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持統帝は持統11年(697年)に孫の文武帝に譲位している。
不比等はその年に娘の宮子姫を文武帝に嫁がせている。
前年の持統10年には直廣貳として50人の資人を賜っているが、
まだ官人として抜きんでた地位にいたとは言えない。
それが翌年には文武帝の外戚となっている。
文武帝への譲位を実現するために余程の貢献があったのだろう。
孫の軽皇子に皇位を譲ることは、草壁皇子を失った後も自分の血統から
天皇位を外したくないという執念をもつ持統帝にとっては念願のことだった。
不比等は過去の事例や慣例などから
打開策を作り出すことに長けていたのだろう。
幼時養われた田辺史家で受けた教育の成果だったのかもしれない。
その後不比等は律令の作成に携わり
近畿天皇家が日本を支配するスタートとなる大宝律令を撰定する。
続日本紀文武天皇四年六月甲午、
大宝律令撰定者19名に賜禄したことが記されている。
19名のうち刑部親王が総裁で不比等はNO2だが、
実質的なリーダーだったと思われる。
律令撰定メンバーは経学等に通じた人や
大陸の事情に精通する渡来系の氏族が多くを占めていたが、
田辺史家から田辺史百枝、田辺史首名の名がみえることも注目に値する。
不比等が養家とのつながりを重要視していたことを表していると言えるだろう。
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藤原不比等
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日本書紀岩波版の注に藤原不比等は、
「幼時、避けなければならぬことがあって、
山科の田辺史大隅の家に養われた。」
『尊卑分脈:藤原太祖伝』による記述と思われる。
持統3年には「史」の名で出てくるが、
田辺史家で育てられたことによる命名だったのだろう。
斉明4年生まれとも5年生まれとも言われるが、
まさに百済が滅亡し白村江の戦に倭国が巻き込まれていく
前夜に生まれたことになる。
避けねばならぬこととはそんな社会情勢に関係があるのだろうか。
あるいはまことしやかに伝わる
「天智天皇のご落胤」説に関わることなのだろうか。
不比等が預けられた「田辺史」とはどんな家柄だろうか。
日本書紀には雄略九年七月条に「田辺史伯孫」が出てくる。注には、
「田辺史は帰化系の氏。上毛野公と同祖。
外交・軍事に活躍し朝廷貴族化した。
弘仁私記序に『大鷦鷯天皇御宇之時、自百済国化来。』とある。」
不比等は百済系渡来人で外交・軍事に長じた朝廷貴族の家で育てられた。
田辺史大隅との関係はわからないが、
田辺史小隅は壬申の乱で近江側の将軍として戦ったが、
大海人皇子側の多臣品治の率いる軍に敗れて逃走している。
壬申の乱では藤原不比等は近江側にいたと思われるが、
まだ13歳の少年だったため罪に問われることはなかったようだ。
(To be continued)
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30歳代の不比等はっきりした表記では藤原不比等は日本書紀に2度登場している。
持統3年2月条と持統10年10月条。
持統3年は不比等30歳、位は「直広肆」、「史」と表記されている。
持統10年、この7年間の間に位は「直広貳」になって、
名前の表記を「不比等」としている。
持統10年には資人(自由に私用で使える舎人)を与えられている。
(持統十年冬十月)庚寅(22日)、
仮に正廣参位右大臣丹比真人に資人百二十人賜う。
正廣肆大納言阿倍朝臣御主人・大伴宿禰御行には並に八十人。
直廣壹石上朝臣麻呂・直廣貳藤原朝臣不比等には並に五十人。
持統朝において、30代後半の不比等は
まだ高級官僚のうちの一人という位置づけだったようだ。
(To be continued)
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プロフィール古事記が撰録、献上されたとされるのが和銅5年(712年)。
日本書紀が完成したのが元正6年(720年)。
いずれも大宝律令を完成させて実質的な権力を掌握した
藤原不比等の意向が最も働きやすい時期に
最終校了の時期を迎えたと言えるだろう。
天武帝以降、持統帝、文武帝、元明帝、元正帝の歴代を十分に意識しながら、
藤原一族が朝廷の中で存在感を増していくように
国史の内容をコントロールした可能性は大きいと考えられる。
記紀を史料批判しながら読み進めるためには
藤原不比等を理解することは避けては通れない。
しばらく不比等について勉強してみようと思う。
不比等が日本書紀に初登場するのは持統三年二月条。
持統帝が「筑紫の防人、年の限りに満ちなば、替えよ。」と詔したことに対して、
「浄広肆竹田王、直広肆土師宿禰根麻呂、大宅朝臣麻呂、
藤原朝臣史、務大肆当麻真人桜井、穂積朝臣山守、中臣朝臣臣麻呂、
巨勢朝臣多益須、大三輪朝臣安麻呂とを以て、判事とす。」
というように九人の判事の一人として登場している。
岩波版の注には、
「藤原朝臣史:不比等とも。鎌足の第2子。
武智麻呂、房前、宇合、麻呂、文武夫人宮子、聖武后光明子らの父。
尊卑文脈の藤原氏大祖伝に斉明5年生まれ。
懐風藻・扶桑略記によれば斉明4年生まれ。
幼時、避けねばならぬことがあって、
山科の田辺史大隅の家に養われたという。
この頃(持統3年頃)から官界に出、
のち大宝律令の編纂に当たり、
大納言・右大臣に進み、養老4年8月没。
同年10月贈太政大臣、正一位。淡海公と尊称。」とある。
(To be continued)
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