のんびりと古代史

自分なりに「削偽定実」を試みる。

藤原不比等

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大津皇子の処刑

持統天皇称制前紀に大津皇子殺害の模様が記されている。
天武帝崩御の翌月(朱鳥元年、686年10月)、
大津皇子は、
謀反が発覚したとして逮捕されて処刑された。
皇子妃山辺皇女は、
髪をふり乱して裸足のまま、
皇子のもとに駆けよって殉死した。
その姿を見ていた人々は皆嘆き悲しんだという。
 
ももづたふ 磐余の池に 鳴く鴨を 
            今日のみ見てや 雲隠りなむ
 
万葉集(416)に残る皇子の辞世の歌である。
 
「詩賦の興、大津より始れり。」
日本書紀は大津皇子の文才を称賛し、
彼がいたから和歌作りが宮廷に広まったと述べている。
 
「容止墻く岸しくして(みかほたかくまがしくして)、
音辞俊れ朗なり(みことばすぐれあきらかなり)。」
日本書紀が皇子を表している言葉である。
謀反人に対して述べる文章としては異例である。
優れた天皇に対して使用する美辞麗句に匹敵する表現を用いている。
大津皇子と共に捕えられた人々は、
ふたり流罪になった以外は皆許されている。
日本書紀に記載されている、
数多くの濡れ衣による謀反事件の中でも
最も悪質にでっちあげられた謀略だったことを
近畿天皇家として公式に認めざるを得ないほど、
強引に実行された事件だったということだろう。
 
伊勢神宮に奉じていた
大津皇子の姉大来皇女が作った
弟の死を悲しむ歌が4首万葉集に載っている。(163〜166)
その中の一首、
うつそみの 人なる吾や 明日よりは
                二上山を 兄弟(いろせ)とわが見む
 
不比等に濡れ衣を着せることになってしまうかもわからないが、
歴史の流れから見て、
大津皇子殺害は持統帝と不比等の共犯ではないかと疑う人は多い。
8世紀の朝廷内にも大津皇子の死を惜しむ声が強く残っており、
日本書紀にも上記のように、
大津皇子を称賛する記述を載せざるを得なかったのではなかろうか。
持統太上天皇は702年に崩御しており、
大津皇子称賛の記述を不快に感じる人は
すでにいなかったのだろう。
 
次回は不比等が大津皇子抹殺を持統帝に提言した時に、
参考にしたと思われる3件の前例について見ていくことにしたい。
 
(To be continued)
 

The Way of 不比等

藤原不比等は、
律令政治を完成し、
天皇制を確固たるものとし、
さらに藤原氏の朝廷内での発言力の強化を達成した。
そのために考え抜かれた施策をいくつか実行している。
何かを行う時に、
不比等は過去の歴史の中に
その施策を正当化する実例を見つけようとする。
見つからない時には作り上げてしまうこともあったようだ。
このブログでも、
文武帝夫人となった娘の宮子の
後宮での立場を良くするために
日本書紀に「髪長姫譲渡説話」(応神紀)を、
地域伝承を基に作り上げて挿入していることを見てきた。
その他にも、
大宝律令の制定では、
天智朝の近江令、
持統朝に完成したとされる飛鳥浄御原令を
踏襲したという形をとっている。
持統帝が文武帝に譲位したのも、
過去に皇極帝が孝徳帝に譲位したことを前例にした。
あるいは皇太子制度がなかったといわれる推古朝に
日本書紀では聖徳太子を皇太子として英雄的に取り扱っている。
また文武帝を即位させた時には、
天智帝の定めた「不改常典」による直系皇位継承を
引き合いに出したものと思われる。
このように不比等は、
何か事を起こすときには決して自分が発案したことだとは言わずに、
これはすでに以前に行われていたことなんですよと
実例を挙げて周囲を説得するやり方をとっていたのだろう。
そのために「日本書紀」の編纂を最大限に利用したのではないだろうか。
日本の天皇制が紆余曲折を経ながらも現在まで継続しているのは、
大宝律令・養老律令において
天皇が政治的責任を負うことがない立場に位置づけられたことが
大きく影響しているのではないだろうか。
大宝律令は唐の「永徽令」、「開元令」を手本にして作成されて施行された。
その後不具合が改定されて養老律令が編纂されたようだ。
養老律令編纂までが藤原不比等の行った事績ということができる。
養老律令が実際に施行されるのは
約40年後不比等の孫の藤原仲麻呂の主導による。
大宝律令が完成した大宝元年(701年)の日本は、
697年に15歳で即位した文武帝を
持統太上天皇が後見する形をとっていた。
実際の最高権力は太上天皇にあったのではないだろうか。
日本で最初に本格的に施行された法律である大宝律令は
そのような状況の中で作成された。
 
梅原猛は「海人と天皇」の中で、
大宝律令・養老律令の特徴(特に唐の律令との相違点)について、
日本が女帝の時代だったことが影響していることを指摘した。
顕著な日本的特徴を3点挙げている。
 
1.退位した天皇が「太上天皇」として天皇と共に権力を維持して
 頂点に存在すること。
 大宝律令完成当時は、 持統太上天皇 ― 文武天皇
 養老律令完成当時は、 元明太上天皇 ― 元正天皇
 の2トップ体制だった。
 
2.日本の両律令には天皇・皇后の衣服規定がない。
 唐では祭祀・儀礼における皇帝の衣服について細かく規定されているが、
 日本では衣服規定の対象は皇太子以下になっている。
 両律令が完成した当時、女性の太上天皇が存在したこと、
 養老律令完成時は女帝で衣服を規定することがむずかしかったこと、
 元正帝はもちろんだが、文武帝にも皇后がいなかったこと、
 を反映している。
 
3.詔勅などの発行は、
 唐では尚書省、中書省、門下省があって、役割を分担し、
 三省の上に皇帝が支配者として独裁的権力をもつ仕組みになっている。
 日本では中書省、門下省がなく、
 一切の権力が太政官に集中している。
 天皇は太政官がすることを追認するだけで、
 権力的には有名無実となっている。
 
藤原不比等は女帝の時代だったことを制度に反映させて、
天皇家による絶対君主的支配の初期段階において、
天皇から政治支配の権限を奪い取ると同時に、
天皇に責任が及ばない制度を作り上げた。
「王は君臨すれども統治せず」
英国が流血を繰り返した後ようやく17世紀後半にたどり着いたことを
不比等は900年前の時代に、
すでに実現していたといえるかもしれない。
それは同時に藤原氏による実質的な支配の始まりということを意味していた。

日本国諸制度の整備

いろいろな考え方があると思うが、
701年の大宝律令の完成をもって、
日本国が名実ともに成立したということができるのではないだろうか。
白村江の敗戦(663年)で、
唐・新羅に対して劣勢を余儀なくされていたが、
大宝律令の制定で天皇を中心とした国家として
独立することを意思表示したといえそうだ。
養老律令の「儀制令」では、
外交においては天皇を「皇帝」と称するといっている。
これは大宝律令でも同じ考え方だっただろう。
つまり唐(当時は武周)の冊封体制に属さず
宗主国として独立したことを表明したことになる。
天武帝崩御後、持統帝の信頼を得た藤原不比等は、
唐の制度を真似て国作りを始めた。
国家の体裁を整えるために不比等は三つの事業を行った。
律令と都城と歴史の整備だった。
律令は大宝律令(701年制定)→養老律令(718年編纂完了)
都城は藤原京(694年遷都)→平城京(710年遷都)
歴史は古事記(712年撰録)→養老日本紀(日本書紀、720年完成)
この事業の進め方に不比等の周到さをうかがうことができる。
不比等は唐の制度を研究し、
国内で先ずプロトタイプと急いで作り上げて、
不具合を発見し修正して、
本格的なものを完成させるという手順を踏んだ。
養老律令の考え方は明治時代まで続いたといわれている。
 

黒作懸佩刀について

国家珍宝帳(東大寺献物帳のひとつ)には、
光明皇后が納めた亡き夫聖武帝の遺品のリストが記載されている。
その中に黒作懸佩刀(くろづくりかけはきのかたな)がある。
黒作懸佩刀とは、黒漆で鞘や柄を装飾した刀。
説明文によると、
この刀が日並皇子(草壁皇子)から
太政大臣(藤原不比等)を経て
大行天皇(文武天皇)、
大行天皇が崩じる時に太政大臣にわたり、
太政大臣が薨じる時に後太上天皇(聖武天皇)に献じられた、
と書かれている、という。
この通りの解釈だとすると、
黒作懸佩刀は草壁皇太子が持っていたものを
不比等を仲介に男王が継承したことになる。
元明帝、元正帝の女帝の時代には
天皇をサポートした不比等が預かっていたのだろう。
不比等が持統帝以来聖武帝即位に至るまでの天皇から
絶大な信頼を得ていたことがわかる。
 
ところで、天皇家には三種の神器の一つとして伝わる
草薙剣があったはずである。
この剣はどうなったのだろう。
日本書紀によると、
「(景行五十一年)日本武尊の佩せる草薙横刀は、
是今尾張国の年魚市郡(あゆちのこほり)の熱田社に在り。」
とある。
景行40年、東国を平定した日本武尊は尾張に戻り
尾張氏の娘宮簀媛を娶る。
その後荒ぶる神を倒しに伊吹山に向かう。
草薙剣は宮簀媛のところに残して出かけたという。
日本武尊の死後、剣は熱田社に奉納されたのだろう。
景行紀51年の記事につながる。
 
時代は大きく下り天智7年、
新羅の僧道行による草薙剣盗難事件が起こる。
「(天智七年)是歳、沙門道行、草薙剣を盗みて新羅に逃げ向く。
而して中路に風雨にあひて荒迷ひて帰る。」
日本書紀には草薙剣がどこから盗まれたのかは記されていない。
現在でも、熱田神宮は道行が盗み出した時に通ったとされる
清雪門は「不開門(あかずのもん)」として閉ざされたままとなっている。
道行は嵐にあって新羅まで戻ることができず、やむなく戻ってきた。
取り戻された草薙剣は、宮中に置かれるようになったものと思われる。
 
天武帝の朱鳥元年、病床に就いた天武帝を占うと、
草薙剣の崇りと出たらしい。
「(朱鳥元年六月)天皇の病を卜ふに、草薙剣に祟れり。
即日、尾張国の熱田社に送り置く。」
どうやら天武帝は、
三種の神器の一つである草薙剣との相性が良くなかったらしい。
少なくとも日本書紀はそう述べているように感じられる。
朱鳥元年に草薙剣は熱田社に戻されて以来
現在に至っていることになる。
 
天武紀に気になる記事が出ている。
「(天武四年三月)土佐大神、神刀一口を以て、天皇に進る。」
ここで天武帝に進呈された神刀が草壁皇子に伝えられたとすると、
土佐大神からの神刀が、
「黒作懸佩刀」の可能性があるのではないだろうか。

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