百済本記 ⑰ 聖明王吠える ⅲ聖明王は第26代の百済王。武寧王の子。
在位は523年〜554年。31年間在位した。
治世の前半においては、新羅・倭国と連携を図って高句麗に対抗した。
しかし、高句麗の安臧王(あんぞうおう、在位:519年〜531年)の攻撃によって破れた。
その後、新羅との連携は南方の加耶諸国の領有をめぐって不安定なものになり、新羅との対抗上倭国への接近を強めた。
541年、任那復興を名目として新羅討伐を企図し倭国の介入を要請した。(任那復興会議)
以上はウィキペディアから抜粋したものだが、日本書紀欽明紀にある聖明王関係の記事にはこうした背景があるようだ。
(欽明二年秋七月)聖明王はまた任那日本府に対して、
「天皇は詔して、『任那がもし滅んだら、あなた方はよりどころがなくなるだろう。任那がもし再興されたら、助けられるだろう。今、任那を再興、復旧させてそこに住む人々を満足させなければならない。』とおっしゃりました。私は謹んでその詔勅を受けて、かしこまった気持ちで胸がいっぱいになりました。心を込めて誓いを立てて任那を再度繁栄させましょう。今後も永遠に天皇に仕える気持ちは昔と少しも変わりません。まず今やらなければならないことをやってから、後に安らぎを得ようではありませんか。日本府が詔の通りに任那を救うことができれば、天皇からお褒めをいただき、賞禄を授与されることは間違いありません。日本府の官僚の皆さんは長い間任那国に留まって新羅と境を接してやってきました。新羅の状況はよくわかっているはずです。任那を侵略することによって日本の圧迫を防ごうとするのは新羅の昔からのやり方です。今年に限ったことではありません。それなのに新羅が行動を起こさないのは、百済と日本の天皇を恐れてのことです。新羅は日本の朝廷にうまく取り入って、本心を隠して任那を懐柔しているのです。このように任那日本府を思いがけず喜ばせて侵略しないでいるのは、表面的に従っているように見せているだけです。我々は新羅のそのスキを狙って、新羅の防備が不十分な間に出兵して任那諸国を取り返そうではありませんか。天皇が詔勅で南加羅、トクトコンを奪還せよと言っています。新羅が天皇の命令を聞かないことはあなた方もよく知っているはずです。天皇の詔勅を実行に移して任那を再興しましょう。あなた方は新羅の甘言や偽りごとを受けて任那を滅ぼし天皇を辱めるようなことがあればそれはとても恐ろしいことです。そうならないように新羅に騙されないように注意しなくてはなりません。」
と言った。
百済は三韓の中では武力的に最も劣勢だったのだろう。
聖明王は朝鮮半島の緊張関係の中で、倭国を含めた周辺国との連携を模索しながら国威向上に努めていたようだ。
中国南朝の梁からも持節・都督・百済諸軍事・綏東将軍・百済王に冊封されている。
日本書紀に書かれているように、倭国にだけ従順だったわけではないようだ。
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日本書紀の中の百済
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百済本記 ⑯ 聖明王吠える ⅱ任那を侵略して勢力を伸ばす新羅に対して、警戒を強める百済聖明王は新羅駐在の任那特使を呼んで、新羅からの旧任那領土奪還を訴えた。
(欽明二年)秋七月、百済(聖明王)は、安羅日本府と新羅が通じ合っていると聞いて、使者を安羅に派遣して新羅に遣わされている任那の官吏を召還し任那再興を促した。
安羅日本府の河内直等が新羅と通じていることを指摘して責めて罵った。
百済本記には、加不至費直(かふちのあたひ)、阿賢移那斯(あけえなし)、佐魯麻都(さろまつ)等と書いてある。詳細はわからない。
(百済の使者は)任那(新羅特使)に対して、(聖明王の言葉として)
「昔、私たちの先祖の速古王(肖古王のこと)、貴首王と任那諸国の国王とは初めて和親同盟を結んで兄弟となった。それによって百済は任那諸国を子とも弟とも思い、
任那諸国は百済を父とも兄とも思っていたはずだ。どちらも(倭国の)天皇に仕えて協力して強敵を防いだ。その結果、国家安泰で今日に至った。改めて隣国の好を修めて同盟関係を強化しようではないか。きっとお互いにとって恩恵があるはずだ。今は何故当初結んだ時の志を失っているのかわからない。古人は言ったではないか、『追ひて悔ゆれども及ぶことなし。』と。上は天国から下は地の国に至るまで神に誓ってこれまでの罪を悔い改めようではないか。隠し事はやめてすべて明らかにしようではないか。誠意を以て自責することは大切なことだ。我々は、家督を継承する者は父祖の家業を受けて盛んにして家業を栄えさせて成功することを尊ぶ、と言われている。我々は先祖たちが結んだ和親同盟を尊重して、天皇の詔に従って、新羅に侵略された南加羅、トクトコン等を奪い返し再び任那領として、永遠に父として兄として日本に仕えようではないか。このことはいつも私の心を離れない。過ぎたことを悔やみ、今を戒めて、いつも気を配っていこうと思う。新羅が甘いことを言って欺こうとしていることは皆知っていることではないか。皆は騙されているのだ。任那の境界は新羅に接している。常に防備を固めて警戒を緩めてはならない。事実を曲げてだまそうとする謀略に引っかかって国を失い家をなくして新羅の捕虜にならないようにしよう。私は、新羅の謀略のことを思うと心配で心が休まることがない。任那と新羅の間で行われている謀略は災いの兆しだ。災いの兆しは今後の行動を戒めるために現れる。まさに天の告戒、先霊の徴表である。災いが起こって国が滅びてから悔いても後の祭りだ。今あなた方はわたしの言うことに従って、天の勅を聴いて任那を再興すべきだ。なぜ初めから何もできなかった時のことを心配するのか。自国を滅ぼさずに永遠に保ち民を治めようと望むなら、私の言うことを聞いて、新羅から奪われた諸国を取り戻そうではないか。」
残念ながらここにとりあげた日本書紀に紹介されている百済本記の文章も倭国(or日本国)の都合で造作されていることがうかがわれる。
しかし6世紀半ばの朝鮮半島の緊迫した雰囲気を感じることができる貴重な史料であることに変わりはない。
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百済本記 ⑮ 聖明王吠える。百済聖明王は、新羅に滅ぼされた任那諸国の使者たちを集めて、倭国天皇のもとに集結し、任那復興を成し遂げようと呼びかけた。
(欽明二年夏四月)聖明王は言った。
「私の祖先の肖古王、貴首王の世には、安羅、加羅、卓淳の諸国と使者の往来があって厚く親交を結んでいた。子弟関係にあっていつもお互いの隆盛を願っていた。
しかし新羅に欺かれて(任那への侵略を許し)天皇を怒らせてしまったのはわたしのあやまりだった。私は深く反省して使者を加羅に派遣して、任那日本府で同盟を結んだ。任那再興の思いは忘れたことはない。今、倭国天皇は『すみやかに任那を再興せよ』と詔している。私は諸国と力を合わせて任那を再興しようと思う。首尾よく遂行しよう。任那との境に新羅を呼んで、任那再興を承知するかどうか問いただそう。共に使者を倭国に派遣して天皇に謹んで奏上することを承知させよう。使いが帰ってくる前に、新羅がスキをついて任那を侵略したなら私が自ら行って任那を救いましょう。心配はいりません。しかし、守備を怠ってはいけません。またあなた方は卓淳らが受けた災難(新羅に滅ぼされた)を自分たちも受けるだろうと恐れているというが、新羅は国力が強いために侵略することができたわけではない。トクコトンは加羅と新羅の間にあって毎年攻撃されているのに、任那が救うことができなかったので滅ぼされた。南加羅は小国で自分で守ることができず身を寄せる国がなかったので滅ぼされた。卓淳は君臣の心が離れてお互いに疑い合い、国王が自ら新羅に内応して服従したために滅ぼされた。この三国が滅亡した理由は明確だ。新羅は高麗の援けを受けて任那と百済を攻撃したが、まだ勝利を得てはいない。新羅は独力で任那を滅ぼすことはできない。今私はここにいるあなた方と共に倭国天皇の霊威を頼りにして
力を合わせて任那を復興しようと思う。」
と述べた。
ここに書かれている聖明王の言葉は、日本書紀の編纂者によって、倭国(or日本国)に都合がよいように粉飾されていることは言うまでもない。
しかし百済にとって当面の敵は新羅であって、任那を侵略された倭国との同盟を強化することが、百済にとって緊急の課題だったことは、史実と見てよいのではないだろうか。
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百済本記 ⑭ 任那復興会議任那諸国が新羅に侵略されたことは、倭国だけではなく百済にとっても脅威として感じられたことだろう。
近江毛野氏の仕切りの悪さのために、新羅の任那侵略を拡大させてしまったが、再度日本天皇の意志として、任那諸国奪還のために、当該諸国の代表が百済聖明王のもとに集まった。
日本書紀では、
「欽明二年(541年)夏四月に百済の聖明王が日本天皇の意志として、新羅に併合された任那諸国(安羅、加羅、卒麻、散半奚、多羅、斯二岐、子他)の代表者と任那日本府の吉備臣を百済に呼んで、任那復興について討議した。
任那諸国の代表者たちは、『新羅と何度も交渉を重ねたが新羅からは何ら反応がない。
使いを倭国に派遣して天皇に奏上しましょう。
任那復興は百済聖明王の意志でもあり異議はありません。
しかし任那は新羅と境を接しており、卓淳国と同じ禍を受けて、滅亡させられる恐れがありますことを。』と言った。」
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百済本記 ⑬ 帰化人急増の欽明朝どうやら日本書紀は欽明帝を徳のある賢帝として描こうとしているようだ。
新王朝の始祖ととらえていたのだろうか。
真偽は定かではないが、一説には、継体帝崩御後、安閑帝・宣化帝の王朝と欽明王朝が対立し欽明帝が統一したとか。
欽明帝の「徳化」を求めて、
「(欽明)元年二月、百済人己知部(こちふ)、投化(おのづからまう)けり。
倭国の添上郡の山村に置(はべらし)む。
今の山村の己知部の先なり。」
百済人だけでなく、倭国に属していなかった蝦夷、隼人も徳化を求めてきたという。
「三月に蝦夷・隼人・並びに衆を率て帰附ふ。」
さらに、
「八月に、高麗・百済・新羅・任那並に使いを遣して献(ものたてまつ)り。
並に貢職脩(みつきたてまつ)る。
秦人、漢人等、諸蕃の投化する者を
召し集へて国郡に安置(はべらし)めて、戸籍に編貫く。
秦人の戸の数、総べて七千五十三戸。
大蔵掾(おほくらのふびと)を以て、秦伴造としたまふ。」
百済だけではなく、高麗、新羅、任那などからの渡来者が急増し、旧来の帰化人の秦人や漢人が新しく来た人々を集めて戸籍を与えて自分たちの傘下に加えたらしい。
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