のんびりと古代史

自分なりに「削偽定実」を試みる。

九州平定

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倭王武は、
「昔より祖禰躬ら甲冑を擐き、山川を跋渉し、寧処に遑あらず。
東は毛人を征すること五十五国、
西は衆夷を服すること六十六国、
渡りて海北を平ぐること九十五国。・・・」
と宋に上表した。
祖先は自ら先頭に立って戦い倭国内百国余りを平定した。このことは神功皇后紀の筑後平定、景行紀の九州一円平定のことを指しているのだろう。
さらに海を渡って九十五国を征服したとは、多少の誇張を感じるが神功皇后紀の三韓征伐を指している。
このように考えると、宋書に残された倭王武の上表文と日本書紀が換骨奪胎して記載している筑後・九州一円平定説話及び三韓征伐説話が一致していることになる。
その後倭王武は、何らかの事情で梁の時代に朝貢をやめる決断をしたようだ。
海東諸国紀に、
「壬寅年(522年)始めて年号を建てて『善化』と為す。」と出ている。(江戸時代の襲国偽僭考では『善記』と記されている)所謂九州年号である。
日本書紀では継体天皇の治世に当たるが、年号については出てこない。
年号を建てる(建元)ことは中国(梁)の冊封体制からの離脱を意味するだろう。
卑弥呼が魏に朝貢して以来継続してきた遣使を522年に倭王武が中止を決断し倭国は独立した。建元=朝貢中止なので、この後中国史から倭国の記載はなくなっている。
次に中国の正史に登場するのは、倭王阿毎多利思比孤阿輩鶏弥(あめたりしひこおほきみ)が隋の高祖文帝に対等外交の使者を派遣する時まで待たねばならなかった。
対馬・壱岐に本拠のあった天国側は天孫降臨で九州上陸を果たした後に朝鮮半島へも侵略を行い、朝鮮半島南端と九州北岸をはさんで海峡国家を形成したのではないだろうか。
2世紀前半から三国史記に倭人が侵犯してきたことが記載されている。朝鮮版天孫降臨だろうか。
前後関係は以下のように理解している。
 
57年        倭奴国王金印受領 (後漢書)
80〜100年    倭国、百余の小国に分立
107年       倭王帥升、生口160人献ず (後漢書)
 
115年頃     瓊瓊杵尊、天孫降臨
 
126年       倭人兵を連ねて辺を犯そうとする (新羅本紀)
150年〜187年 桓霊の間、倭国内乱 (後漢書)
 
185年ごろ     卑弥呼共立
237年       倭女王卑弥呼新羅に遣使 (新羅本紀)
238年       倭女王卑弥呼魏に遣使 親魏倭王金印紫綬受領
〜243年      倭女王卑弥呼魏に数回遣使
245年       難升米、魏より黄憧を賜る
248年       倭女王卑弥呼没
266年       倭女王壹与 西晋に貢献
 
          壹与の後、倭国は「男王並受中国爵位」 (梁書)
 
413年       倭王讃、東晋へ朝貢 (晋書)
421年〜478年 倭の五王、宋へ朝貢 (宋書)
 
という理解の中で考えると、
神功皇后紀の「筑後平定説話」は150年〜187年の倭国内乱の一環の事件だったのではないだろうか。
天孫降臨で筑紫に上陸を果たし筑前地域を支配した瓊瓊杵尊は香椎宮近辺に本拠を構えた。
香椎宮から大宰府方面に進出し、筑後方面を征圧する。筑後は何とか制圧したものの各地で内乱は続いた。そこで各国は女王卑弥呼を共立すると乱は収まったという。
卑弥呼は魏に朝貢し魏の力を背景に支配を強めたが狗奴国などとの争いは収まらなかった。卑弥呼、壹与と女王の時代の後、男王が立ち中国の東晋への朝貢を続けた。
4世紀になり倭王にとっては未だ従属しない九州東・南部の存在が懸案となっていた。
仲哀紀、景行紀に時代を逆転して組み込まれた「九州一円平定説話」は倭王が隣国の伊都国王五十亦手と岡国王熊鰐の協力を得て、周芳の沙麼に集結し九州一円を征圧する説話である。
日本書紀は「倭国=九州王朝の九州一円平定説話」をあたかも近畿天皇家が九州まで出向いて行った業績のように換骨奪胎して取り込んでいるものと思われる。
 
仲哀帝が熊襲攻撃をやめて新羅を撃てというご託宣に逆らい、神の怒りに触れて死亡した後、神功皇后が事業を引き継いでいる。
神功皇后は、どういうわけか、
「吉備臣の祖鴨別を遣して、熊襲国を撃たしむ。」
と熊襲攻撃を開始している。熊襲はすぐに降服したという。
仲哀帝の熊襲攻撃は神の怒りに触れたにもかかわらず、神功皇后になるとあっさり解決している。
仲哀帝に対して神は新羅を征圧すれば熊襲は自ずから服従する、というようなことを言っていたので、この項目は挿入場所を間違えているのだろう。
新羅制圧後の段に入れるはずのものを間違って新羅遠征出発前に入れてしまったのか?
ともかく前後の文脈とは無関係に熊襲攻撃→降服記事が挿入されている。
その挿入記事に続いて、神功皇后は荷持田村(のとりたのふれ、朝倉市秋月野鳥)で、皇命に従わないで人々を困らせている羽白熊鷲を攻撃する。
羽白熊鷲は「強く健し、亦身に翼有りて、能く飛びて高く翔る。」という。
神功皇后の攻撃に対して、熊鷲は層増岐野(そそきの、雷山:糸島市と佐賀市の間の山)まで逃げて、そこで滅ぼされたという。
その後、神功皇后は山門県(福岡県みやま市瀬高町)へ行き、土蜘蛛田油津媛を滅ぼしたという。
香椎宮に本拠を置く神功皇后は新羅遠征の前に筑後エリアを征圧した。日本書紀編纂者は羽白熊鷲の説話だけでなく田油津媛説話も含めて、挿入場所を間違えたのかもしれない。
神のご託宣で新羅遠征に行かなくてはならない時に、神に禁じられている熊襲攻撃を行い、妊娠しているにもかかわらず強敵羽白熊鷲攻撃を行い、さらには山門まで南下し田油津媛を攻撃している。
話の流れが全くすっきりしていない。各地から取り寄せたいろいろな史料を継ぎ足し組み合わせて構成しようとした日本書紀編纂のご苦労が感じられる。
この筑後エリア征圧説話も九州一円征圧説話同様、天孫降臨後九州内に徐々に勢力を広げていった九州王朝創生期の説話を、主人公を変えて(九州王朝の王→神功皇后)日本書紀に挿入したと考えられる。
日本書紀には景行紀、仲哀紀、神功皇后紀に、九州地方を征圧する記事が掲載されている。
前回のブログで書いたように、景行紀と仲哀紀に記述されている内容は一連の出来事で、香椎宮の倭王が九州の東岸から南端まで制圧する説話である。
それが日本書紀編纂者によって、意図的に順序と進行方向を変えて記述されていた。
元の通りに組み変えると次のようなストーリーになる。
日本書紀が参考にした資料は、日本旧記と呼ばれる九州王朝の国史だったと古田武彦氏は述べている。
 
倭王が九州一円を征圧するための遠征に出ることを聞いた伊都国王五十迹手(いとて)は、舳先に上枝に八尺瓊、中枝に白銅鏡、下枝に十握剣を掛けた船に援軍を載せて倭王軍に合流するために穴門の引嶋(下関市彦島)へ向かった。
また岡国王熊鰐は、舳先に上枝に白銅鏡、中枝に十握剣、下枝に八尺瓊を掛けた九尋の大型船に援軍を載せて周芳の沙麼にはせ参じた。
倭王軍は周芳の沙麼に集結した。(ここまでが仲哀紀記載部分)
周芳の沙麼に大量の倭王軍が結集していることを知った対岸(行橋市あたりか)の神夏磯媛は、賢木((さかき)に上枝に八握剣、中枝に八咫鏡、下枝に八尺瓊を掛け、船の舳に素幡(しらはた)を樹てて、降服してきた。倭王軍は神夏磯媛から得た情報を基にして宇佐市辺りに上陸して最初の戦を始めた。
以降東九州、南九州を時計回りに征圧する。
地方豪族が周芳沙麼の浦で天皇に降服する件が、日本書紀には2回出てくる。
景行12年秋9月条と仲哀8年春正月条である。降服する豪族の名前は違っている。(景行紀は「神夏磯媛」、仲哀紀は「岡県主の祖熊鰐」)
真相解明のカギは仲哀紀の方にあった。
仲哀天皇はそれまで穴戸豊浦宮(下関市豊浦の忌宮神社内に豊浦宮趾)にいて筑紫(香椎宮)に向った。その情報を得た熊鰐が周芳沙麼の浦(防府市佐波)まで出迎えに行ったという。熊鰐は岡県(福岡県遠賀川河口の蘆屋町辺り)を勢力範囲にしている。
この三地域(周芳沙麼、穴戸豊浦、岡県)を東から並べると、
周防沙麼の浦(防府市佐波)、
穴戸豊浦宮(下関市豊浦の忌宮神社内に豊浦宮趾)、
岡県(福岡県遠賀川河口の蘆屋町辺り)
の位置関係となる。
仲哀紀をそのまま読むと、下関市から福岡市の方へ向かった仲哀帝を岡県(福岡市より東側)の熊鰐が下関市を通り越して防府市の佐波まで出迎えに行ったことになる。若松辺りですれ違ってしまうだろう。
さらに仲哀紀では、熊鰐の本拠である岡津に泊まる神功皇后のもとへ伊都県主の祖五十迹手(いとて)が船に玉、鏡、剣をかざして降服の意思表示をして穴戸の引嶋(下関市彦島)に出迎えたという。
ここでも糸島半島に居た五十迹手は神功皇后の居る岡津を通り越して引嶋(下関市彦島)まで出迎えていることになる。
 
山田宗睦氏は講演「古田史学の意義と日本書紀の研究」の中で、仲哀紀のこの部分について、
「これは誰が考えてもおかしいのです。
― 中略 ― 
この話の中の進行方向を東西ひっくりかえしたら変なところはなくなることに気がつきました。日本書紀では東から西へやってくる話になっていますが、そうではなく、香椎の宮に居た九州王朝の始祖が、儺の津から周芳の沙麼に向けて出発した。
その時に伊都の五十迹手が出発する九州王朝の始祖の軍勢を送ってきたのです。
そして岡からさらに穴門の引嶋まで送ってきて引き返した。
― 中略 ― 
岡から同行した熊鰐の方は五十迹手が帰ったのちも、さらに穴門の豊浦から周芳の沙麼に到るまで送ってきた。方向を逆にしてしまうと変なところは解消してしまいます。」
 
とした後に、
周芳の沙麼に着いたところからこの話は景行紀12年秋9月の「周芳の国の沙麼に到りたもう」
につながることを見抜いている。
九州王朝の始祖は周芳の沙麼を出発して九州一円を征服する遠征に出発したということになる。日本書紀が7世紀以前の各地の地域王国に残る説話を都合よく換骨奪胎して、近畿天皇家の歴史の中に組み込んだやり方が見えてくる例である。
山田宗睦氏はこの講演の最後に、
「これは一つの例でしかありません。このような目で日本書紀を見つめてみると、なぜこんな変なことが生じているのか、というような問題が次々と出てくるでしょう。」
と述べている。

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