のんびりと古代史

自分なりに「削偽定実」を試みる。

日本書紀の中の百済

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百済本記 ⑫ 安閑紀、宣化紀

安閑帝と宣化帝の治世は2年、4年と短かったようだ。
したがって百済関係の記事もそれぞれ1件ずつ申し訳程度に記載されている。
安閑紀には安閑元年に、
百済の使者が「常の調」、いつもの貢物を持ってやってきたと記されている。
宣化紀には宣化二年に、「新羅が任那を寇した」ので、大伴金村大連が自分の子供の磐と狭手彦を派遣して任那を助けたことが記されている。
磐は筑紫に留まって筑紫国の政治を摂り仕切り、狭手彦は任那まで行って任那を鎮めて、百済を救ったという。
 
この段階では大伴金村大連の勢力はまだ健在だったようだ。

百済本記 ⑪ 古田武彦の論証

継体帝崩御年の「3年のずれ」問題。
日本書紀の本文では、「継体二十五年、辛亥、531年崩御」となっており、
注で、「百済本記を取りて文を為(つく)れるなり。」としている。
また同時に日本書紀は或本(あるふみ)の記述を紹介し、
「天皇、継体二十八年、甲寅、、534年崩御」
という記録の存在を伝えている。
さらに百済本記には、「日本の天皇及び太子・皇子、俱に崩薨りましぬ」
と書かれていることも日本書紀は伝えている。
これらのことを小字の注で記述した後、最後に、
「後に勘校(かむが)へむ者、知らむ。」
と、書紀の編纂者は自分の記述の不十分さ、不正確さ、不誠実さを白状して、後の人の正しい判断に期待する文章で結んでいる。
このようなことを書かざるを得ないことに対して、歴史家としての良心が傷んだのかもしれない。
 
古田武彦は「失われた九州王朝」で、上記の問題に対して明確な見解を詳述している。
古田は、百済本記に書かれていたという、「継体二十五年、辛亥、531年崩御」と、
「日本の天皇及び太子・皇子、俱に崩薨りましぬ」の記述は史実を表していると認めたうえで論を進める。
何故なら、百済本記の成立は6世紀後半で日本書紀よりも150年も前に書かれている。
また国外史料である百済本記は日本の出来事について虚偽の記述をする理由がない、とする。
古田は、「3年のずれ」問題が解決できない理由として、昔から日本の歴史家たちは、「日本天皇というと、近畿天皇家以外にないという不動の信念」で考えてしまうことにあると言う。
したがってこれまで論じてきた学者達は、この問題の矛盾点を、「百済本記が誤伝に基づいて書かれた」として、誤伝のいきさつの追及に全力を挙げている。
(日本書紀岩波版に紹介されている、平子鐸嶺説も喜田貞吉説も確かにそうなっている。)
古田は、百済本記で太子・皇子と共に崩御したのは、近畿大和の勢力だった継体軍に攻撃されて殺害された、「九州王朝の磐井天皇」だったとする。
中国や朝鮮の諸国と外交を行っていた九州王朝がすでに「日本」、「天皇」の言葉を使っていたことを文献資料で証明している。
日本書紀で「継体二十二年」の出来事とされている「磐井死亡」は、継体崩御年を三年溯らせたため(二十八年→二十五年)、百済本記にある通り継体二十五年に起こったことをやはり三年溯らせて記述したもの、(二十五年→二十二年)ということでこちらも辻褄があってくる。
 
日本書紀は7世紀後半の天武天皇の「削議定実」の号令で始まった、「皇国史観」基づいて構成されている。
したがって日本書紀の矛盾点や不可解な部分を解決する時は、日本書紀編纂のコンセプトである「皇国史観」から離れないとならないことが多いと思う。
古田武彦の「九州王朝説」はそんな時の問題解決に、『有効な補助線』として機能することが多いと感じている。

百済本記 ⑩ 継体帝崩御の真実

継体紀は、継体帝自身の伝記と百済本記を中心とする海外史料とのダブルスタンダードで作成されたのだろう。
最後の崩御に関する記述でそのことが述べられている。
 
(継体)二十五年春二月、天皇病甚し。
丁未(ひのとのひつじ)に天皇磐余玉穂宮に崩りましぬ。
時に年八十二.
或る本に云はく、天皇二十八年歳次甲寅に崩りましぬといふ。
而るを此に二十五年歳次辛亥に崩りましぬと云へるは、
百済本記を取りて文を為れるなり。
其の文に云へらく、
太歳辛亥の三月に軍進みて安羅に至りて乞乇城(こつとくのさし)を営る。
是の月に、高麗、其の王安(あん)を弑す。
また聞く、日本の天皇及び太子・皇子、俱に崩薨りましぬといへり。
此に由りて言へば、辛亥の歳は、二十五年に当る。
後に勘校へむ者、知らむ。
※小字は書紀の注。
 
日本書紀は継体帝の崩御を百済本記の記述に合わせて、
「継体二十五年、辛亥、531年」
にしたと述べている。
さらに注では、ある本によると、
「継体二十八年、甲寅、534年」
となっていることも認めている。
百済本記には、辛亥の年に日本の天皇及び太子・皇子が同時に死去したという記事があることを記している。
つまり辛亥の年に崩御した天皇は、災害、事故、疫病あるいは戦いなどによって、子供たちと共に亡くなったらしい。
日本書紀では継体帝は病の床で亡くなる直前に勾大兄皇子(安閑帝)に譲位しており、皇子と同時に死去した状況とはまったく一致しない。
安閑帝の即位は甲寅と記しているので、日本書紀の編纂者も実は継体帝の崩御は、「継体二十八年、甲寅、534年」と理解していることは間違いない。
百済本記の記述に合わせる都合でやむを得ず「継体二十五年、辛亥、531年」とせざるを得なかったのだろう。
それは何故か?
前回書いたように、百済本記に登場している天皇は大和朝廷の継体天皇ではなく、おそらく、筑紫国で天皇として君臨していた磐井天皇だったからではないのか。
磐井天皇だとすれば、百済本記が言うように、皇子たちと共に死亡したとしても全く不思議ではない。
継体軍によって殺害されたのだから。
日本書紀の注には最後に、「後に勘校へむ者、知らむ」と書かれている。
後の人に対して、他の史料と比べ合わせて正しく理解してほしいと言っている。
事情があってここでは本当のことは言えないが、後の人が誤りを正してくれることを期待しているということだろう。
 
(To be continued)
 
 

百済本記 ⑨ 継体紀の不思議

日本書紀の編纂方針には理解できないことが多々あるが、継体紀における「近江毛野臣の失態」の記事は、その重要性(の低さ)に比べて、ページを割きすぎているのではないだろうか。
「重要性」の認識が違うのかもわからない。
日本書紀岩波文庫版で、継体紀は全部で約48ページ。
そのうち近江毛野臣の朝鮮における調停の失敗に関する記述は12ページほどを占めている。
近江毛野臣が新羅の任那侵略事件を調停するために出向き、仕切りの悪さのためにかえって新羅を怒らせてしまい、さらにほかのエリアまで侵略されてしまった事が
記されているのだが、継体紀の1/4を占める内容とはとても考えられない。
近江毛野臣のふがいなさを描くために、なぜ国史である日本書紀が使用されなければならないのだろうか。
日本書紀編纂時において、ここまで排除しなければならないほど近江毛野臣の存在感は強かったのだろうか。
 
継体二十四年秋九月、任那の使いがやってきて困り果てた様子で訴えた。
「毛野臣は久斯牟羅に家を建ててもう二年も三年も居座っています。
仕事らしい仕事はせずに、日本人と任那人との間にできた子供の帰属についての争いを誓湯(クカタチ)で決めるので、火傷して死ぬ人が後を絶たない有様です。
人民を悩ますだけで、解決にはなっていません。」
この話を聞いて天皇は毛野臣を召還しようとしたが、
「まだ詔を伝えるという役目をはたしていないので、このままでは帰れません。
国命をなしてから、もどって謝罪したいのでお待ちいただきたい。」
と述べた。
しかし使者が先に倭国に帰ってしまっては、自分の罪が重くなってしまうので、使いの調吉士(つきのきし)を任那にとどめるために、伊斯枳牟羅城(いしきむらのさし)の防衛を命じた。
こんな有様を見ていた任那小国王の阿利斯等(ありしと)は、毛野臣がくだらないことばかりして、任那復興の約束を実行しないので、なんども帰朝するように勧めたけれど、毛野臣は帰還しようとしなかった。
そこで阿利斯等は毛野臣に背くことを決意した。
阿利斯等は新羅と百済に出兵するよう依頼した。
毛野臣は百済兵が攻めてくると聞いて、背評(へこほり)で迎撃したがすぐに破れた。
百済軍は新羅軍と一緒に毛野臣の居る城を取り囲んだ。
「毛野臣を出せ」と要求したが、毛野臣は城に引き込んだまま出てこなかった。
一か月ほど囲んだが、久礼牟羅城を築いて帰って行った。
帰る道すがら百済、新羅軍は合わせて五つの城を攻め取った。
ますます任那の領土は侵略されたことになる。
冬十月、調吉士が任那から帰ってきて報告した。
「毛野臣はやっていることがめちゃくちゃで、性格がねじれていて政治を行うには全く向きません。
結局赴任の目的だった新羅と任那の和解は成立せず、加羅をかく乱しただけです。
自分勝手であれこれ好きなことを考えて外患を防ぐことができませんでした。」
毛野臣を召還するために別の使者を立てた。
毛野臣は帰路についたが、対馬で発病して死んでしまった。
 
何とも救いのない話が、延々と倭国の国史である日本書紀に書かれている。
もしこれが大和朝廷の祖先の国の史実だとしたら、わざわざこんな恥さらしになるようなことを書くだろうか。
日本書紀の編纂者は、毛野臣が仕えていた倭国が大和朝廷ではないことを自明のこととして知っていたのではないだろうか。
毛野臣を派遣したのが本当に継体帝だとしたら、継体帝はかなり間が抜けた存在になってしまうだろう。
継体帝の事跡ではないこと前提にして対朝鮮政策の失敗を取り上げているのではなかろうか。(あるいは継体帝が倭国の天皇だったかである。)
 
例えば、毛野臣を派遣した天皇は、実は磐井(日本書紀では筑紫君と言われている)で、朝鮮政策の失敗によって、近畿大和の勢力から攻められた。
それが、「磐井の乱」ならぬ「継体の乱」だった、という仮説を立ててみると、継体紀に見られる歴年の矛盾なども理解しやすくなるかもしれない。
 
(To be continued)

百済本記 ⑧ 近江毛野氏の失敗

6世紀の任那は小国の連合体だったようだ。
したがって隣接する新羅や百済と頻繁に領土をめぐる争いをしていた。
今回は新羅に領土を侵された任那の一国が倭国に助けを求めてきた時の話。
倭国と新羅、百済との外交関係における認識の違いがよく表れており、当時の国際事情を知るうえで面白いと思う。
 
継体二十三年是月(四月)、来朝した任那小国王己能末多干岐の帰路、使者を同行させて、任那にいる近江毛野臣に詔した。
「任那王の言い分をよく聞いて、任那と新羅を和解させよ。」
詔を受けた毛野臣は新羅、百済両国の王を熊川(くまなれ)に呼びつけた。
新羅王佐利遅(法興王のことか)は久遅布礼を遣わし、百済は恩率(おんそち、官位のひとつ)の弥騰利を派遣して、二国とも王自身は来なかった。
毛野臣は非常に怒って両国の遣使を問い詰めた。
「小が大に仕えるのは天の道。新羅、百済が王でなく臣下を派遣してきたのは、大国日本に仕える道ではない。
どうして両国の国王は自らここに来て天皇の勅命を承らず、無礼なことに使いをよこしたのか。
たとえこれからあなた方の王が来ても、もう私は勅命を伝えずに追い返すだろう。」
と言った。
久遅布礼と恩率弥騰利は恐怖心を抱いて帰国し、王に報告した。
新羅は上臣(大臣)の伊叱夫礼智干岐に兵卒3000名をつけて派遣してきた。
毛野臣は新羅の兵が大挙して押しかけてきたのを見て、召集場所の熊川から退いて任那の己叱己利城に逃げ込んだ。
伊叱夫礼智干岐は多多羅原に留まって、倭国軍に礼を以て仕えずに勅使を待つこと3か月になった。
毛野臣は勅を伝えなかった。
伊叱夫礼智に率いられた兵士たちは周辺の村に食物を求めた。
毛野臣の従者河内馬飼首御狩の家に立ち寄った。
御狩は他の家に隠れて兵士が去るのを待って、拳骨で遠くから殴る真似をした。
その姿を見て兵士は言った。
「謹んで三か月待って天皇の勅旨を聞こうと思っていたが、毛野臣は勅旨を述べることを承知しなかった。
勅旨を聴きにやってきたやってきた使いを困らせているのは、結局は派遣された上臣を殺そうというつもりであることがわかった。」
その有様を上臣に報告した。
上臣はすぐに周辺の四つの村を略奪し、人や物を本国へ持ち帰った。
或る人は、
「多多羅などの四村が略奪されたのは毛野臣の所為だ。」
と言った。
 
この時代、百済も新羅も朝鮮半島内での争いを有利に進めるために倭国との関係を良好に保つにこしたことはなかった。
したがっていつも比較的倭国には低姿勢で臨んだのだろう。
それを毛野臣は勘違いした。
まるで百済も新羅も属国であるかのような錯覚に陥っていたのだろう。
中国が周辺の国を冊封体制に組み込んでいるように、倭国が両国の上位にあると思い込んだことがこの話の近江毛野臣の失敗の背景にありそうだ。
同じようなことを日本は現代史の中でもやっているような気がする。
 
(To be continued)

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