、高麗の使いが初めて倭国の岸にやってきた。漂流して苦しんだようだが、何とか命を失わずに済んだようだ。天皇の良いはかりごとは広く行き渡り、高い徳はいよいよ盛んで、恵みの教化はあまねく行われ、天皇の広大な恩は至って遠くまで届くものなのではあるまいか。山背国相良郡に館を建てて、迎える準備を整えて厚くもてなしなさい。」と述べた。
是月に天皇は泊瀬柴籬宮より、東漢氏直糖児(やまとのあやのうぢのあたひあらこ)、葛城直難波(かづらきのあたひなには)を派遣して高麗の使いを迎えに行かせた。
五月には、膳臣傾子(かしはでのおみかたぶこ)を越に派遣して、高麗の使人に対するもてなしをさせた。
大使(高麗の使人)は膳臣が天皇の使者であることを知り、道君(国造)に対して、
「あなたが天皇でないことは私が疑いを持ったとおりでした。あなたは膳臣に対して、伏して拝礼をしていました。天皇の臣民であることがいよいよ明らかになりました。以前に私をだまして調貢品を奪って、自分のものにしてしまいましたがすぐに返してください。」
と言った。
膳臣はそれを聞いて、その調貢品を探させて使人に返した。
京に戻ってそのことを報告した。
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百済本記 54 高麗人の帰化実は日本書紀の中に引用されている百済本記(逸文)は欽明天皇十七年条で終わっている。
その後の部分にも倭国と百済が新羅と抗争を続ける場面が多く出てくるので百済本記に基づく記述がかなりあるものと思われる。
欽明二十三年八月条の倭国百済連合軍による高句麗攻撃で百済系の記述は一段落となっている。
欽明二十六年からは高麗人の帰化に関する記述が描かれている。
欽明二十六年(565年)夏五月、高麗人頭霧唎耶陛(づむりやへ)等、筑紫に投化し、
山背国に置り。
今の畝原、奈羅、山村の高麗人の先祖なり。
高麗人が筑紫に帰化したという。
日本書紀の注では、その後に出ている「山背国」は京都の山城国と解釈している。
したがって高麗人の住んでいる場所である「畝原」、「奈羅」、「山村」も疑いもなく山城国内の類似地名に比定しようとしている。
筑紫に帰化した高麗人が何故山城国に移されたのか定かではない。
もし実際に筑紫から山城国に移したのだとしたら、「山背国に置り」ではなく、移動を意味する言葉を使うのではないだろうか。
私はここで帰化したことになっている高麗人は筑紫のどこかに住みついたと解釈するのが自然だと思う。
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百済本記 53 鉄屋は長安寺に在り。七月に倭国と百済の連合軍はは新羅に大敗を喫したが、日本書紀ではそのすぐ後の八月に高麗を攻めて王の居る城を攻略している。
おそらくこれは欽明十一年の出来事を二十三年条に挿入したのだろう。
新羅に負けっぱなしでは恰好がつかないのでバランスを取ったのだろうか。
高麗の城を占領し城にあった宝物を戦利品として倭国に持ち帰っている。
その中に、
「鉄屋(くろがねのいへ)は長安寺にあり。是の寺、いずれの国に在りということを知らず。」
と出てくる箇所がある。
「鉄屋」と呼ばれる戦利品を長安寺にもちこんだが、日本書紀の編纂者は、
『私は長安寺がどこにあるか知りません。』
とあえてしらを切っている。
この箇所について、
古田武彦は「邪馬壹国の論理」で次のように指摘している。
『日本書紀』欽明記に不思議な記事がある。
〇(欽明二十三年八月)(天皇は狭手彦(さでひこ)を遣わして、高麗を伐たしめ、その戦利品として
「鉄屋(くろがねのいえ)」をえた、との記事のあとに)
〈A〉鉄屋は長安寺に在り。
〈B〉是の寺、何(いず)れの国に在りということを知らず。
いかにも「長安寺を知らぬやつは、もぐりだ」
と言わんばかりの口ぶりだ。(A −−旧注)
ところが、『書紀』の編者は一切、
その寺について知る所がないのである。(B −−新注)
これはどうしたことだろう。
ところが、
「朝倉社恵蘇八幡宮・・・社僧の坊を朝倉山長安寺といふ。(注)朝闇寺 なるべし」(大宰管内志)
このように、筑紫の朝倉郡には問題の「長安寺」があったのだ
(長沼賢海著『邪馬台と大宰府』参照)。
どうやら、わたしたちは筑紫のいたる所に九州王朝の遺跡を眼前にしなが
ら、かたくなにこれに目をつぶってきたのではあるまいか。
古田武彦はこの時期(6世紀中葉)に、百済と連合していた倭国は九州王朝であり、
ここに出てくる長安寺の所在が筑紫の朝倉だったことはその証拠になると言っている。
この部分をざっと訳してみると次のようになる。
(欽明二十三年、 562年)八月、天皇、大将軍大伴連狭手彦(さてひこ)を遣わして、
兵数万を率いて高麗を攻撃させた。
これは百済の作戦で百済と共に高麗を攻略した。
高麗王は墻(かき)を飛び越えて逃げた。
狭手彦は勝った勢いで宮中に入り、宝物、七織帳(七色の糸で織った錦帳)、鉄屋を奪って(倭国に)帰還した。
旧本に云はく、鉄屋は高麗の西の高楼の上に在り。
織帳は高麗の王の内寝に張れりといふ。
七織物を天皇に奉献した。
甲(よろひ)二着、金飾の刀二口、青銅製の鐘三口、五色の幡二竿、美女媛媛は名なりとその従女を蘇我稲目宿禰大臣に送った。
大臣は二人の女性を召しいれて妻として軽にある曲殿に住ませた。
鉄屋は長安寺に在り。是の寺、何の国に在りといふことを知らず。
一本に云はく、十一年に、大伴狭手彦連、百済と共に、
高麗王陽香を比津留都(ひしるつ)に駆ひ却く(おひしりぞく)といふ。
冬十一月、新羅は倭国に使者を派遣し、調賦を貢った。
使者は新羅が任那を滅ぼしたことを天皇が激怒しているのを知り、帰国を申し出ることができなかった。
罪に問われることを恐れて本国に戻らなかった。
その従者たちも同様に倭国に残り、摂津国三嶋郡埴廬(はにいな)の新羅人の先祖となった。
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