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日本書紀の最初の外交記事は崇神紀65年7月条に出てくる。
任那国からの朝貢である。
「(崇神紀)六十五年秋七月、
任那国、蘇那曷叱知(そなかしち)を遣して、朝貢らしむ。
任那は筑紫国を去ること二千余里。
北、海を阻てて鶏林の西南に在り。」
古代史において倭国と最も近い関係にあったと思われる
任那国からの使者が崇神65年にやってきた。
任那―筑紫間は魏志倭人伝では三千余里となっているので
ここでは修正されている。
ここでも1里=約80mの短里が用いられていることが注目される。
8世紀の日本書紀の編纂者たちは短里を理解していたということだ。
任那国は鶏林(新羅)の西南にあると記されているが、
新羅との力関係から倭国に助力を求めてきたのかもしれない。
約5年間滞在して垂仁2年に、
蘇那曷叱知は帰国したいと申し出る。
垂仁帝は赤絹一百匹を任那王への土産として持たせたが、
途中新羅人に奪われてしまう。
この時から任那と新羅の関係は悪化したという。
(6世紀の新羅による任那併合を前提にした述作かもしれない。)
垂仁紀では、蘇那曷叱知帰国譚の後に、
「一(ある)に云はく、」として、
二つの説話が記載されている。
はじめの説話は、
額に角がある意富加羅国の皇子都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)が
帰化しようと日本国へやってくる。
越国笥飯浦(角鹿)に着き、次に穴門(長門国西南部)に行く。
穴門では自ら国王と称する伊都都比古に出会う。
日本各地に国王を自称する人がいた時代背景があるのかもしれない。
多元的に王朝が存在していたことを示唆しているようだ。
その後流浪し出雲国を経て崇神帝の都までやってきた。
崇神帝はすでに崩御した後だった。
垂仁帝の時代となり、
垂仁帝は阿羅斯等に帰国したくないかと聞くと、
帰りたいと答えたので赤織の絹を土産に持たせ、
帰国したら国名を崇神帝の名御間城(みまき)天皇の名をとって
任那にせよといった。
任那国の名前の由来である。
阿羅斯等は赤絹を自国の蔵に納めたが、
新羅が兵を起こして赤絹を奪い取ってしまった。
その後この二国は憎み合うようになったという。
二つ目の説話は、
都怒我阿羅斯等がなぜ日本に渡るようになったかを描いた物語である。
阿羅斯等が所有していた黄牛が突然消えててしまう。
黄牛を探し求めて行くとある村で見つかり
村長から黄牛の代償に村の神となっている白石をもらう。
持ち帰ると白石は美しい童女に変身する。
阿羅斯等は大喜びだったが、
目を離したすきに童女は消えてしまう。
人に尋ねると東の方へ向かったという。
阿羅斯等は童女を追って海を渡って日本へやってきた。
童女は難波で比売語曾社の神となり、
豊国でもまた比売語曾社の神となった。
この二つの話を総合すると、
黄牛を失った都怒我阿羅斯等は
その代わりに得た白石が変身した童女を追って日本へ来て、
角鹿→穴門→出雲と漂流した後都にやってきた、
という加羅皇子の帰化伝説となる。
この説話に基づいて日本書紀は
任那国が蘇那曷叱知を派遣し
朝貢してきたという説話を作り上げた、
ということだろう。
(To be continued)
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日本書紀の中の「朝貢」
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701年、日本は「大宝」の元号を採用した。
代々中国の王朝は、
冊封体制に組み込まれた国が
独自の元号をもつことを認めていない。
唐も、武周も同じ考え方だっただろう。
日本は「大宝」建元によって、
唐の冊封下ではなく独立国として進む決意を示したことになる。
同年に完成する大宝律令、
紆余曲折しながらも720年に撰上される正史である日本書紀は
独立国家としての体裁を整える事業でもあった。
日本書紀では8世紀初頭現在の天皇家は
神代から連綿と倭国及び日本を統治している継続した王家で、
日本は永年にわたって国家として独立した状態を保っていたこと主張している。
中国系の史料の中では、
倭国が中国の王朝に朝貢していたことを示す記述がある。
後漢書に「建元中元二年、倭奴国奉貢朝」、
魏志倭人伝に卑弥呼の朝貢、
宋書の倭の五王の記事などである。
日本書紀では神功皇后紀に「魏志に云はく、」として、
「正始四年、倭王、復使大夫伊聲者掖耶約等八人を遣わして上献す。」
他に中国への朝貢記事は見当たらない。
日本書紀の朝貢に関する記述のほとんどが
朝鮮諸国から倭国に対するものである。
朝貢記事を抜き出して、
日本書紀が外国からの朝貢をどう扱っているのかを
検討してみようと思う。
日本書紀の外交に対する考え方が見えてくるかもしれない。
(To be continued)
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