のんびりと古代史

自分なりに「削偽定実」を試みる。

藤原不比等

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不比等の外交センス

和銅元年七月乙巳(15日)、
元明帝は議政官と五位以上の文武官を別々に御前に召して、
忠誠忠勤を要望する勅を下した。
文武帝崩御後政治情勢に乱れがあったためだろう。
この勅の直前に
「但馬・伯耆の二国疫す。」
「隠岐国に霖雨ふり大風ふく。」
とあって、
疫病と自然災害のことが記されている。
政治情勢に加えて社会全般に不安が広がっていたのかもしれない。
不比等は議政官の一人として御前に列したが、
この勅自体も不比等が仕掛けたものだろう。
 
和銅二年五月壬午(27日)、
来朝していた新羅使金信福を朝堂に招いて宴を催し、
新羅国王への賜物を託した。
同日に不比等は新羅使を庁内の別室に呼んで引見している。
不比等は、
「新羅国使は以前から入朝していますが、
今までは現職の大臣と会見することがありませんでした。
今日こうしてお会いしているのは
日本と新羅二国の友好関係をさらに深めたいと思っているからです。」
と述べた。
新羅使は恐縮して椅子から降りて拝礼した後に、
「我々使いは本国の卑しい身分の者です。
新羅王の命を受けて入朝させていただいているにすぎません。
それだけでも幸いだと思っているのに
こうして大臣に引見していただき、
目の当たりに拝顔できるとは思っても見ませんでした。
さらにありがたいお言葉をいただき伏して感激しております。」
と返答した。
 
藤原不比等のみごとな外交感覚が続日本記に記述されている。
武蔵国秩父郡から和銅が献上されてきたことを期して、
年号を「和銅」に改号した。
和銅元年(708年)正月の叙位で、
藤原不比等は石上朝臣麻呂と共に、
従二位から正二位に叙位されている。
 
和銅元年二月戊寅(15日)、
元明帝から平城京遷都の詔が出された。
和銅元年三月丙午(13日)、
平城京遷都を見すえて大規模な人事異動を行った。
この人事異動は大宝令の施行後満7年を経て、
大宝令に基づく官制がようやく整った頃合で行われた。
この施策を推進したのが不比等で、
この人事異動によってさらに地歩を固めたようだ。
(続日本紀一・岩波版:補注4−一六より)
この異動で、
右大臣正二位石上朝臣麻呂は左大臣に、
藤原不比等自身は大納言から右大臣に昇任している。
不比等は中納言時代より常に石上朝臣麻呂を前面において
自分が先頭に出ないように細心の注意をしているようだ。
マラソン的に言うと、石上朝臣麻呂を「風よけ」に使って
頭脳的なレースをしている。
 
慶雲元年(704年)正月、死去した右大臣阿倍朝臣御主人の後任に
石上朝臣麻呂が就任する詔が発せられた。
同じ大納言だった藤原不比等は
阿倍朝臣御主人と共に従二位に昇叙されたものと思われる。
 
慶雲四年四月には、ちょっと変わった詔が出ている。
前年に発病して死期が迫っていることを感じていた文武帝が
何とか生前に言っておきたいと感じて述べた詔ということらしい。
「藤原朝臣の朝廷に仕えている様子は、
今だけではなく以前から(天武帝持統帝の頃から)同様だが、
今も私の重臣として清い気持ちで私を支えて仕え、
大変重要な仕事をしてくれたことを感謝しているが、
病に伏してしまって万一のことがあると
今までのことに報いることができないので、
これまでの功労に対してよくやってくれたと思っていることを言っておきたい。
孝徳天皇にあなたの父の藤原大臣(鎌足)が仕えていたことに対して
昔建内宿禰命が仕え奉ったことと同じ功績として冠位授与、増封賜与された。
同様にあなたには大宝令の基準に従って
子子孫孫にながく伝えることができるものとして
食封5千戸を賜う勅命を宣する」
と述べた。
不比等は辞退したという。
結局3千戸減らして2千戸を賜わり、1千戸は子孫に伝えさせた。
 
死を覚悟した文武帝がお世話になった藤原不比等に
感謝の気持ちを伝えたいと思ったことは事実かもしれない。
しかし、藤原鎌足や建内宿禰までもちだして藤原不比等が
天皇家にに仕えた三大重臣の一人ということになっている。
国史に記述する内容としては少し露骨すぎる気がするがいかがだろうか。
 

大宝律令の完成

藤原不比等は大宝元年正月大納言大伴宿禰御行卒去に際し
喪事にて詔を代読している。
この時の位階は直広壱。
元年三月には大宝令(正式の完成は八月)の官名・位号と服制が施行されている。
施行によって中納言は廃止されて、
中納言だった不比等は石上朝臣麻呂、紀朝臣麻呂と共に大納言になった。
位号も正四位下から正正三位に上がっている。
 
大宝元年八月癸卯、三品刑部親王、正三位藤原朝臣不比等、従四位下下毛野朝臣古麻呂、従五位下伊吉連博徳、伊余部連馬養らをして律令を撰ひ定めしむること、是に始めて成る。
 
下毛野朝臣古麻呂は律令完成による賜禄が多く、
律令撰定の実務上の責任者だったと考えられている。
伊吉連博徳は斉明五年遣唐使として入唐した国際派。
唐で体験したことを「伊吉連博徳書」に記している。
伊余部連馬養は丹後国風土記によると、
丹後国の「宰」だった時に水江浦嶋子説話を筆録したという。
この人たちが中心になって帰化系氏族の人々と共に
大宝律令を完成させたのだろう。
 
大宝律令そのものは全て散逸して存在しないが、
「律」については、大宝律を部分改訂した養老律が
ある程度写本として残っているのと、
大宝律が模範としたと考えられる
唐の「永徽律疏」を部分改訂した「開元律疏」が全部残っており、
令については大宝令を部分改訂した養老令が残っているので、
大宝律令の内容については、おおよそ推測することができるという。

藤原姓についての詔

一氏族の姓について、時の天皇から堂々と詔を出させたことは、
藤原不比等が本能的に政治的なメカニズムに通じていたことを
感じさせる出来事である。
文武帝に娘の宮子を嫁がせた不比等は、
まだ15,6歳の少年でしかない文武帝に詔を出させることによって
その後の朝廷内を牛耳っていくことになる。
 
文武天皇二年八月丙午(十九日)に出てくる
「藤原姓についての詔」は
続日本紀における藤原不比等の初出である。
 
詔して曰はく、
「藤原朝臣賜はりし姓は、その子不比等をして承けしむべし。
但し意味麻呂らは、神事に供れるに縁りて、旧の姓に復すべし」
とのたまふ。
 
持統帝が後の天皇を自分の直系にすることに固執したように、
不比等は藤原姓を自分だけのものにしようとした。
旧中臣氏の多くが藤原姓を名乗っている状況を見て、
藤原氏の勢力が分散することを恐れたのだろう。
 
続日本紀岩波版の補注を抜粋すると次のようになる。
「藤原氏の名は中臣連鎌足が死に臨んで(居地に因んで)
賜ったものである(天智8年10月)。
天武十三年に中臣連が中臣朝臣となったのに伴って、
藤原朝臣になったとみられている。
その後、藤原朝臣の姓は旧中臣一族に広く及んでいたらしい。
文武天皇二年八月条の詔で藤原朝臣の姓は不比等とその子孫に限られ、
意味麻呂らの他の系の者は中臣朝臣に復することとなった。」
 
おそらくこの頃に不比等は律令撰定の作業を開始したのだろう。
約2年後の文武天皇四年六月の大宝律令撰定完了の記事まで登場しない。
 
「藤原姓についての詔」はこの後
不比等の死後も藤原氏が朝廷内で勢力を固めていく上で
重要な施策となったと言えるだろう。

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