のんびりと古代史

自分なりに「削偽定実」を試みる。

吉備

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四道将軍と地域王国

いつ頃近畿天皇家が日本列島の西半分を制圧したのか、
今となってはよくわからない。
記紀の中にその手がかりを見つけ出すのが一つの方法だろう。
8世紀初頭に支配下に置かれた地域に対して、
歴代天皇の皇子が遠征して征服した物語が記載されている。
日本書紀では崇神紀に記されている、
所謂「四道将軍」がよく知られている。
大彦命(孝元帝の皇子、開化帝の兄)を北陸道、
武渟川別(大彦命の子)を東海道、
吉備津彦(彦五十狭芹彦命、孝霊帝の子、孝元帝の弟)を西道(後の山陽道)、
丹波道主命(開化帝の子である彦坐王の子)を丹波に派遣した。
大彦命は阿倍臣、膳臣、阿閉臣、狭狭城山君、筑紫国造、伊賀臣の七族の始祖。武渟川別(大彦命の子)は記に阿倍臣の祖となっている。
また武渟川別は吉備津彦と共に出雲へ遠征し出雲振根を滅ぼしている。
吉備津彦は吉備臣の祖ということになる。
丹波道主命は垂仁帝の二人目の皇后となった日葉酢媛命の父。
日本書紀では各地方が近畿天皇家によって派遣された皇族によって、
崇神帝の時代に征服されて支配下にはいったことにしている。
この四道将軍の説話によって
地方の豪族たちは天皇家につながる血筋を得たことになる。
近畿天皇家にとってははるか昔から各地を支配していたこととなり、
お互いにとって都合が良いことになったのではなかろうか。
 
丹波の現地伝承(但馬国司文書)では、
彦坐王は現在の粟鹿神社に宮を造って、
丹波、多遅麻、二方の三国を統治していたという。
近畿天皇家は崇神帝の四道将軍派遣以来、
丹波・但馬は天皇家の支配下にあるという主張を裏付けるために、
丹波の伝承を登用したということらしい。
丹波だけではなく他も同様だとすると、
吉備国の吉備津彦も近畿天皇家からの派遣ということではなく、
吉備国に根付いていた豪族だったのではないかという疑問が当然出てくる。
「温羅伝説」では、
ヤマト朝廷から派遣された吉備津彦が恐ろしい温羅を退治する
ストーリーになっているが、
近畿天皇家唐の弾圧をを恐れて、
現地伝承を後になって日本書紀に合わせて改ざんしたものかもしれない。
北陸道、東海道についても現地での伝承を確認してみると
「地域王国」の存在が浮かび上がってくるかもしれない。
本日はほとんど門脇禎二氏の「古代日本の『地域王国』と『ヤマト王国』上」の
受け売りである。
この本を読んで、日本書紀はこう読めばよいのだ、とあらためて納得した
 
応神帝の妃兄媛が里心がついて吉備に帰京した後、
寂しくなった応神帝が後を追って行ったストーリーについては前回書いた。
応神紀では吉備国は元々応神帝の支配下にあることが前提になっている。
応神紀を読んだ時に、
応神帝は何故よその国(吉備国)へ出かけて行って、
その国を分割して親族に分け与えるのだろうと疑問を感じていた。
門脇氏は、このストーリーは日本書紀編纂者が
8世紀の朝廷にとって都合の良い形に作り直しているという。
この頃(5世紀頃)の吉備国は、
史実としては大和朝廷と匹敵するくらいの勢力をもっていた。
吉備国の最も隆盛を極めた時の大王が御友別だった。
おそらく5世紀初めに築造されたとされる
吉備国最大の前方後円墳である造山古墳(全長360m)は
御友別の墓であろうと主張している。
従来の学者は造山古墳はヤマト朝廷から派遣された
吉備津彦の墓ということでほぼ一致しているという。
何でもヤマト朝廷に結びつける癖がここでも出ているという。
2番目に大きい作山古墳(全長286m)は
御友別の長子稲速別の墓ではないかと門脇氏は推定している。
周囲の人にこの話をしたら、「それは新説ですね。」と驚かれたという。
8世紀に藤原不比等が主導して作り上げた日本書紀の記述を
あまり史料批判することなしに学説としている
古代史学界の実態を垣間見るような気がする。
古代史学界の実態はともかくとして、
言われてみると当たり前に感じるほど門脇氏の解釈は鋭く的を得ていると思った。
応神紀22年条は、応神帝の妃兄媛(えひめ)が
里心がついて吉備国の実家に帰京してしまう説話である。
兄媛を忘れられない帝は狩りを口実にして吉備国まで追いかけて行く。
兄媛の兄の御友別は訪れてくれた帝をもてなす。
もてなし方に満足した帝が感激して、
吉備国を御友別の兄弟、子供たちに分け与えるというストーリーになっている。
これは岩波版の注にある通り、
吉備一族の祖先伝承を近畿天皇家が借用して、
あたかも吉備国を御友別の一族に対して、
応神帝が分け与えたことにしてしまっている。
日本書紀の常套手段だが、
この説話はそのやり口がわかりやすくできている。
御友別は孝霊帝の子の稚武彦(記では若日子建吉備津日子命)の次男。
吉備臣一族の祖先伝承では、
御友別が吉備国の領土を自分の兄弟と息子たちに
分け与えた話になっているのだろう。
応神紀によると5分割+1になる。
+1は実家に戻った兄媛に織部(はとりべ)として、
備前国邑久郡服部郷(現在の瀬戸内市長船町服部のあたり)を与えている分だ。
・長男の稲速別は「川嶋県」(備中国浅口郡:現在の倉敷市西南部)
を得て下道臣の始祖になった。
・次男の仲彦は「上道県」(備前国上道郡:岡山市東半部など)、
「香屋」(備中国賀夜郡:岡山市西部と総社市東部)を与えられて、
上道臣、香屋臣の始祖となっている。
・三男の弟彦は「三野県」(備前国御野郡:岡山市北半部)を領し、
三野臣の始祖となった。
・御友別の弟の鴨別は「波区芸(はくぎ)県」(笠岡市辺りか)を当てられて、
笠臣の始祖となった。
・御友別の兄浦擬(うらこり)別は「苑県」を任されて、
苑臣の始祖となったという。
 
日本書紀は崇神紀で吉備津彦を四道将軍の一人として西海道の派遣したり、
応神紀で領土を分け与えたりする記述を行うことによって、
吉備国に対する優位性をことさら強調しているようだ。
どちらの説話も古事記には全く記載されていない。
日本書紀の意図的な挿入であろう。
日本書紀がこのような形で吉備国を扱うということは、
8世紀初頭の近畿天皇家にとって記憶に残る近過去まで
吉備国の勢力が強かったことを示しているのかもしれない。
応神紀二十二年条に、
応神帝が吉備臣一族に吉備国を封じて与える説話が出てくる。
応神帝の時代から、
吉備国一帯は近畿天皇家の支配下にあったことを
示すために記されたのだろう。
うがった見方をすれば、
日本書紀の場合大概はうがった見方の方が筋が通ることが多いのだが、
吉備国は近畿天皇家と対等あるいは
それ以上の存在だったということを示している。
古墳時代を前後して一大勢力だった吉備国とは
いったいどんな国だったのだろうか、
記紀の記述をもう一度確認してみようと思う。
日本書紀に吉備が出てくるのは、
おそらく素戔嗚尊の大蛇退治の物語が最初だろう。
大蛇退治説話は本文の他に六つの一書が記されている。
神代における重要な説話の一つとして扱われている。
六つの一書の一つ第三の一書に吉備が出てくる。
第三の一書は奇稲田媛との結婚を申し出た素戔嗚尊に
両親の脚摩乳、手摩乳は大蛇退治を依頼する。
素戔嗚尊は毒酒を醸造して大蛇に飲ませて眠らせる。
眠った大蛇を「韓鋤の剣(からさひのつるぎ)」で頭と腹を斬る。
腹から「草薙剣」が出てくる。
草薙剣は昔は素戔嗚尊のところにあったが今は尾張国にある。
大蛇を斬った「韓鋤の剣」は、
出雲の簸の川上の山の中の「吉備の神部」のところにある。
「吉備の神部」、島根県の地図を見ると、
三国山辺りになるのだろうか。
あるいは、斐伊川から稲積山方面までのぼり、分水嶺を過ぎて
高瀬川を下ったところに岡山県神郷町という場所がある。
素戔嗚尊が使用した剣を置いておくのにふさわしい名前の地名である。
備前国一宮の石上布都魂神社には
素戔嗚尊が八岐大蛇を斬った「布都御魂」を祭神としていたという。
そこでは「布都御魂」の別名の一つが「韓鋤の剣」ということになっている。
この説話から吉備が出雲、素戔嗚尊、剣、布都、石上、(物部氏)などと
関連性がありそうなことが興味深く感じられた。
 

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