のんびりと古代史

自分なりに「削偽定実」を試みる。

藤原不比等

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乙巳の変と中臣鎌子

皇極紀三年正月条で日本書紀に華々しく登場した中臣鎌子の
次の出番は「乙巳の変」である。
皇極四年六月十二日条に乙巳の変は記されている。
大極殿で三韓(高麗、百済、新羅)から皇極帝への進調の儀式が行われ、
列席していた蘇我入鹿を
中大兄をリーダーとする一団が襲撃し斬り殺した後、
蘇我蝦夷邸を取り囲み蝦夷を自害に追い込んだとされる事件である。
皇極三年正月条で中大兄と中臣鎌子が親しくなり、
「大きな事を謀る」ために、
蘇我倉山田麻呂(入鹿の従兄弟)、佐伯連子麻呂、葛城稚犬養連網田を
仲間にしたことが述べられている。
この五人が乙巳の変の中核メンバーになる。
決行日当日の役割分担は、
●倉山田麻呂臣が上表文を読み上げる。
●中臣鎌子は俳優を手配して油断させて入鹿の剣を取り上げる。
●中大兄は門衛に指示して一二か所の門をすべて閉鎖させる。
●中大兄は槍を持って大極殿の側に隠れる。
●中臣鎌子は弓矢を持って背後に隠れる。
●佐伯連子麻呂と葛城稚犬養連網田は上表文を読み上げている時に入鹿に斬り  かかる。
倉山田麻呂が上表文を読み上げている間、
子麻呂と網田は入鹿の威を恐れて怖気づき
身動き取れなくなっていた。
背後にいた中大兄が「ヤアー!」と気合を入れて、
中大兄、子麻呂、網田の三人で入鹿を斬り倒した。
その場で皇極帝に対して中大兄が述べた入鹿の罪状は、
「鞍作、天宗たちを尽し滅ぼして、日位を傾けむとす。
豈天孫を以て鞍作に代へむや。」
中大兄が語った蘇我入鹿の罪状をそのまま解釈すると、
『蘇我入鹿は本来天皇になるべきだった(あるいは天皇になっていた)
山背大兄一家を滅ぼして、
自分が天皇になろうとしていたので殺害したのです。』
という意味にとれる。
蘇我入鹿のクーデターに対する
中大兄の反クーデターが乙巳の変であると
日本書紀は記述しているのではないだろうか。
それにしても中核メンバーが、
中大兄をはじめとして命を賭して行動している時に、
中臣鎌子は弓矢を持って後方でながめていただけなのか。
乙巳の変の最大の功労者として
大織冠を得た人物である中臣鎌子の
活躍の場がなかったのはどうしたことだろうか。
 
中臣鎌子連に対する日本書紀の表現は特別扱いである。
藤原不比等が藤原氏一族の朝廷内での立場を優位にするために、
その「始祖」である中臣鎌子を演出したものと考えられる。
天皇はそれぞれの巻の初めにその人となりを
中国の史書などから引用した美辞麗句で飾られていることがある。
8世紀の近畿天皇家にとって美化する必要がある天皇に対して
使われていることが多く決してすべてではない。
例えば、初代神武帝は、
「生而明達、意礭如也」
(あれましながらにしてさかし。みこころかたくつよくます。)
崇神帝は、
「識性聰敏。幼好雄略。
既壮寛博謹慎。
崇重神祇。
恒有経綸天業之心焉。」
(みたましひさかし。わかくしてををしきことをこのみたまふ。
すでにをとこざかりにしてひろくつつしみて、
あまつかみくにつかみをかたてあがめたまふ。
つねにあまつひつぎををさめむとおもほす。)
応神帝は、
「幼而聰達。玄監深遠。
動容進止。聖表有異焉。」
(いとけなくしてさとくいます。はるかにみそなはすことふかくとほし。
みすがたみふるまいのりあり。ひじりのしるしあやしきことあり。)
仁徳帝は、
「幼而聰明叡智。貌容美麗。及壮仁寛慈恵。」
(いときなくてさとくさかしくまします。みかたちみすがたうるわし。)
継体帝は、
「壮大、愛士禮賢。意豁如也。」
(をとこさかりにして、ひとをめでさかしさをうやまひて、みこころゆたかにまします。)
錚々たる歴代天皇を知恵を絞った美辞麗句で飾っている。
 
中臣鎌子は、美辞麗句で飾られている箇所がふたつある。
一つは鎌子を信頼する軽皇子(孝徳帝)の鎌子に対する認識として、
「中臣鎌子連之意気高逸容止難犯。」
(中臣鎌子連のこころばえのたかくすぐれてかたちなれがたし)
更に本文では、
「中臣鎌子連、為人忠正、有匡済心。」
(中臣鎌子連、ひととなりただしくして、ただしすくふこころあり。)
この本文の後に、
「蘇我入鹿が君臣長幼の序を失い」天下をうかがっているのを
鎌子は憎んでいると続く。
天皇以外で美辞麗句を与えられているのは、
日本武尊と神功皇后くらいではないだろうか。
ふたりとも天皇に次ぐ立場にある。
あの武内宿禰でさえもそのような修飾を施された痕跡は見当たらない。
日本書紀の記述が、
いかに藤原氏に身贔屓しているかを示す一例と言えるだろう。
日本書紀の最後を飾る天武帝、持統帝にも美辞麗句がつけられている。
天武帝には、
「生而有岐礙之姿。
及壮雄祓神武。能天文遁甲。」
(あれまししよりいこよかなるみすがたあり。
をとこざかりにいたりてををしくたけし。てんもんどんこふによし。)
持統帝は、
「深沈有大度」
(しめやかにしておほきなるのりまします。)
それに皇后時代を評して、
「雖帝王女、
而好禮節倹。有母儀徳。」
(みかどのみこなりといえども、
ゐやをこのみてみこころまたくみみへりたまへり。)
 
藤原不比等は持統帝に貢献することによって
右大臣にまで上り詰めており、
周囲には天武帝の子息である皇子達に囲まれている。
日本書紀の中にこのような配慮をするのは当然のことだろう。
それにしても中臣鎌子連については
よくもここまで露骨にやるものだと思うほどだ。
 
 
 

中臣鎌子のこと

藤原不比等の父親藤原鎌足は、
皇極紀三年正月条で中臣鎌子連として華々しく紹介されている。
歴代の賢帝と言われた天皇に勝るとも劣らない美辞麗句で形容されて登場する。
皇極紀三年正月条に記載されているが、
内容は「かなり以前からのことをまとめて書いたものである。」(岩波版注)
 
記載内容を箇条書きにすると以下のようになる。
●鎌子は神祇伯に推された時、「再三に固辞びて就らず」と辞退している。
日本書紀には天皇が即位する前に
「私にはそのような器量は備わっていない。」
と言って辞退するケースがいくつか述べられている。
ここもそれに倣った表現になっている。
●鎌子は軽皇子(後の孝徳帝)から絶大な信頼を得ている。
軽皇子は鎌子のことを
「意気高逸、容止犯難」
(心もちが高くすぐれており、身のこなし・ふるまいにすきがないこと)
と評していたと述べられている。
さらに本文では、
「中臣鎌子連、為人忠正、有匡済心」
(人となりが品行方正で正しい気持ちで世の中を救う心がある)
と持ち上げている。
その直後には、
対照的に蘇我臣入鹿が君臣長幼の序を失い
権力の座をうかがっていることが記され、
鎌子はそのことを憤っているとある。
●鎌子は天皇家の多くの人と接して哲主となる素養があるのは
中大兄しかいないと思っていたが近づく機会がなかったと前触れがあり、
●法興寺の蹴鞠の会で、
鞠をけった時に脱げた中大兄の靴を鎌子が拾って恭しく奉ったことをきっかけに
二人が親しくなったことが記される。
●蹴鞠の会の出来事の後、
鎌子と中大兄は急速に親しくなり信頼関係を強めていく。
腹を割って何でも話し合えるようになり、
周公・孔子の教えである儒教を南淵請安先生のところに通って学ぶ。
●鎌子は中大兄に蘇我倉山田麻呂の長女を妃にして、
倉山田麻呂を仲間に引き込むことを薦める。
中大兄も悦んで同意し鎌子が仲立ちとなって婚姻が成立した後、
長女は族(身狭臣)に偸まれてしまう。
憂いかしこまって絶望している倉山田麻呂に次女が
「姉さんに代わって私が嫁に行きましょう。」
と申し出て話は成立し倉山田麻呂は救われることになる。
この次女が後に大田皇女、持統帝の母親になる
蘇我山田石川麻呂女遠智娘である。
(暗に持統帝と藤原氏の結びつきを記述していることになる。)
●その他にも鎌子は
佐伯連子麻呂、葛城稚犬養連網田を仲間に引き込むことを
中大兄に推挙している。
 
以上のように乙巳の変の立役者たちが中臣鎌子のプロデュースによって勢ぞろいしたことが皇極紀三年正月条に述べられていることになる。
 
 
 
 
日本書紀、天武天皇十年三月に、
「天皇、大極殿に御して、(皇子、側近を集めて)、帝紀(すめらみことのふみ)及び上古の諸事を記し定めしめたまふ。(大山上中臣連)大嶋、(大山下平群臣)子首、親から筆を執りて以て録す。」
とある。
この記述が日本書紀のことなのか古事記のことなのか、
議論の分かれるところだ。
古事記については正史には全く出てこないという。
もしこれが日本書紀のことを指しているならば
「この時に編纂が始まった」
というような記述あった良いのではないかとも思う。
私はこれまでずっとこの条項は日本書紀のことを言っており、
日本書紀には天武帝、持統帝を始め元正帝に至るまでの
歴代の意志が入ることによって
約40年の間に編纂方針が何度も変更されて
ようやく養老4年(720年)の完成にこぎつけたと理解していた。
壬申紀などのボリュームや内容から
天武帝の意向を強く感じたことも一因だった。
しかし、もし日本書紀の編纂を最初から最後まで
藤原不比等主導で行ったとしたらどうだろうか。
周囲には天皇も皇子達も天武帝の血脈にある人たちであふれている。
彼らの反対を押し切って進行することはできないだろう。
藤原不比等としては、
8世紀初頭の近畿天皇家の正当性を確立して、
その中で藤原一族の優位性を担保することができればよいのである。
不比等の周りの皇族はほとんど舒明帝以降の血脈系列の属している。
万世一系の中で舒明帝から元正帝までの正当性が
特に強調されるような文脈にすればよい。
その中で藤原氏の祖となる中臣氏の貢献をさりげなく主張し、
対抗勢力となりそうな他の氏族をどこかで貶める、
という構成にしたのではなかろうか。
そう考えると、天武十年の記述は古事記(あるいはすでに失われた史書)であり、
書かれていた天皇家の系譜などは日本書紀に取り込むことができただろう。
古事記だとしても現存する古事記ではなく「原古事記」。
現在の古事記は後に修正されたものではないか。
藤原不比等は701年に大宝律令の制定を終えると、
次に取り組んだのが国史の編纂だった。
それが養老4年(720年)に完成した
「養老日本紀」=日本書紀だった。
以上のことを前提にしてしばらく考えてみようと思う。
日本書紀は編纂し始めたのがいつなのかはっきりしたことはわからないが、
最終的な責任者は藤原不比等だった。
日本書紀の完成も不比等の死も養老4年(720年)なので、
不比等の最後の業績だったということができる。
701年の大宝律令の制定と日本書紀の完成によって
近畿天皇家の支配体制と唯一無二の王家としてのブランディングが
確立したといえるだろう。
ここでは日本書紀の編纂を通じて、
藤原不比等が何を目指していたのかを探ってみようと思う。
藤原鎌足の子として生まれた不比等は
必ずしも順調に天皇家の中枢に入り込んだのではないようだ。
壬申の乱が終わり天武帝の時代にはほとんど目立った動きは見られない。
まだ30代前半だったという年齢的なこともあるが、
不比等が養われた田辺史氏が壬申の乱で
近江側に付いたことによる影響が大きかったのではないだろうか。
天武帝は壬申の乱を新羅のバックアップを得て勝利したとも言われ
新羅との関係も良かったし、新羅系渡来人たちを重用した。
田辺史氏は百済から渡来した氏族だといわれるが
そのあたりも不比等にとって天武帝時代に不利な材料だったかもしれない。
天武帝崩御後、後を継いだ持統帝は
我が子の草壁皇子を後継者に確定するために
対抗馬だった有能な大津皇子を謀反の罪をかけて処刑する。
大津皇子処刑によって持統帝と新羅の関係が急速に悪化したようだ。
その状況の中で百済系渡来人たちの人脈を駆使して
藤原不比等が持統帝の信頼を得て台頭してくる。
持統帝の最大の関心事は、
草壁皇子をはじめ自分の血脈で王統をつなげることだった。
不比等はその持統帝の意志に応えることができる理論構築を行った。
草壁皇子が早世した後、
まだ15歳と若年の持統帝の孫軽皇子を
文武帝として即位させることに不比等は貢献したのだろう。
即位と同時に自分の娘である宮子を文武帝に嫁がせている。
 
不比等が志向した日本書紀のコンセプトはなんだったのだろうか。
一つは、
近畿天皇家が日本の唯一無二の王家であることの正統性を確立することだろう。
次に、
外戚として藤原家が朝廷内で有利な立場を確立することがあっただろう。
3番目に、
天皇家をバックアップする存在として百済系氏族の優位性の確立。
不比等は田辺史家で中国の古典や仏教経典などの教育を受けていた。
持統帝の参謀となり百済系渡来人たちを組織化して
大宝律令を制定し、国家としての体裁を造り、
中国王朝の史書を参考にしながら
近畿天皇家の歴史を日本書紀の形にまとめ上げたということだろう。
 

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