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不比等には最低4人の妻がいることがわかっている。
その中の二人は再婚である。
再婚と言っても不比等が再婚と言っているのではなく女性の方がである。
再婚で不比等に嫁いだ二人の歌が万葉集に残されている。
第二夫人の五百重姫(いおえのいらつめ)
大原大刀自(おおはらのおおとじ)とも藤原夫人とも呼ばれる。
藤原鎌足の子で不比等とは異母兄妹。
はじめ、天武帝に嫁ぎ新田部皇子を生んでいる。
その後(当然、天武帝の死後)、不比等に嫁ぎ四男麻呂を生んでいる。
万葉集には2歌掲載されている。
一つは、天武帝との掛け合いになっている。
万葉集巻二
明日香清御原宮御宇天皇代 天渟中原瀛眞人天皇
天皇、藤原夫人に賜へる御歌一首
103 わが里に 大雪降れり 大原の
古りにし里に ふらまくは後
藤原夫人、和へ奉れる歌一首
104 わが岡の 龗神(おかみ)に言ひて 降らしめし
雪のくだけし そこにちりけむ
天武帝と藤原夫人(五百重姫)は別居しているらしい。
天武帝は飛鳥に住み、
藤原夫人は大原大刀自と呼ばれるように、
大原の里に住んでいたのだろう。
飛鳥に降った大雪を見て天武帝は、
「こちらには大雪が降った。
貴方の住んでいるのは田舎の里だから、
降るのはもう少し先のことだろう。」
と歌を詠んで大原の藤原夫人に送った。
それに対して藤原夫人は、
「大原の里の水神に頼んで降らせた雪が
砕けてそちらにも降ったのですね。」
と言い返した。
藤原夫人の気が強く、機転が利く一面をのぞかせる面白いやり取りである。
もう一首は巻八の「夏の雑歌」の冒頭にある。
藤原夫人の歌一首
明日香清御原宮御宇天皇の夫人なり。
字を大原大刀自といへり。すなわち新田部皇子の母なり。
1465 ほととぎす いたくな鳴きそ 汝が声を
五月の玉に 相貫くまでに
「ほととぎすよ五月の節句の息災を祈る玉にお前の声を通すまで、
そんなに鳴かないでおくれ。」
五月の節句を前にして新田部皇子の息災を祈る歌なのだろう。
次に再婚で不比等に嫁いだのは
第四夫人の県犬養三千代。
橘宿禰姓を賜り橘三千代とも呼ばれる。
はじめ美努王に嫁ぎ葛城王(橘諸兄)佐為王、牟漏女王の三人を生んでいる。
美努王が大宰府に赴任すると不比等に嫁いだという。
不比等との間に、後に聖武帝に嫁ぐこととなる光明子を生んだ。
三千代の歌は巻十九に収められている。
光明子が聖武帝の皇子基王を生んだ時に、
聖武帝に献上した歌と言われている。
万葉集巻十九
太政大臣藤原の家の県犬養命婦(あがたのいぬかひのひめとね)、
天皇に奉れる歌一首
4235 天雲を ほろに踏みあだし 鳴る神も
今日にまさりて かしこけめやも
空の雲をばらばらに踏み散らす雷神でさえも、
今日の出産に立ち会っている時ほど怖くはありません。
天皇に嫁いだ娘が
無事に出産を済ませることができるかどうかを心配して
不安な時を過ごしていたことを歌っており、これも面白い。
出産の危険度が今とは比べものにならないほど高かったのだろう。
ましてそれが天皇の子となればことさらだったに違いない。
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藤原不比等
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藤原不比等が数多くの貴族・豪族の中から抜きんでて、朝廷内で確固とした基盤を築き上げた背景には、妻たちの存在を忘れることができないだろう。
奈良時代に名を残す子を生んだ妻だけでも4人いる。
子供たちの活躍した年代から推定すると4人は次のような順序で不比等に嫁いだことになる。
第一夫人:蘇我娼子(そがのしょうし、まさこ)、
第二夫人:五百重姫(いおえのいらつめ、大原大刀自、藤原夫人)、
第三夫人:賀茂比売、
第四夫人:県犬養三千代(橘三千代)。
彼女たちの子息がそれぞれの役割を果たしながら奈良時代を通じて藤原時代を築いていく。
それはあたかも不比等が書いた台本を演じているようにも見えてくる。
不比等は日本書紀で歴史を創り上げ、大宝律令で現在の制度を完成し、子供たちに天皇家と二人三脚で天下を操る未来を与えた、ということができそうだ。
第一夫人:蘇我娼子
蘇我馬子の孫蘇我連子(そがのむらじこ、611年?〜664年)を父とする。
不比等との間に、
長男:武智麻呂(むちまろ、680年〜737年、藤原南家家祖)
次男:房前(ふささき、681年〜737年、藤原北家家祖)
三男:宇合(うまかい、694年〜737年、藤原式家家祖)
がいる。
乙巳の変で中大兄皇子、中臣鎌足に滅ぼされた蘇我本家の血脈の娼子が鎌足の子不比等に嫁ぎ三人の息子を残したことによって引き継がれていく。
宇合は年齢が離れているため娼子の子ではないとの説もある。
第二夫人:五百重姫(いおえのいらつめ、大原大刀自、藤原夫人)
不比等の異母妹。
天武天皇夫人となって新田部皇子を生む。
後に不比等に嫁ぎ、
四男:麻呂(まろ、695年〜737年、藤原京家家祖)
を生んだ。
万葉集に2首(2−104、8−1465)収録されている。
第三夫人:賀茂比売(?〜735年)
賀茂小黒麻呂を父とする。(尊卑分脈、賀茂系図)
長女:藤原宮子(683年?〜754年、文武帝夫人、聖武天皇の母)
次女:藤原長娥子(ながこ、長屋王の妻)
梅原猛は小黒麻呂の娘では時代が合わないとの説をとって、不比等の妻ではない可能性を示唆している。
宮子の母として利用されただけということらしい。
第四夫人:県犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ、665年?〜733年)
三女:光明子(701年〜760年、聖武天皇皇后、安宿媛、藤三娘)
四女:多比野
を生む。(多比野については異説あり。)
三千代は先ず、草壁皇子の妻となった阿閉皇女(元明天皇)に出仕したものと考えられている。
文武天皇の乳母であったとも言われる。
生涯元明天皇の信頼を得ていたようだ。
美努王に嫁ぎ、葛城王(橘諸兄)、佐為王、牟漏女王の三人の子を儲けている。
葛城王は後に自ら望んで橘宿禰姓を継承したように三千代の影響が大きかった思われる。
諸兄は藤原四兄弟が天然痘で亡くなった後、聖武天皇を補佐して国政を担当する。
光明子は聖武天皇に嫁ぎ、皇室外の出身者として初めて皇后となり、孝謙天皇の母となる。
聖武天皇の皇后光明子と左大臣にまで昇進した橘諸兄、聖武天皇の時代を支えた異父兄妹の母である。
文武天皇の乳母として、宮子夫人の教育係として、光明皇后・橘諸兄の母として、不比等と共に平城京を動かした立役者だった。
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文武帝即位後に不比等が行った事績と関連事項を年代を追って見てみよう。
697年(文武元年)
8月 1日、文武帝即位(15歳)
8月20日、藤原朝臣宮子娘を夫人
紀朝臣竈門娘、石川朝臣刀子娘を妃
ここで同じ朝臣でありながら宮子が夫人、
竈門娘と刀子娘が妃となっていることをどう解釈したらよいか。
同じ朝臣でありながら格が藤原は劣っていたのか、
さもなくば梅原猛が言うように宮子娘は不比等の実の娘ではなかったのか。
701年(大宝元年、文武5年)
大宝律令完成
宮子夫人出産(首皇子=聖武帝)
702年(大宝2年、文武6年)
持統前帝崩御(58歳)
不比等は持統前帝の崩御によって
これまで後ろ盾となっていた存在を失うことになる。
だが、まだ20歳になったばかりの文武帝は
不比等を頼らざるを得なかった。
707年(慶雲4年、文武11年)
文武帝崩御
708年(和銅元年、元明元年)
元明帝(天智帝の娘、草壁皇子の妻、文武帝の母)即位
文武帝が25歳の若さで崩御すると、
母の阿閇(あへ)皇女が即位する。
異例である。
阿閇皇女は天智帝の娘で文武帝の実母なので
身分としては十分かもしれないが、
即位させるのは無理があったのではなかろうか。
不比等が画策したにちがいないだろう。
持統前帝の崩御後文武帝のバックアップをしながら
不比等は母の阿閇皇女の信頼を得ていたと考えられる。
712年(和銅5年、元明5年)
古事記撰録
713年(和銅6年、元明6年)
石川刀子、紀竈門を嬪から廃す。
714年(和銅7年、元明7年、元正元年)
この年に国史の編纂が命じられる。
首皇子立太子
元明帝譲位して、氷高皇女即位
おそらく2年前に完成した古事記に満足できなかったのだろう。
また同年、首皇子が立太子し、
元明帝は娘の氷高皇女に譲位している。氷高皇女は文武前帝の姉。
前年に宮子夫人石川、紀の二嬪を廃して、
ライバルとなる存在を消去した上で、
宮子夫人の生んだ首皇子を立太子させている。
718年(養老2年、元正4年)
養老律令完成
大宝律令で都合の悪いところを訂正したのだろう。
720年(養老4年、元正6年)
養老日本紀(=日本書紀)完成
藤原不比等死去
こうして見ると、律令と天皇の権威を縦横に操りながら
不比等が実質的な権力を把握していった過程がよくわかる。
最後の仕上げが日本書紀を完成で、
不比等の孫である聖武帝の即位の環境が整ったといえるかもしれない。
724年(神亀元年、聖武元年)
聖武帝即位(24歳)
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記紀の応神帝の条項に出てくる髪長姫説話がある地方(淡路風土記逸文として残る)に伝わる「髪長姫献上説話」からアレンジしたものであると考察を進めてきた。
8世紀初頭において力をつけてきた藤原不比等が、文武帝の配偶者とした自分の娘宮子の立場をよくして朝廷内でさらに勢力を伸ばす画策の内の一つだった。
それでは何故「髪長姫説話」に目を付けたのだろうか。
その答えは和歌山県日高郡道成寺に残る「宮子姫伝記」に隠されていた。
梅原猛は著書の『海人と天皇』の中で、
「宮子は不比等の実の娘ではなく、当地の海人の娘であり、その美貌を認められて不比等の養女となり、ついに入内し文武帝の夫人となって聖武帝を生んだという一見荒唐無稽な伝承であった。」
と述べてその真実性を探っている。
「宮子姫伝記」では、当地の海人の娘宮子がその髪が長いことと美貌により不比等に見出されて入内し、入内後故郷に残してきた千手観音像を祀るために文武帝に道成寺を建立してもらう物語になっている。
道成寺は文武帝勅願寺として現在に残っている。
不比等が文武帝に嫁がせた娘宮子は「宮子姫伝記」では髪長姫と呼ばれていたのである。
不比等が初めて天皇に嫁がせた髪長姫と応神帝が召上げて息子の仁徳帝に嫁がせた髪長姫、偶然名前が同じだったというにはあまりにも話の内容が共通しすぎているのではないだろうか。
宮子の朝廷内でのポジションを高めるために応神帝の計らいで仁徳妃となった髪長姫は宮子と同じような結婚をしているではないか、と主張するために正史の中に挿入したのではないだろうか。
記紀の髪長姫説話と道成寺の「宮子姫伝記」には、「髪長姫」と呼ばれていたこと以外にも
●地方の美女を召上げて入内させた。
●皇室外からの天皇の配偶者になる。
●入内後皇子に嫁いでいる。
等の共通性がみられる。
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応神紀十三年条の髪長姫の入内・結婚説話は
日向国諸縣君の髪長姫献上説話をアレンジしたものであると推論した。
では、何故記紀はそのようなことをしたのだろうか。
その背景には藤原不比等の利害が大きく関わっていたと思われる。
「続日本紀」文武天皇元年八月に、
「癸未、藤原朝臣宮子娘を夫人とし、
紀朝臣竈門娘、石川朝臣刀子娘を妃とす。」
とある。
この書き方を見ると、天皇の配偶者として
「夫人」の方が「妃」よりも位が高いように見える。
実際にはそんなことはない。
律令(養老律令か)では、後宮職員令に天皇の配偶者について定められている。「妃」は二人まで、内親王であること。
「夫人」は三人まで、三位以上であること。
「嬪」は四人まで、五位以上。
となっている。
最初の段階では上位にいた両妃(竈門娘と刀子娘)は
後に妃から嬪に降格となり
さらに和銅六年十一月には嬪すらも貶黜(へんちゅつ)されている。
続日本紀岩波版の補注によると、
石川刀子娘には文武帝との間に皇子広成(後に広世)がいたが、
母の姓を継いで石川朝臣といい、さらに高田朝臣と改姓した。
石川氏は蘇我氏の系統をひく名門で、
藤原不比等にとっては宮子夫人の子首皇子を即位させるためには
何としても脱落させなければならない対象だった。
8世紀の初頭にあって決して名門とは言えない藤原氏としては
文武帝の配偶者とした宮子夫人の皇室内での立場を高めて
外戚として勢力を伸ばすことが必要だった。
それはまた不比等の念願でもあった。
皇室外から文武帝に嫁いだ宮子夫人の正当化のために、
正史(記紀)の中に実例を求めることが必要だった。
そこで不比等は皇室から最も尊敬されている祖先である
応神帝の時代に皇室外から入内し仁徳帝の妃となった
髪長姫の説話を創作し挿入したのだろう。
(To be continued)
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