のんびりと古代史

自分なりに「削偽定実」を試みる。

日本書紀の中の百済

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

百済本記 ㉗

欽明九年六月、百済の当面の敵はいつの間にか新羅から高句麗に変わったようだ。
 
倭国天皇は百済に対して、
「その後の百済周辺の状況はどうか。高麗に侵略されていると聞いたが、任那と協力し合って以前のように攻撃を防ぐように。」
と言った。
七月、四月に来た百済の使者涼葉礼(けいせふらい)らが帰国した。
冬十月、倭国は兵士370人を百済に派遣し、得爾辛(とくにし、忠清南道)に城を築いた。
十年夏六月、百済の使者将徳久貴(しゃうとくこんくゐ)、固徳馬次文(ことくめしもん)らが帰国したいと言ってきたので、詔して、
「日本府官人(反百済派)の延那斯、麻都が高麗と密通しているかどうかの虚実を確かめている。援軍についてはそちらの要望通り、派遣せずに待機しているところだ。」
と伝えた。
 
任那日本府は百済だけではなく、新羅とも高句麗とも均等に関係を結ぶどっちつかずの外交姿勢をとっていたのだろう。

百済本記 ㉖

欽明八年(547年、百済聖明王25年、新羅真興王8年、高句麗陽原王3年)、百済は倭国に使者を派遣して救援軍の出動を依頼してきた。
朝鮮半島は激動の最中だった。
高句麗は内乱の末中夫人の子が即位し陽原王になった。
新羅は後に領土拡大を果たす真興王が7歳で即位して8年が経過していた。
541年にはそれまで任那領土などで戦争を繰り返していた百済と新羅が高句麗の南下に備えて羅済同盟を結んでいた。
欽明8年(547年)の百済から倭国に対する救軍要請は高句麗の南下に対してのものだったと考えられる。
 
欽明九年春正月にも百済が再度使者を派遣してくるというので倭国天皇は、
「(百済が)要望している救軍は必ず派遣するので王にそのように報告しなさい。」
と詔した。
夏四月、百済はまた使いを派遣してきた。
「先の使いが戻ってきて、天皇から救軍が送られてくるとの報告がありました。
天皇の恩詔を承って感謝に耐えません。しかし、新羅の援軍を得て高句麗軍を撃退した馬津城の役で捕まえた高句麗の捕虜から『安羅国と日本府が高句麗に百済侵攻を勧めた』と聞きました。状況から見ていかにもありそうなことです。事の真偽を確かめるために安羅国と日本府を呼びましたがどちらも来ませんでした。私は心底心配しています。伏してお願いしたいことは、天皇が自ら(日本府などの)罪科を取り調べていただくことです。救軍も今派遣されると安羅国と日本府に利用される可能性があるので、(事の真相がはっきりするまで)しばらくお待ちください。」
と言った。
それに対して天皇は詔して、
「(百済の使者が)言ってきたことを聞き、彼らが困っている様子を見ると、日本府と安羅が隣国(百済)の災いを救おうとしていないようだ。困ったものだ。高句麗に密通しているとは信じられないことだ。私が命令してもいないことを勝手にやっている。
百済王に報告してください。
襟を開いて帯を緩めてリラックスして静かにくつろぐようにと。もうこれ以上深く疑う必要はありません。任那と共に以前の詔の通り、北の敵(高句麗)を防いでそれぞれの領土を守ってください。私は安羅の地に兵士を派遣しましょう。」
と言った。

百済本記 ㉕ 高句麗の内乱 ⅱ

欽明七年(546年)是年条に高句麗の内乱の詳細が載っている。
百済本記に云はく、
「高麗、正月の丙午を以て、中夫人(くのおりくく)の子を立てて王とす。年八歳。
狛王に三の夫人有りき。
正夫人は子無し。
中夫人、世子を生めり。其の舅氏は麁群(そぐん)。
小夫人、子を生めり。其の舅氏は細群(さいぐん)なり。
狛王の疾篤するに及りて、細群、麁群、各其の夫人の子を立てむとす。
故、細群の死ぬる者、二千余人なり。」
といふ。
 
高句麗第23代国王香岡上王(安原王、あんげんおう:在位531年〜545年)が死の病の床に就いた時に、外戚同士の皇位継承争いが起こった。
正妻には子がなく、第2夫人(中夫人)と第3夫人(小夫人)の一族が我が子に後を継がせようと争い、内乱に発展した。
敗れた小夫人の一族細群の死者は2千人を超えたという。
 
安原王は百済聖明王と鎬を削っていた。
540年(高句麗安原王10年、百済聖明王18年、欽明2年)、百済は高句麗領内へ攻め込み、牛山城を包囲した。
安原王は精兵5千を派遣して百済軍を撃退した。
 
欽明七年条に百済へ馬を70頭送ったという記述があるが、以上のような緊迫した朝鮮情勢が背景にあったためであることがわかる。

百済本記 ㉔ 高句麗の内乱

欽明六年(545年、聖明王23年)、是年、高句麗に内乱が起こり多くの死者が出たという。
朝鮮半島の情勢に変化が生じてきた。
百済本記に云はく、
「十二月の甲午(20日)、高麗国の細群と麁群と宮門に戦ふ。
鼓を伐ちて戦闘へり。細群敗れて兵を解かざること三日。
尽に細群の子孫を捕へて誅しつ。
戊戌(24日)に、狛国の香岡上王(ぬたのすおりこけ)薨せぬ。」
といふ。
どうやら高句麗では国王の中夫人と小夫人の勢力が戦って中夫人が勝ち、小夫人の親族を皆殺しにしたということらしい。
夫人同士の争いの中で香岡上王は死んでいった。
 
七年春正月、前年にやってきた百済の使人中部奈率己連(ちうほうなそちこれん)等が帰国した。
その際馬を70頭、船を10艘賜った。
戦争状態にある百済は馬が必要だったのだろう。
馬を70頭運ぶためには10艘の船が必要だったということか。
同じ年の夏六月には百済から中部奈率掠葉礼(けいせふらい)等が派遣されてきて献調したという。
馬と船のお礼であろう。

百済本記 ㉓ 捨身飼虎

欽明六年冬十一月条に、次のような説話が紹介されている。
百済に遣わされた膳臣巴提便(かしはでのおみはすひ)は、妻子を伴ったいたが、息子(or娘)が百済の浜で行方不明になった。
捜索に行くと、虎の足跡があったので、甲を着て刀をもって追跡し巌岬で追いついた。
刀を抜いて向かうと虎は口をあけて迫ってきた。
巴提便は左手で虎の舌をつかんで右手の刀で刺殺し、皮をはぎ取って戻った。
欽明紀にこの話が挿入されている目的がよくわからない。
岩波版の注には、
「この話は金光明最勝王経捨身品の飢えた虎の話との関連が考えられる。」
と書かれている。
金光明最勝王経捨身品の飢えた虎の話とは、金光明経の「捨身飼虎」の話で、
釈迦の前身の王子が森で出会った産後の弱った母虎に自分の生き血を飲ませて元気づけて元気を取り戻した虎に身をも食われてしまう。
その結果母虎と生まれた子虎は助かったという話。
 
それにしても本文とのつながりはよくわからない。
今後の課題とすることにしよう。

.
記紀いっぱつ
記紀いっぱつ
男性 / A型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

Yahoo!からのお知らせ

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

話題の新商品が今だけもらえる!
ジュレームアミノ シュープリーム
プレゼントキャンペーン
ふるさと納税サイト『さとふる』
11/30まで5周年記念キャンペーン中!
Amazonギフト券1000円分当たる!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事