百済本記 52 死んでも生き恥はさらさず今日の説話は一転して死んでも敵の言いなりにならなかった武将の話。
それにしても倭国から海を渡って戦争に行く時に妻子を同行したのだろうか。
もしこれが史実だとすれば非常に興味深い風習ではなかろうか。
戦場に妻子連れとはあまり聞いたことがない。
河辺臣瓊缶副将軍と同じ時に捕虜になった調吉士伊企儺(つきのきしいきな)という人は勇猛な性格で最後まで降伏しなかった。
新羅の闘将は刀を抜いて切ろうとした。
伊企儺の袴を脱がせて、尻を日本の方に向けさせて、大きな声で、
「日本の将、私の尻を喰らえ。」
と言わそうとした。
伊企儺は、
「新羅王は私の尻を喰らえ。」
と叫んだ。
何度も強制されたが同じように叫んだ。
そのために殺されてしまった。
伊企儺の子の舅子(おじこ)もまた父を抱いて死んでしまった。
伊企儺は言葉の大切さを身をもって示した。
このことによって伊企儺は皆にその死を惜しまれた。
伊企儺の妻大葉子もまた捕虜となっていた。
伊企儺の死を悲しんで歌を詠んだ。
韓国の 城の上に立ちて 大葉子は 領巾振らすも 日本へ向きて
その歌に対して、ある人が答えて詠んだ。
韓国の 城の上に立たし 大葉子は 領巾振らす見ゆ 難波に向きて
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日本書紀の中の百済
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百済本記 51 河辺臣、屈辱を受ける日本書紀はなぜこんな書き方をしたのだろうか、という疑問を感じる説話である。
一国の史書を作るとき前王朝の最後の皇帝を不徳の王として描くことはよくあることだという。
しかしここでは任那を奪回に向った倭国の副将を将卒としての裁量もなく、男としての器量にも欠ける存在として表現している。
百済本記か新羅の史料に基づいて書いたものだろうが、それにしてもわざわざこんな悪意を持った書き方をしなくても良いのではないかと感じざるを得ない。
日本書紀編纂者の何らかの意図を疑わざるをえないところではある。
(副将)河辺臣瓊缶は軍を進めてさらに戦った。
向かうところを全て占領した。
新羅は白旗を挙げて武器を捨てて降服した。
河辺臣瓊缶は元々戦法のことをよく知らないので、白旗に向った進軍した。
新羅の闘将は、
「将軍河辺臣はもうすぐ降伏するだろう。」
と言って軍を進めて迎撃した。
鋭く攻撃し河辺臣を破った。
前線での戦死者が非常に多く、倭国造手彦は救いようがないと判断して軍を離れて逃げた。
新羅の闘将は鉾戟(ほこ)を手に持って追撃し、城の堀まで追いつめて攻め立てた。
手彦は駿馬に乗って堀を渡って辛うじて逃げた。
闘将は城の堀を望んで嘆き、
「久須尼自利。(意味不明、『畜生!残念』というくらいの意味か)」
と言った。
河辺臣は軍を引いて野営した。
ここではすでに兵士たちは河辺臣を軽蔑していて、軍の統率はとれていなかった。
新羅の闘将は自ら倭軍の野営の中に入っていき、河辺臣や同行していた婦人を捕虜にした。
河辺軍は父子夫婦でさえも相憐れむことができる状態ではなかった。
闘将は河辺臣に問いかけて、
「お前は自分の命とここにいる女性とどちらが大切か。」
と聞いた。
河辺臣は答えて、
「一人の女を大切にして、自分の禍を選ぶことはありえない。何といっても自分の命に勝るものはあろうか。」
と言った。
闘将はその女性を自分の妾にして、皆の目前で姧した。
女性は戻ってきた。
河辺臣は話しかけたが彼女は恥辱を受けて恨んでいるので、
「あなたは私を軽々しく売り払ってしまった。もう話すことなんかないわ。」
と言った。
従う気持ちはなくなっていた。
この婦人は坂本臣の女、甘美姫という。
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百済本記 ㊿ 『勝って兜の緒を締めよ』日本書紀は中国の文献の言い回しを使っている箇所があり、名文ではあるが、話の筋が見えにくくなることがある。
新羅に任那を占領された倭国が捲土重来軍を派遣するが、大将軍の檄が「呉志孫権伝」を用いて書かれている。
(欽明二十三年秋七月)是月、大将軍紀男麻呂宿禰を遣わして、兵を率いて哆唎から出陣した。
新羅が任那を滅ぼした状況を視察しようとした。
任那に到着した後、薦集部首登弭(こもつべのおびととみ)を百済に遣わし、新羅攻撃の軍事作戦を共にする約束をしようとした。
登弭は妻の家に宿泊した。
その途中封印をした機密の所信と弓箭を落としてしまった。
(それを拾った)新羅は(倭国と百済の)軍事作戦を知った。
すぐに大軍を送ったが、敗れ去り降服を申し出た。
紀男麻呂宿禰は新羅軍を打ち破った後百済の軍営に入った。
全軍に対して、
「勝っても敗けた時のことを忘れるな。安らかな時に危うい時のことを考えよというのは昔からの良い教えだ。今は山犬と狼がうろついている危険な場所にいる。軽々しい行いで後に難を受けることがないように気をつけろ。どんな平安な世の中でも刀剣を身から離すな。君子は武備を怠ることはないものだ。皆、このことを深く心に刻んで警戒するように。」
と言った。
兵卒たちは皆その命令に従った。
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百済本記 ㊾ 新羅の使者、帰国できず新羅が任那諸国を滅ぼした時に、倭国に貢物を持って派遣されていた使者がいたようだ。
使者は倭国に対して帰国を申し入れることができずに帰化せざるを得なかった。
欽明二十三年(562年)秋七月、新羅使者を遣わして調賦を献上した。
その使者は新羅が任那を滅ぼしたことを聞き、倭国の恩に背いたことを恥じて、あえて帰国することを求めなかった。
倭国に留まって帰らずに帰化した。
河内国更荒郡(さららのこほり)鸕(玆扁に鳥旁)野邑(うののさと)の新羅人の祖先となった。
「さらら郡うの邑」は、持統帝の名である鸕野讃良(うのさらら)と関連があるのだろうか。
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百済本記 ㊽ 倭国天皇、新羅を激しく非難する。任那を新羅に奪われた後、倭国天皇は詔を出して新羅を非難する。
神功皇后以来の恩を仇で返した卑劣な国だという内容だ。
詔の中身は梁書『王僧弁伝』の書き方を真似しているため、細かいところは難解でうまく訳すことができない。
欽明二十三年(562年)夏六月、天皇は詔して、
「新羅は我が国の西方の異族の小さな醜い国である。天に逆らって正常ではない。
我が国の恩を顧みず、官家を攻撃し滅ぼした。領内に住む人々を迫害した。
郡県を破壊した。
かつて気長足姫尊は天の恵を与えて、人々をいたわり養い育てた。
新羅が貧窮しているのを憐れみ、新羅王が斬首されるところを救い、要害の地を授けて新羅が栄えるように肩入れした。
倭国の気長足姫尊が新羅に対して薄い待遇をしたことがあっただろうか。
新羅は我が領内の人々に何の恨みがあるというのか。
しかし新羅は槍や弓を使って任那を攻撃し、武器で人々を殺害した。
内臓を裂き足を斬ることを楽しんでやめようとしなかった。
骨をさらして屍を焼いてもそれをひどいことだと感じないようだった。
任那の人々は殺されて屠られてしまった。
領地内の人々は粟を食べて、水を飲みながらこのような状況を耐えて心がさぞかし痛んだことだろう。
太子や大臣たちは人々と血のつながりがあるので恨みはなおさらのことだろう。
大臣の地位にあって自分を犠牲にしてその任に当たっていた。
彼らは世々、代々の帝の徳を引き継いで位についている。
それなのに誠意を尽くして反逆者を殺し、父祖の仇に報いることができなければ、死んでも道を為したとは言えないという思いでいっぱいだ。」
と宣われた。
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