のんびりと古代史

自分なりに「削偽定実」を試みる。

日本書紀の中の百済

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百済本記 ㉒ 百済で丈六の仏像完成

欽明六年には百済、倭国の使者の往来が相次ぐ。
秋九月には百済は任那に中部護徳菩提(ちうほうことくぼだい)等を派遣して呉(中国南朝)の財を日本府の臣、及び任那諸国に贈った。
かつて卑弥呼が魏王から銅鏡100枚賜った時に魏の威光を示すために臣下に分け与えよ、と言われたように、百済も南朝梁のバックアップを得ていることを任那諸国に誇示したのかもしれない。
 
日本書紀では同じ秋九月に、「百済丈六の仏像を造る。」とある。
願文に、「丈六の仏像の功徳は大きい。この功徳によって天皇が徳を得て、任那諸国が繁栄することを願う。普天の下の一切衆生が解脱することを願って造った。」
とあるという。
 
この願文は日本書紀の創作だろう。
百済は自国の繁栄を願って仏像を造ったに違いない。
この仏像が造られたのは、所謂「仏教公伝」(欽明十三年)の7年前になる。

百済本記 ㉑ 聖明王の三策

(欽明五年十一月)聖明王は日本府及び任那諸国の代表者を百済に呼んだ。
彼らに対して任那復興のための協力を改めて呼びかけた。
「任那国と百済はその昔は子弟関係を結んでいた。
しかし最近では新羅の画策によって関係がくずれてきている。
今、倭国天皇の詔を受けて任那を復興し、昔のように百済と任那諸国の兄弟関係を復活しようではないか。」
と述べて、次の三策を提案した。
 
【任那復興のための聖明王の三策】
 ①新羅と安羅の間の大きな川(洛東江)は要害の地なので、そこに六城を建設し、倭国兵士と百済兵士を常駐させる。衣粮は百済が提供する。
 
②南韓に郡令、城主を置くことによって、新羅が高句麗と連携して攻めてくることを防ぐ。
 
③新羅と通じている吉備臣(的臣の間違いではないかと岩波版の注にある)、河内直、移那斯、麻都を任那国から帰任させる。
 
この三策の提案を受けた任那諸国の代表者たちは聖明王案に同意した。
 
聖明王は新羅勢力がこれ以上拡大することを何としても防ぎたかったようだ。
さらには新羅が高句麗と手を結ぶことは百済にとっては致命的なことだっただろう。
その二つに対する施策の重要性はよく理解できる。
しかし3番目の日本府の官僚を変えてほしいというのは施策というよりも天皇に対する直訴と言った方が良いレベルのこと。
それをあえてここに挙げたということは聖明王がいかに彼らに対して腹に据えかねていたかをよく表していると言えるだろう。
日本書紀では、倭国と百済は親密な関係を続けていたように書かれているが、現地では決してそうとばかりは言えなかったようだ。
 

百済本記 ⑳ 聖明王、再度任那復興を企図する

百済聖明王は倭国天皇に上表文で任那を再興するためには、新羅と内通している
日本府の河内直、移那斯、麻都などを帰任させて欲しい、と申し入れたが、どうやら倭国の朝廷からは良い返事を得られなかったようだ。
おそらく倭国は任那問題に関して百済一辺倒ではなく百済と新羅とのバランスを取りながら拠点を維持しようとしていたのではないだろうか。
百済サイドから見た見解は「百済本記」(逸文)が日本書紀に紹介されているのでよく理解できるが、新羅側が任那問題をどうとらえていたのかは残存史料ではよくわからない。
新羅は任那と完全に対立状態にあったわけでもなさそうだ。
 
(欽明五年)冬十月条に、百済本記が引用されている。
「百済本記に云はく、冬十月に、奈率得文、奈率奇麻等、日本より還りて曰へらく、奏す所の河内直、移奈斯、麻都等が事は、勅無しといへりといふ。」
 
聖明王は日本府、安羅、加羅、多羅、子他、久嗟の代表者を百済に集めて、倭国天皇の詔書を見せながら言った。
「倭国の天皇に使いを送ったところ天皇から、『早く任那を再興せよ』と言われた。皆さんの意見を聴きたい。」
それに対して、集まった代表者たちは、
「任那再興は大王(聖明王)の決意いかんにかかっている。我々は王に従うだけだ。」
と言った。
 
 

百済本記 ⑲ 聖明王の上表文

百済聖明王は倭国天皇の詔勅による任那復興に対して、任那や日本府が非協力的なので、倭国天皇に上表文を出して、日本府の役人が任那復興に真剣に取り組もうとしないことと新羅と内通している実態を報告し、役人たちを実名を挙げて告発した。
上表文の内容の概略は以下のようなものである。
 
●百済は天皇の詔勅に従って任那を再興しようと日本府に協力を呼びかけた。
●再三要請したが、任那及び日本府加羅の協力は得られなかった。
●日本府には、阿賢移那斯(あけえなし)、佐魯麻都(さろまつ)という名前の親新羅派の役人がいて、任那は彼らの指示に従っている。
●その二人は新羅に通じていて、日本府の政治を思いのままに牛耳っている。
●二人の考え方は新羅寄りなので、彼らを排除しない限り任那復興はできない。
●彼らを排除した後で、日本府と任那に対して再度任那復興を命令して欲しい。
●私は、前の詔勅で日本府の的臣(いくはのおみ)、吉備弟君臣、河内直等が新羅と通じていることが天皇の命令によるものではないことを知って安心した。
●新羅はかつてトクジュンを侵略した。侵略した後、安羅の近い地域は安羅が、新羅に近い地域は新羅が管理した。このことを的臣は自分が新羅と交渉した成果だと主張して天朝を欺いている。新羅派の的臣が日本府にいる限り任那復興は難しい。
●佐魯麻都は日本府の役人であるにもかかわらず新羅の冠衣を身にまとい、はばかることなく新羅と行き来している。
●トク国は国王が加羅国(任那)を裏切り新羅に内通したため滅ぼされた。
●卓淳も同様に国主が新羅と内応していたために滅びた。
●日本府の麻都たちは新羅と通じている。彼らに任せていれば任那は滅亡する。
●彼らを早く日本府から追い返してほしい。
 
新羅と鎬を削る百済聖明王にとって倭国天皇からの任那復興の詔勅は新羅に一矢を報いる絶好のチャンスだった。
ところが肝心の任那及び日本府の役人が親新羅派となっているため、聖明王の思惑通りに事は運ばなかったようだ。

百済本記 ⑱ 聖明王と任那日本府

新羅勢力の任那領に対する侵攻を危惧する百済聖明王は、任那地域の状況を上表文によって倭国に報告した。
百済は倭国に新羅の侵略を止めるように再三使者を派遣して要請した。
それに対して倭国からは百済に任那の日本府に協力して侵略された旧任那諸国を
新羅から奪還するように詔が送られてきた。
百済王は臣下たちと協議を重ねた上で、任那と日本府の執事に対して百済まで来るように要請した。
しかしどちらも理由をつけて要請には応じなかった。
さらに再三の要請にも応じなかった。
そこで日本府と任那に使いを派遣し、天皇の詔書を見せて、
「詔に従って百済と共に任那復興に当たらなければ倭国へ行く使者がそのことを天皇に報告することになる」
と通告した。
とりわけ河内直(かふちのあたひ)に対しては、
「あなた方は昔から悪事の限りを尽くしている。そのことが任那を滅亡に向わせている。天皇に報告して本国に召還するようにお願いするつもりだ。」
と言った。
また日本府の管理に対しては、
「任那を復興するためには天皇のご威光を借りなければ実行することはできない。
百済は兵力、兵糧が足らないところを助けようと思っているが、兵を派遣する場所がわからない。相談しようとしてもあなた方が来ないのでできなかった。」
と述べた。
それに対して日本府と任那は
「我々は新羅に行って天皇の詔を聴くように言われたので百済に行くことができなかった。」
と返答した。
 
百済は倭国と共同して新羅に対して優位に立とうと意図しており、任那は百済とも新羅ともどっちつかずの外交を行っていたのだろう。
任那駐在の倭国官僚が新羅から賄賂を受け取っていたことがあったとしても不思議ではないだろう。
百済本記は倭国と百済の同盟関係をベースに書かれているが、当事者の任那は決して百済一辺倒ではなかったと考えられる。

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