百済本記 ㊼欽明二十三年(562年)春正月、新羅は任那官家を攻撃し滅ぼした。
一本に云はく、二十一年に任那滅ぶといふ。
総ては任那と言ひ、別ては加羅国、安羅国、斯二岐国、多羅国、卒麻国、古嵯国、子他国、散半下国、乞飡国、稔礼国と言う。合せて十国なり。
百済と戦争を繰り返し、外交の失敗(?)で倭国とも緊張関係を増した新羅がついに任那を攻撃し倭国の官家を滅ぼした。
任那滅亡については欽明二十三年説と二十一年説があると日本書紀は書いている。
三国史記には、新羅真興王二十三年(562年)九月に加耶が叛いたことに対して、新羅は異斯夫を将軍にして制圧したことが記されている。
|
日本書紀の中の百済
[ リスト | 詳細 ]
百済本記 ㊻ 新羅の使者、立腹する。日本書紀は「百済三書」などの百済系の史書をベースに書いている箇所が多いので、新羅は倭国と百済の関係に嫉妬して横槍を入れるヒール役を演じることが多い。
これまで当ブログで見てきた中でも、任那日本府の中には新羅と通じている役人がいたことがわかる。
実際には倭国が100%百済寄りで、いつも新羅、高句麗とは敵対していたということでもなさそうだ。
しかし今日これから見る欽明二十一年以降の出来事は百済寄りの外交姿勢を取る倭国に新羅が堪忍袋の緒が切れるほど立腹したエピソードである。
欽明十八年(557年)春三月、百済王子余昌が即位して威徳王になった。
欽明二十一年(560年)秋九月、新羅は弥至己知奈末(みちこちなま)を遣わして調賦を献った。
歓迎の宴や賜物はいつもよりも優れていた。奈末は大変喜び、帰国してから、
「調賦を献上する使者は国家にとって重要な役割なので、私情をもつことを軽んじて、賤しまなければならない。
使者は民の命に係わる使命があるので、選ばれた時はおごらずに自らを卑下していなければならない。
王の政治はこのこと(外交関係)によって支えられてきた。
今後は使者となる人は(私のように)良家の子息であるべきで、卑賤の人を使者にするべきではない。」
と言った。
欽明二十二年(561年)、新羅は久礼叱及伐干(くれしきばっかん)を遣わして調賦を貢いだ。
倭国の外客接待役の歓迎の宴は今までよりも質が悪かった。
及伐干は怒って、恨み骨髄に達して帰国した。
同じ年に、奴氐大舎(ぬてださ)を遣わして、前回久礼叱が持ち帰った調賦を献上した。
難波の大郡の迎賓館で外国の使者が揃った時に、外客接待役の額田部連、葛城直等は(新羅の使者を)百済の下位に列するように案内した。
大舎は怒って帰ってしまった。
客舎に入らずに船に乗って穴門に帰って行った。そこで穴門の客館を修理した。
大舎は、
「どの客のために造っているのだ。」
と問うた。
工匠の河内馬飼首押勝は、偽って
「西の方の国の礼をわきまえない使者を問責するために遣わされた使者を宿泊させる施設です。」
と言った。
大舎は帰国して言われたことを報告した。
そのことがあった後、
新羅は阿羅波斯山(安羅の波斯山)に城を築いて倭国の攻撃に備えた。
|
百済本記 ㊺ 渡来人向けの屯倉を設立本日取り上げる箇所は、必ずしも百済本記に関係があるとは言えない。
欽明紀では数少ない国内記事で、十六年七月条に続いてでてくる「屯倉」に関する記述である。
欽明十七年では帰化人の収容を目的とした「屯倉」の設立である。
この記事はこの時代に百済人だけでなく、高麗人も大勢渡来していたことを示している。
ここには何故か記載されていないが、新羅からも同様に多数の帰化人があったと思われる。
日本書紀編纂者は新羅と倭国のつながりを極力避けるようなところがあるようだ。
欽明十七年(556年)秋七月、蘇我大臣稲目宿禰等を備前児嶋郡に派遣して、屯倉を置いた。
葛城山田直瑞子を田令(屯倉の監督者)に任命した。
冬十月、蘇我大臣稲目宿禰を倭国高市郡に遣わして、韓人大身狭屯倉(おおむさのみやけ)言ふこころは韓人は百済なり、高麗人小身狭屯倉(をむさのみやけ)を置いた。
紀国に海部屯倉を置く。
一本に云はく、処々の韓人を以て大身狭屯倉の田部にす。高麗人を小身狭屯倉の田部にす。
是は韓人、高麗人を以て田部にす。因りて屯倉の号(な)とすといふ。
|
百済本記 ㊹ 王子恵の帰国に火君が同行した。先日の日本経済新聞(10月29日朝刊)に、福岡市外の元岡古墳群で見つかった太刀の19文字の銘文から、西暦570年を示す「庚寅」の干支が確認されたという記事が出ていた。
欽明紀には6世紀中ごろに暦博士が渡来してきたことが記されている。
この頃の倭国では暦はまだ王朝の周辺でしか使われていなかったとみられる。
この地域は、『筑前国嶋郡川邊里戸籍』(奈良国立博物館所蔵)のエリアに近く、戸籍に出てくる「肥君猪手』の勢力範囲だったと思われる。
この新聞記事と戸籍の存在は、今日取り上げる日本書紀の欽明紀十七年条とつなげて考えると、筑紫君=火君=肥君ということになるので、九州王朝の存在が浮かび上がってくる。
聖明王の死を報告に来た王子恵は約1年間倭国に滞在した。
倭国の王室との関係も良く人々からも慕われたようだ。
援軍や武器、その他多くのお土産を持って帰国することになった。
この箇所に引用されている百済本記には、筑紫火君は筑紫君の児火中君の弟であると書かれている。
古事記の「神武天皇条」には火君は神武天皇の皇子神八井耳命を祖とするとある。
神八井耳命は神武天皇と皇后伊須氣余理比賣の間にできた子である。
神武天皇の崩御後、神八井耳命は弟の神沼河耳命と組んで、庶兄の當藝志美美命(日向時代の神武天皇の子)を殺害する。
その際神八井耳命は手足が震えて殺すことができず、代わって手を下した弟の神沼河耳命が綏靖天皇として即位する。
その手足が震えて役に立たなかった神八井耳命が火君の祖とされている。
神武記によると神八井耳命は、意富臣、小子部連、坂合部連、筑紫三家連(火君、大分君、阿蘇君)、雀部臣、雀部造、小長谷造、都祁直、伊余國造、科野國造、道奥の石城國造、常道の仲國造、長狭國造、伊勢の船木直、尾張の丹羽臣、島田臣等の祖となっている。
百済本記にあるように、筑紫にある王朝の王家が火君でその王朝が神八井耳命の系統であるとすると、古事記に憶病者と描かれている神八井耳命は古事記編纂者が前王朝である九州王朝の象徴として神武記に書き込んだのかもしれない。
欽明紀に引用された百済本記によって7世紀の王朝交代について推論を立ててみた。
欽明十七年(556年)春正月、百済の王子恵は帰国を申し出た。
そこで倭国は兵器、良馬などを多数与えることにした。
また多くの賞を授与した。
人々は(恵の人柄を)褒め称えた。
帰路には阿倍臣、佐伯臣、播磨直を同行させて筑紫国の舟師を引率し、前後を守って百済国まで送り届けた。
それとは別に筑紫火君(百済本記に云はく、筑紫君の児、火中君の弟なりといふ)を派遣し、勇士1000人で守衛して弥弖港(みてこう、慶尚南道南海島)まで送らせた。
筑紫火君には港へ続く道の要害の地を守らせた。
|
百済本記 ㊸ 余昌、重臣たちに出家を申し出る。百済の皇子余昌は重臣たちがとめるのも聞かずに新羅に対する出兵を強行し、結果として父聖明王を死に追い込んでしまった。
聖明王の死に対して責任を感じている余昌は重臣たちに出家を申し出るが、そんなことでは聖明王の冥福を祈ることにならないと反対される。
欽明十六年(555年)八月、百済の余昌は諸臣たちに対して、
「私は亡くなった父聖明王のために出家して修道したい。」
と伝えた。諸臣達と百姓はそれに答えて、
「今君王は出家して修道に入ってしまおうと望んでいます。そうおっしゃるのは(新羅との戦いの前に余昌が)重臣たちの諌めを聞かないで新羅攻撃を決行し、聖明王の死を招いてしまったことを悔いてのことでしょうか。もとより百済国を高麗・新羅が滅ぼそうとしています。それは建国以来ずっと続いていることです。今この国の政をどの国に授けようというのですか。道理に合った勅を出してください。もしあの時老臣たちの諫言を聞いていればこうはならなかったはずです。前の過ちを改めるために出家するのはやめてください。聖明王の冥福を祈るためなら国民を出家させたらどうでしょうか。」
余昌は、
「わかった。」
と言った。
臣下たちに善後策を求めた。臣下たちは合議して百人を出家させてのぼりや旗を作り、いろいろな功徳を行った。
余昌は、
「こうなったのはあなたの責任だが、聖明王亡き後あなたが出家してしまったらこの国はいったいどうなってしまうのですか」
と重臣たちに諌められた。
今度は重臣たちの意向に従わなくてはならなかった。
|






