のんびりと古代史

自分なりに「削偽定実」を試みる。

遣新羅使(天平八年)の歌

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長門より船出せし夜

天候や潮の状態が良い時に進めるだけ進んでおくというのが、古代の航海のやり方だったらしい。
夜、遣新羅船は船出して、月の光を頼りに海岸沿いを航行していく。
 
「長門より船出せし夜、月の光を仰ぎ観て作れる歌3首」
 
3622 月よみの 光を清み 夕なぎに
                      水手の聲呼び 浦廻(うらみ)こぐかも
     (月余美乃 比可里乎伎欲美 由布奈藝尓 加古能己恵欲妣 宇良<未>許具可聞)
拙訳:月の清い光に照らされて風も止み波が静かになった夕方に船頭たちが声を掛け合って船は海岸沿いを航行し始めた。
 
3623 山の端に 月かたぶけば 漁(いざり)する
                海人のともしび 沖になづさふ
    (山乃波尓 月可多夫氣婆 伊射里須流 安麻能等毛之備 於伎尓奈都佐布)
拙訳:山の稜線に月が沈んでいくと、漁をしている海人たちの船の灯りが沖に浮かんでいるのが見えてきた。
 
3624 吾のみや 夜船はこぐと 思へれば
                沖べの方に 楫の音すなり
    (和礼乃未夜 欲布祢波許具登 於毛敝礼婆 於伎敝能可多尓 可治能於等須奈里)
拙訳:夜、船を漕ぎ出しているのは我々だけだと思っていたら、沖の方からも船を漕ぐ音が聞こえてきた。
 
 
遣新羅船はこの日も約30km航行して、安芸国長門島(現呉市倉梯町桂浜)で停泊することとなった。
 
「安芸国長門島にして舶を磯辺に泊てて作れる歌5首」
 
長門島は現在の倉橋島。
尾立の八剣神社にある棟札(文明12年作成)に「長門島」と記されており、この地域に長門崎、長門口という地名が残っている。
桂浜には万葉史蹟長門島の碑があり、3617から3624までの歌が書かれている。今でも桂浜の美しい砂浜に約500本の松原が続いているという。
 
3617  石(いは)走る 瀧(たき)もとどろに 鳴く蝉の 
                     声をし聞けば 京し思ほゆ
     (伊波婆之流 多伎毛登杼呂尓 鳴蝉乃 許恵乎之伎氣婆 京師之於毛保由)
この歌は大石蓑麻呂という遣新羅使の一人の作。
拙訳:岩を流れる瀧の音にも負けないほどに鳴いている蝉の声を聞く奈良の都のことが思い出されてくる。

3618  山川の 清き川瀬に 遊べども 
                     奈良の都は忘れかねつも
    (夜麻河伯能 伎欲吉可波世尓 安蘇倍杼母 奈良能美夜故波 和須礼可祢都母)
拙訳:長門島の山川の清き流れの川瀬に遊んでいても奈良の都のことはひと時も忘れられない。 
 
3619 磯の間ゆ たぎつ山川 絶えずあらば
                     またも相見む 秋かたまけて
     (伊蘇乃麻由 多藝都山河 多延受安良婆 麻多母安比見牟 秋加多麻氣弖)
拙訳:磯の間から激しく流れ出る山川が絶えることがないようにまた秋になったら君と会うことができるだろう。
 
3620 恋繁み 慰めかねて ひぐらしの
                      鳴く島かげにいほりするかも
 
     (故悲思氣美 奈具左米可祢弖 比具良之能 奈久之麻可氣尓 伊保利須流可母)
拙訳:妻恋しい思いに耐えかねているが、今夜はひぐらしが鳴く島影に泊まることになるだろう。
 
3621 わが命を 長門の島の 小松原
                      幾代を経てか 神さびわたる 
     (和我伊能知乎 奈我刀能之麻能 小松原 伊久与乎倍弖加 可武佐備和多流)
拙訳:わが命長かれと祈る。長門島の小松原は私の命が尽きた後もずっと何代にもわたって神々しい姿をしていることだろう。
 
遣新羅使たちの望郷の思いは相変わらずのようだが、松原を見て長命を願っているように、3621の歌からは、この船旅が生きた心地のしない厳しい状態であることを察することができる。

安芸国風速浦にて

備後国長井浦の翌日は風速浦に舶泊したらしい。長井浦から風速浦(三津湾)までは30km弱。
気候の影響もあるだろうがそのくらいの速度(1日30km)で航行していたのだろうか。
 
 「風速浦に舶泊せし夜、作れる歌二首」
 
3615 わがゆゑに 妹歎くらし 風早の
             浦の沖べに 霧たなびけり
この歌は贈答歌(3580,3581)を受けて作られたものだろう。
出発前に妻から、
「君が行く 海べの宿に 霧立たば 吾が立ち嘆く 息と知りませ」
風速浦に泊まった夜沖に立った霧を見て、今頃妻が嘆いているのだろうと、出発前を思い出して感慨にふけっている。
「風早(かざはや)の浦は、現在の広島県東広島市安芸津町風早近辺の三津湾とされています。風早近くには、龍王島、藍之島、大芝島があるので、停泊に適しているのでしょうか。」(「楽しい万葉集」より) 
拙訳:私がいなくなってしまったことを今頃妻は嘆いているのだろう。その証拠に風早浦の沖には霧がたなびいている。
 
3616 沖つ風 いたく吹きせば 吾妹子が 
             嘆の霧に あかましものを
拙訳:沖を吹く風がもっと強くなれば妻の嘆きの霧がこちらにも広がってくるので、飽きるほど(妻の吹く霧に)覆われてしまいたい。
 
遣新羅使の一行は鞆の浦を経て長井の浦で船舶した。
ここで歌われた歌が3首載っている。いずれも奈良の都を偲ぶもの。
 
備後国水調郡(みつきのこほり)長井浦に舶泊(ふなはて)せし夜、作れる歌3首。
 
3612 青丹よし 奈良の都に 行く人もがも 草枕
                    旅行船の 泊まり告げむに
この歌はこの一行のリーダーである大判官壬生使主宇太麻呂(みぶおみのうたまろ)の作った旗頭歌とされる。
拙訳:このあたりに奈良の都に行く人はいないだろうか。我々一行は今夜この長井浦で船泊していると妻に告げてほしいのだが。
長井浦は広島県三原市糸崎町にある糸崎神社の地とされる。
 
3613 海原を 八十島隠り(やそじまがくり) 来ぬれども
                    奈良の都は 忘れかねつも
拙訳:出港してから海原の数えきれない島の間を通ってここまでやって来たけれど、
奈良の都のことはひと時も忘れられない。
この歌の歌碑は因島公園文学の散歩道にある。
八十島とは古代においては多くの島のことを言い実数ではない。100には足らない多くの数を示す数量感覚で用いられるという。
 
 
3614 帰るさに 妹に見せむに わたつみの
                   沖つ白玉 拾ひて行かな
拙訳:もし奈良の都に帰ることができた時に妻に見せるために沖の海底にある真珠を拾っていかなくては。
「沖つ白玉」は海神が海底に蔵しているという清らかな真珠のこと。
三原市の糸崎神社の入り口にこの歌の歌碑がある。
 
 
                
遣新羅使の歌を伝える万葉集巻第十五は出航後の歌の中に、「所に当たりて誦詠へる古き歌」として10首並べている。この中には人麻呂などの歌から本歌取りしたような歌があったり、人麻呂の歌自体も掲載されている。
 
3602 あをによし 奈良の都に たなびける
                 天の白雲 見れど飽かぬかも
「雲を詠める歌」とされている。
訳:奈良の都にたなびいている白雲は何度見ても飽きることはない。また見たいものだ。
この歌の歌碑は奈良市役所正面にあるとのこと。
 
3603 青楊(あおやぎ)の 枝伐り下し 齋種(ゆだね)蒔き
                   忌忌しく君に 恋ひわたるかも
難解な歌である。
当時青楊の枝を切って苗代に刺して根付くかどうかで豊作を占う神事があったらしい。(あるいは青楊の枝で木鍬を作り神田を耕したとも)
その神事の中で清めた稲種を蒔いている神聖な貴女に恋をしてしまった、という歌意か。
 
3604 妹が袖 別れて久に なりぬれど
                 一日も妹を 忘れて思へや
訳:妻と別れてもう何日もたってしまったけれど、一日だって君のことを忘れてはいないよ。
巻第十五巻頭の贈答歌の作者の歌かもしれない。情緒感が似ている気がする。
 
3605 わたつみの 海に出でたる 飾磨川
                 絶えむ日にこそ 吾が恋止まめ
訳:海に流れ出している飾磨川が見えている。この川の流れが絶えるることがないように私の恋心も止むことはないだろう。
飾磨川は兵庫県姫路市飾磨区を流れた川の古名で船場川、市川、野田川など諸説あり。
 3603,3604,3605の歌は恋の歌と後書きされている。
 
3606 玉藻刈る 乎等女を過ぎて 夏草の
                 野島が崎に いほりす吾は
「柿本朝臣人麻呂の歌に曰く、『敏馬(みぬめ)を過ぎて』また曰く、『船近づきぬ』」
との後書きがある。
人麻呂の歌、
「玉藻刈る 敏馬を過ぎて 夏草の 野島の崎へ 舟近づきぬ」
を参考にして作った歌のようだ。
訳:(玉藻を刈り取っている)乙女がいた場所を通り過ぎて、夏草の茂る野島の崎へ船は近づいていく。
 
3607 白たへの 藤江の浦に 漁(いざり)する
                 海人とや見らむ 旅行く吾を
「柿本朝臣人麻呂の歌に曰く、『荒たへの』、また曰く、『すずき釣る海人とか見らむ』」
「荒たへの藤江の浦にすずき釣る海人とか見らむ旅行く我を」
ほとんど人麻呂の歌をそのまま使用している。
訳:人は旅行く私を藤江の浦で漁をする海人だと思っているのだろうか。
藤江は兵庫県明石市にある。
 
3608 天離る(あまざかる) 鄙の長道を 恋ひ来れば
                 明石の門より 家のあたり見ゆ
「柿本朝臣人麻呂の歌に曰く、『大和島見ゆ』」 
 「天離る 鄙の長道ゆ 恋ひ来れば 明石の門より 大和島見ゆ」
船が明石のあたりに差し掛かった時に、
人麻呂のように大和の方を見てなつかしんだのだろう。
人麻呂は鄙の方から大和に向って進んでいたので、進む方向が逆だけれど。
 
3609 武庫の海の にはよくあらし 漁(いざり)する
                  海人の釣船 波の上ゆ見ゆ
「柿本人麿の歌に曰く、『気比の海の』、
また曰く、『刈りこもの乱れて出づ見ゆ海人の釣船』」
気比の海のにはよくあらし刈りこもの乱れて出づ見ゆ海人の釣船」
訳:武庫の海は波が静かで良い漁場らしい。漁をする海人の釣船が波の上に見えている。
武庫川団地にはこの歌の歌碑があるという。
 
3610 阿胡の浦に 船乗りすらむ 娘子らが
                   赤裳の裾に 潮満つらむか
「柿本人麿の歌に曰く、『網の浦』、また曰く、『玉裳の裾に』」
「網の浦に船乗りすらむ娘子らが玉裳の裾に潮満つらむか」
訳:阿胡の浦で船に乗っている娘子らに波がかかって赤い衣の裾が濡れている。
 
3611 大船に 眞楫繁貫き(まかじしじぬき) 海原を
                   こぎ出て渡る 月人壮子(つきひとおのこ)
柿本人麻呂の歌。前書きに「七夕の歌一首」とある。
人麻呂の歌の替え歌が5首並んだので(3606〜3610)、季節に合わせて人麻呂の七夕の歌を載せたのだろう。
訳:大船に何本も櫂を取り付けて(七夕の)大海原にこぎ出て月の人となった男たちよ。
 
遣新羅使に選ばれた官人たちなので、歌を詠む教養は備えていたのだろうが、自分の気持ちをうまく表現するために柿本人麻呂の歌をベースにして言葉を変えたのだろう。
 
 
 

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