のんびりと古代史

自分なりに「削偽定実」を試みる。

銅鐸

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全1ページ

[1]

銅鐸とは何か

【銅鐸は謎に包まれている。】
銅鐸を作ったのはどういう人達だったか?
銅鐸は何のためのものだったか?
銅鐸はどう使われたか?
銅鐸は何故埋められていたのか?
銅鐸民族は誰に何故滅ぼされたのか?
はっきりしたことは何もわかっていない。
 
【日本の文献では・・・】
正史の初出は、続日本紀元明天皇和銅六年七月、
「大倭国宇陀郡波坂郷の人、大初位上村君東人、
銅鐸を長岡野の地に得て献る。
高さ三尺、口径一尺。
その制、常に異にして、音、律呂に協ふ。」
とある。
高さ約90cm、口径30cmの大きさで、
あまり見たことがなく、良い音がしたという。
現在各地から発掘されている銅鐸と同様のものだろう。
 
中国の文献では】
宋書巻二十七・志第十七「符瑞上」に、
「愍帝建興四年、晋陵武進人陳龍在田中得銅鐸五枚、柄口皆龍虎形」
と出てくる。
西晋最後の皇帝愍帝の建興四年に、陳龍が田中で銅鐸5枚を得た。
その銅鐸は柄の部分が皆龍虎の形をしていたという。
「五枚」と数えていることと、柄の部分があるということから
日本で発見されている銅鐸とは全く違うものとも思われる。
銅鑼のように槌で打って音を出す道具だったのかもしれない。
 
【何のために・・・】
形は違うが戦場で音を鳴らして味方を鼓舞し、
敵を威嚇するための道具だったとすると、
戦争目的に使われたものと考えて、
続日本紀は銅鐸と名づけた可能性が考えられる。
続日本紀でその形が「異」に見えると言っているので、
珍しいものだったのだろう。
続日本紀編纂の時代よりも500年も前に
全て埋められてしまったのでやむを得ないが、
このころすでに口承でさえも何も伝わっていなかったようだ。
それからさらに1300年以上後の世の中に居る我々が
はっきりした結論を出すことができないのもやむを得ないということか。
正史には、続日本紀和銅六年七月
「大倭国宇太郡波坂郷の人、大初位上村君東人、
銅鐸を長岡野の地に得て献る。
高さ三尺、口径一尺。
その制、常に異にして、音、律呂に協ふ。」
が銅鐸の記載の初出だという。
 
正史に最初から「銅鐸」という言葉が使われていることが面白い。
続日本紀が銅鐸と名づけたので、
以降現在に至るまで銅鐸と呼ばれているのかもしれない。
 
「鐸」を漢和辞典で調べると、
①おおすず。大きな鈴。昔、命令を発する時に鳴らして大衆を戒めたもの。
 文事には木鐸、武事には金鐸を用いた。
②風鈴。軒につるす鈴。
 
続日本紀は「其制異常」、
その体裁は普通ではないと述べているので、
銅鐸民族の情報は8世紀の朝廷に伝わっていなかったということか。
続いて「音協律呂」、
出す音は音階に合っているというのだろうか、
安定した音を奏でていることに注目している。
音を出すことを目的としたものと解釈して、
「銅鐸」と名付けたのだろう。
 
これまで出土した状況から、
銅鐸は弥生時代にその製造・使用が始まり、
弥生時代が終わるまでに地表から無くなってしまったらしい。
したがって弥生土器などと並んで、
弥生時代を象徴的に表しているものと言えるだろう。
もともとは朝鮮半島にあった小銅鐸から発展したと思われている。
しかし、朝鮮半島の小銅鐸とは大きな相違がある。
ひとつは銅鐸には鰭(ひれ)=周囲の出っ張りがある。
もうひとつは模様がついている。
どちらも日本列島の人々の造形上の美的感覚が発揮されている。
さらに銅鐸作成技術においても秀でたものがあるという。
銅鐸は成分を分析すると銅90%+錫10%+鉛5%の合金だが、
加茂岩倉から出土した銅鐸からは厚さ2mmのものがあり、
現在の鋳造技術をもってしても製造は難しいと言われている。
銅鐸に関する書物を読んで、
あらためて日本の古代史における記紀のありがたさを痛感している。
架空の話が多いとか、
にわかには信じがたいとか、
大和朝廷を正当化するために史実をゆがめているとか、
いろいろ言われているが
記紀がなければ日本古代史はほとんど何もわからないだろう。
歪められた史書であっても、
何故歪められたかを分析することによって
元の姿がわかってくることもある。
海外の史書と照らし合わせることによって
史実をあぶりだすこともできる。
しかし銅鐸は土の中から掘り出されたものの、
同時代文献は何もなく詳しいことはわからない。
銅鐸を製造したのは誰なのか、
どのように使用したのか、
なぜ山の斜面に埋まった状態で発見されたのか、
はっきりしたことは何もわからない。
わからないことはわからないというのが学問だろうと思うが、
発掘を行った考古学者をはじめ諸氏が
いろいろと推論を発表しているのが現状のようだ。
中には断定的なことを述べている論文もあるようだが、
不確かなことを断定する文章を読むと論文全体が信用できなくなってしまう。
日本列島内で発見された銅鐸について
製造した人、使用していた人、使用目的などを
明確に示している文献は国内にも海外にも一切見つかっていない
ということを前提にして、
どのようなことが推論されているかを見てみようと思う。
 
●祭祀用として使われていたらしい。
●地中に埋めて保管していたらしい。
 否、敵に攻撃されて逃げる時に山の斜面に埋めたらしい。
●使い終わった銅鐸を(粘土のようなもので包んで)  
 作った時の姿に戻して埋納したらしい。
●人里離れたところに埋めてあるので日常使う道具ではなかったらしい。
●中に垂らした舌と呼ばれるものを振って音を出したらしい。
●銅鐸の製造技術は驚くほど高いので、
 3000年前の中国長江上流域に栄えた三星堆文明の影響を受けているらしい。
 つまり中国から渡ってきた青銅器製造の技術者が銅鐸作りを始めたらしい。
●音を聞いて神秘的な気分を得ていたらしい。
●祭壇においてその前に人々が跪いて礼拝していたらしい。
●表面に書かれた模様の中には絵文字として機能したものがあったらしい。
●銅鐸の模様は現代人に対して何かを訴えかける
 タイムカプセルの意味があるらしい。
●銅鐸は銅剣を造るために銅を確保しておくインゴットだったらしい。
●彼岸を測定する観測器具だったらしい。
●湯沸かし器だったらしい。
など、珍説を含めていろいろな経歴の人が想像力をたくましくしている。
(これらの諸説の洗い出しは、
臼田篤伸「銅鐸民族の謎」を参考にさせていただきました。)
 
それに対して、ある程度はっきりしていることを列挙してみよう。
○全国でこれまでに約500個発掘されている。
 (約500個の詳細は明らかにされていないようだ。)
○紀元前3世紀の終わりごろから400年余りの期間にわたって製造されていた。
 (発掘された地層から埋蔵時期を割り出しているのだろう。)
○発掘された銅鐸は高さ数センチから十数センチの小銅鐸から
 小型銅鐸、中型銅鐸、1メートルを超える大型銅鐸まである。
 後になればなるほど薄く軽量で大型になっていったようだ。
 製造技術の進歩によるものだという。
○装飾は素朴だが、原始絵画と言える図柄が刻まれているものもある。
○発掘場所は関西、東海、島根などが中心。
○鋳型は奈良県(唐古・鍵)、大阪府(東奈良)、北部九州で十数例発掘されている。
○同じ場所から多数発掘されたのは、
  滋賀県野洲町小篠原 24個
  神戸市桜ケ丘     14個
  島根県神庭荒神谷   6個
      加茂岩倉    39個
 
歴史の大きな流れで言えることは、
青銅器製造技術をもって日本列島に来た人たちが住みついて
豊富な銅鉱石を使って銅鐸を造るようになった。
それがBC200年頃のこと。
時代的には史記に書かれている徐福一行が渡海した頃と一致している。
400年の間に居住範囲を拡大していったものと考えられる。
青銅器製造技術も飛躍的に進歩して
大型銅鐸をも製造するようになった。
移動に不都合な大型銅鐸を造ったということは
移動を必要としないような平和な時代があったのかもしれない。
2、3世紀世紀ごろになると、
日本列島は倭国大乱の時代になり
銅鐸をもって生活していた人々は侵略されて滅ぼされてしまったのだろう。
考えたくはないが、卑弥呼が魏王に送ったという「生口」とか
卑弥呼の冢に順そうされた徇葬された百余人の奴婢は
征服された「銅鐸民」たちだったのかもしれない。
 

銅鐸からわかること 

銅鐸をテーマにしようと思い、少しずつ参考文献や論文を読んだりしている。
銅鐸は紀元前3世紀ごろから紀元3世紀ごろまで
400年から500年の間製造されていたらしい。
3世紀中に地上から姿を消してしまったという。
埋まった状態で発見されているので正確にいつ姿を消したかはわからない。
姿を消してから最初に発見されたのは、
文献上では天智7年近江国志賀郡で
崇福寺を建立しようと地ならしをしていた時だという。(扶桑略記)
その後8世紀に2個、9世紀に2個、12世紀に1個、17世紀に1個
発見されるまでは1000年間に7個しか掘り出されていない。
18世紀になると22個以上、19世紀に94個以上と飛躍的に発見数は伸び、
20世紀には160個以上が見つかっているらしい。
(発見数については臼田篤伸氏の「銅鐸民族の謎」による)
これまでに500個程度が発掘されているという。
続日本紀岩波版の補注によると、銅鐸に対して、
「平安時代にはインドマウルヤ王朝のアショーカ王が
各地に建てた宝塔と結び付け、
銅鐸を阿育王の塔鐸とする考えが行われた。」
と書かれている。
大きさは数センチから十数センチの小銅鐸から
小型銅鐸、中型銅鐸、大型銅鐸と銅鐸製造技術の進歩と共に
大型化していったようだ。
大型銅鐸は1m以上の高さのものもある。
先述した天智朝に出土した銅鐸は「高五尺五寸」とあるので
文面通りだと1m60cmほどの高さがあったのだろう。
発掘場所は初期の物は九州からも出ているが、
主に関西、東海、島根などを中心とした地域となっている。
鋳型は奈良県、大阪府、北部九州などから十数例見つかっているという。
用途は祭祀に使われたとする説が主流だというが
はっきりとした根拠はなさそうだ。
いずれにしても3世紀のある時期に
忽然と地上から消えてしまったという事実は間違いがなさそうだ。
3世紀の前半なら卑弥呼の時代に消えたことになる。
後半なら卑弥呼の死後の大乱に因るのかもしれない。
知ってか知らずか銅鐸について記紀は全く触れていない。
 
(To be continued)

全1ページ

[1]


.
記紀いっぱつ
記紀いっぱつ
男性 / A型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31

Yahoo!からのお知らせ

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

衛生対策製品クレベリンの姉妹ブランド
クレベ&アンドハンドジェルが新登場
今だけ。お試しキャンペーン実施中!
ふるさと納税サイト『さとふる』
最大10万円分旅行クーポンが当たる!
≪10月31日まで≫今すぐ応募!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事