のんびりと古代史

自分なりに「削偽定実」を試みる。

日本書紀の中の百済

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百済本記 ㉜ 百済、新羅との関係悪化

欽明十二年(551年)に、百済は新羅、任那の連合軍で高句麗を攻撃し、漢城、平壌を含む旧領土6郡を奪い返した。
しかし1年後には、新羅真興王に漢城と平壌を奪われてしまう。
このことをきっかけに百済と新羅の関係はまた悪化していく。
 
(欽明十三年、552年)是歳、百済、漢城と平壌とを棄つ。新羅、此に因りて、漢城に入り居り。今の新羅の牛頭方(ごづはう)、尼弥方(にみはう)なり。地の名、未だ詳ならず。

百済本記 ㉛ 仏教公伝

仏教伝来については諸説があり、まだはっきり定まっていないようだ。
日本書紀では欽明六年(545年)と一三年(552年)に関連の記載がある。
欽明六年には「百済、丈六の仏像を造る。
― 中略 ― 
弥移居(みやけ)の国、倶に福祐を蒙らむ。」
百済から任那日本府へ丈六仏像が贈られたのだろう。
欽明十三年には、
「儒教よりも優れた法である仏教が倭国に普及することを願っている」、
という表文を添えて百済聖明王から倭国天皇へ仏像・仏具と経典が贈られたことが記されている。
高句麗や新羅と連携・抗争を繰り返していた百済聖明王は倭国だけではなく中国南朝の梁の援護も期待していた。
梁の武帝は仏教に心酔しており、日本府への伝播は武帝存命中(549年没)であり、
聖明王は仏教を東方へ伝播した実績で武帝の好感を得ようと企図していたものと思われる。
倭国では仏教公伝後、仏教受入れ派の蘇我氏と排除派の物部氏、中臣氏の対立が表面化する。
 
(欽明十三年)冬十月、
百済聖明王(更の名は聖王:百済本記には聖王と記されていたのだろう。)は、
「西部姫氏達率怒唎斯致契等を遣して、釈迦仏の金銅像一体、幡蓋若干、経論若干巻を献る。」
聖明王は使者に表文をもたせて仏教の功徳を礼讃している。
「この法はいろいろな法の中で最も優れています。理解しにくく入りにくいところがあり、(儒教の)周公や孔子でさえも知ることができませんでした。この法の及ぶところは限りがないようです。福徳果報をもたらし、さらには仏果を得て浄土に往生することができます。如意宝珠をもっているかのように祈り願うことによって心のままに満足を得ることができます。インドから三韓に至るまでどこでも仏教を信奉しています。
謹んで帝国(ここでは倭国のこと)に伝えることで浸透することを願っています。
仏(釈迦)が我が法は東に伝わらん、と記していることを私は実行することになります。」
聖明王からの表文を読んで天皇は群臣たちに意見を求めた。
蘇我大臣稲目宿禰は、
「西隣の諸国が皆仏教を受け入れているのに倭国だけ背くわけにはいきません。」
と述べた。
物部大連尾輿と中臣連鎌子は、
「倭国の天皇が王として君臨しているのは百八十神を以て春夏秋冬の祭りを行っているからです。今さら外国から来た神を拝んだら国の神々の怒りを受けるでしょう。」
と言った。
天皇は、
「それでは仏像や経典を稲目に渡すので試しに礼拝してみるように。」
と伝えた。
蘇我稲目は喜んで小懇田(おはりだ)の家に安置し、向原の家を寺とした。
その後、国中に疫病が流行した。
多くの人が亡くなりなかなか治まらなかった。
物部大連尾輿と中臣連鎌子は、
「仏教を受け入れたためにこんなことになってしまった。元のように百八十神を敬えば治まるだろう。仏像や経典を投げ捨てて元通りにしようではないか。」
天皇は尾輿と鎌子の主張を認めた。
仏像を難波の堀江に流し、寺に火をつけて残らず焼き尽くした。

百済本記 ㉚ 新羅が高句麗と手を握った。

欽明十三年(552)夏四月、箭田珠勝大兄皇子(やたのたまかつおおえのおうじ)薨せぬ。
近畿天皇家にとって、嫡男の皇子が早世したことは大事件のはずなのに、日本書紀には一行記述されているに過ぎない。
先帝宣化天皇の皇女石姫皇后の第一子なのだから、順当なら皇位を継承していただろう。
 
五月、百済と加羅と安羅から使者が来た。
「高麗と新羅が連合して、我々の国と任那とを滅ぼそうとしています。救軍を派遣してください。先手を打って相手の不意を衝いて攻撃しようと思います。派遣軍の規模は天皇にお任せいたします。」
と奏上した。
天皇は詔して、
「百済王、安羅王、加羅王、日本府の臣が一緒になって使者を派遣し言ってきたことは了解した。任那と心を一つにして対処するように。そうすれば必ず天の恵みがあるだろう。また天皇の霊威も及ぶだろう。」
と言った。
 
朝鮮半島では、百済、新羅、高句麗がそれぞれついたり離れたりを繰り返して勢力争いを続けていた。
羅済同盟を結んでいるはずの百済と新羅だが、新羅が高句麗と手を握ったという情報に、百済と任那諸国が警戒して倭国に援軍を求めてきた。
 

百済本記 ㉙ 聖明王、高句麗を攻略する。

546年、安原王の死後に起こった高句麗の内乱以降、朝鮮半島の情勢は一変したようだ。
南下攻勢を強めていた高句麗が内乱によって弱体化し、百済、新羅は倭国の援軍を得て共同で高句麗と相対した。
551年には、百済はかつて(475年に)高句麗に奪われた旧領土6郡を取り返した。
 
欽明十一年(550年)夏四月、百済に派遣されていた天皇の使者が帰国することになった。
 
百済本記に云はく、「四月一日庚辰に、日本の阿比多還るといふ。」
 
百済王聖明は使者に対して、
「任那のことは詔勅を確実に実行しましょう。(親新羅派官人の)延那斯と麻都の扱いは全て天皇の勅に従います。」
と言って、高句麗の捕虜6人を献上した。
さらに使者本人に対しても捕虜1人進呈した。
全員爾林での高句麗との戦いで獲得した捕虜だった。
四月十六日に百済は使者を倭国に派遣し、高句麗の捕虜10人を献上した。
十二年春三月、天皇は返礼として麦種1千斛(さか)=10,000斗を百済王に賜うた。
是年に百済聖明王は新羅、任那と協力して高句麗を攻略し漢城(元の百済の都城=尉礼城)を取り返した。
聖明王はさらに高句麗を攻めて南平壌を陥落しかつて奪われた6軍を全て奪い返した。

百済本記 ㉘ 倭国→百済の所要日数は?

もし今回取り上げる日本書紀と百済本記の引用部分の記述を信用することができるとすれば、当時(六世紀中頃)倭国と百済は約1か月の期間を要して渡航していたことになる。
島伝いに海峡を渡り、沿岸沿いを目的の港まで休み休み進んだのだろう。
漕ぎ手の疲労を休めなくてはならない。
帆に受ける風向きを見なくてはならない。
潮の流れを見なければならない。
エネルギーを補給し、安全を確認しながら渡航したのだろう。
したがって、百済が倭国に戦争のために救援軍の派遣を求める時は、最速で2か月後にならないと援軍は到着しない。
準備などの期間を入れると半年から1年はかかったのではないだろうか。
 
欽明十一年(550年)春二月辛巳朔庚寅(10日)、倭国は使いを派遣し詔して、
(百済本記に云はく、「三月十二日辛酉に、日本の使人阿比多、三つの船を率いて、都下に来り至る。」という。)
「百済からの使者が伝えてきたこと(任那日本府が高句麗と密通していることか)についてはさらに詳しく説明したい。
(百済と日本府が協力して高句麗の侵略を防ぐことを)願ってやまない。
(日本府は)今まで通り変わったことはないようだ。
今回は日本府の状況を詳しく伝えるために使者を遣した。
また、百済の(日本府への使者だった)奈率馬武(なそちめむ)は王の最も信頼の厚い側近と聞いている。
王の考え方をよく理解して補佐している。
もし国家安泰を願い、官家として倭国天皇に仕えようと思うならば、馬武を大使として倭国朝廷に派遣してほしい。」
と言った。
重ねて詔して、
「北敵(高句麗)が侵略を繰り返していると聞いている。
矢を30具(1500本)賜へよう。1か所に集中して防御を固めるように。」
と述べた。
 
 
 
 

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