のんびりと古代史

自分なりに「削偽定実」を試みる。

邪馬壹国

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【魏と通行する30か国とは】
魏志倭人伝の最初の部分に、「今魏と使譯が通じているのは30か国である。」と記されている。
「今使譯所通三十國。」

【紹鴎国30か国がすべて魏と通行していたとする岩波版の注】
岩波文庫版(1985年新訂版、第77刷)の注には「後段に見える狗邪以下の九国と斯馬以下の二十一国とをあわせたものであろうか。」とある。
「狗邪韓国、対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国、投馬国、邪馬台国、斯馬国、己百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、 好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、 呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、爲吾国、鬼奴国、 邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国」(以上30国が女王の支配下の国)

【魏とは日本列島の国々が通行していた】
ここでは倭人の国のことを言っているので女王国のことを言っているのではないのではないか。
倭人伝には女王国の支配下にない国として、「狗奴国、侏儒国、裸国、黒歯国」が登場してくる。これらの国が魏と通行を持っていないとは限らない。

【女王国の支配は九州島内部】
倭人伝には、「女王国の東、海を渡る千余里、また国あり、皆倭種なり。」とあるので、女王国に属する30か国は全て九州島内にあるとみてよい。以下の記述も九州島を指しているとみてよいだろう。「倭地は海中洲島の上に絶在し、或いは絶え、或いは連なり、周旋五千余里ばかりなり。」

【魏志倭人伝の30か国は女王国に支配されない国も含まれる】
女王国内の30か国がすべて魏と通行していたわけではないであろう。
女王国に属さない国でも特に日本海側にある国は、「今魏と使譯が通じているのは30か国である。」可能性が高い。島根県の妻木晩田遺跡は弥生後期の遺跡で広大な敷地だったことが確認されている。韓半島や中国と通行があったことは十分考えられる。古墳時代初頭に滅ぼされたらしい。卑弥呼の死後また戦争状態となったと魏志倭人伝は記しているので巻き込まれて滅亡してしまったのかもしれない。
【卑弥呼の献上品と明帝からの賜物】
景初二年十二月、倭王卑弥呼は魏王に
「男生口四人、女生口六人、班布二匹二丈」
を献上している。
それに対して魏王は卑弥呼を「親魏倭王」として金印紫綬を与え、
使者の難升米、牛利にも銀印青綬を賜与した。
さらに「絳地交竜錦五匹・絳地スウ粟ケイ十張・セン絳五十匹・紺青五十匹」
卑弥呼個人に対しては、
「紺地句文錦三匹・細班華ケイ五張・白絹五十匹.金八両・五尺刀二口
・銅鏡百牧・真珠・鉛丹各々五十斤」
を与えるとしている。
これらの品は「皆装封して難升米、牛利に付す。」とある。
 
【少帝からの賜物】
正始元年条には、魏王少帝は太守弓遵、建中校尉梯儁等を倭国に遣わして、
倭王と直接会って、「金帛・錦ケイ・刀・鏡・サイ物を賜う」とある。
景初二年条に記された賜物と正始元年条に記されているものとが
同じ物かどうかが大きな問題となる。
 
【卑弥呼は景初三年銘鏡を手にしたか】
景初二年の時の魏王明帝は一か月後の景初三年正月に死んでしまう。
慣例に従って景初三年は成立し、
次に即位する少帝の正始元年は翌年から始まる。
景初二年十二月に明帝が詔勅し装封までしたものと、
正始元年に太守弓遵、建中校尉梯儁等の使者が倭王に手渡したものが
同一であろうか。
なぜ問題となるかというと、日本で発掘された三角縁神獣鏡に
「景初三年」と「景初四年」の銘があるからである。
「景初四年」は問題外として、
「景初三年」は明帝が装封を命じたものと同じであれば
卑弥呼が手にすることはないからである。
 
【邪馬台国と卑弥呼】
「歴史街道9月号」に遠山美都男氏の邪馬台国論が掲載されている。
邪馬台国に関する研究の論点を整理するためにはよくまとめられていると思う。
記者の質問に遠山氏が答える形式で記されている。
第一部「邪馬台国はどこにあった?」
第二部「女王・卑弥呼の真実とは」
第一部はQ1〜Q10まで「邪馬台国」についての10の質問に答えながら、
最後に遠山氏の結論が述べられる。
第二部はQ1〜Q5まで「卑弥呼」についての5つの質問に対して、
遠山氏の独特の見解が展開されている。
 
【遠山美都男氏の結論】
第一部で遠山氏は、
「これらの論拠を踏まえた上で、私はやはり畿内説が優位ではないかという考えを持っています。」
と結論付けている。
(「やはり畿内説」の「やはり」は論理的ではない。:ブログ筆者注)
第二部では、
卑弥呼が「神功皇后」、「倭姫命」、「倭迹迹日百襲姫」であったとする説を紹介し、持論である「卑弥呼機関説」を展開している。
つまり卑弥呼は人名ではなく役職名であるという考え方である。
 
【遠山氏の姿勢には共感するが・・・】
結論はともかくとして、遠山氏が魏志倭人伝を丁寧に正確に読み込もうとしている姿勢には共感することができる。
それだけちゃんとに読んでなぜ「近畿説」だったり、「卑弥呼機関説」となってしまうのか疑問であるが、それはともかくとしてしっかり読もうとしている。
邪馬台国と倭国を正確に読み分けている。
魏志倭人伝には倭国の大乱の様子が描かれている。
大乱は一女子を立てることによって収まる。
その女子の名が卑弥呼。
卑弥呼が「都するところ」が邪馬台国。
「倭国とは、邪馬台国をはじめ伊都国や末盧国といった三十ほどの諸国からなる連合体のことであり、邪馬台国は倭国のうち、卑弥呼の王宮が置かれていた一国にすぎません。」
と正しく定義づけている。
さらに後漢書の記述にも触れている。
後漢の光武帝から印綬を賜った倭奴国はまだ倭国と呼ばれるまでに至っておらず、
倭国と最初に呼ばれたのは同じ後漢書に記された、半世紀後の107年に後漢に生口60人を献じた倭国王帥升のところ、と指摘している。
倭国が成立して最初の国王となったのが帥升ということである。
 
【遠山氏の論理を狂わす「ヤマト中心主義」】
遠山氏は魏志倭人伝や後漢書などの史書をかなりきめ細かく正確に読んでいるにもかかららず、「ヤマト中心主義」という呪縛にとらわれているために誤った結論に至っている。
第一部の最後に、
「やはり大和を中心として西日本全体を覆うような政治的統一が実現していたということを考えざるを得ないと思います。」
述べているが、「やはり」という言い出しに「ヤマト中心主義」の先入観が潜んでいると感じた。
 
パソコンの故障でブログの更新ができなくなり、20日間ほどゆっくりすることができた。
久しぶりの記入、古代史の第一歩である邪馬台国の位置について少々。
 
【中国正史に残る邪馬壹(臺)国】
邪馬壹(臺)国(中国の史書の書き方、以下邪馬台国)についての詳細は、中国史書にしか記されていない。
日本国には伝承さえも残っていなかったのかもしれない。
したがって邪馬台国の場所を特定するには、中国史書にどう記されているかを確認することが基本である。
 
【魏志の記述】
魏志倭人伝には
「帯方の東南大海の中にあり」、
「会稽東冶の東」
と二つの地図的表記がある。
帯方は今のソウル付近と言われている。
会稽は現在の紹興市、北緯30度の位置にある。
北緯30度を正確に東へ進むと、日本付近では鹿児島県の屋久島と口之島の間にあたる。
 
【後漢書の記述】
後漢書は対象の時代は魏志よりも古いが、記述された時代は後になる。
邪馬台国の位置については、魏志の記述を踏襲している。
「倭は韓の東南大海の中」、
「その地、大較会稽東冶の東にあり」、
「朱崖、儋耳と相近し」
朱崖、儋耳は魏志には倭国と風俗が似ているという記述がされている。
 
【宋書、隋書の記述】
宋書では、
「倭国は高句麗の東南大海の中」と記され、
隋書では、
「倭国は百済、新羅の東南にあり」となっている。
 
【中国正史の見解は統一されている】
中国正史の記述によると、邪馬台国の位置は皆同じである。
韓半島から見ると東南にあり、揚子江流域の地域から見ると真東に位置すると述べている。
各時代の中国の正史が魏志の記述をそのまま受け入れてきただけなのだろうか。
3世紀から7世紀にかけて中国側の倭国に対する認識は更新されなかっただろうか。
倭国から中国へ使者が渡っているように、中国からも倭国へ渡った人はいただろう。
認識を新たにした後世の王朝が、魏志の記述を承認して踏襲したと考えるのが正当ではないだろうか。
 
【邪馬台国の位置】
中国の正史は邪馬台国の位置は九州であると述べている。
鹿児島かもしれないし、熊本かもしれないし、福岡かもしれない。
大和(奈良県)ではないと言わざるを得ない。
地図をどう見ても韓半島の東南に近畿地方があるということにはならない。
会稽の東に奈良県があるというような地理認識であったとは考えられない。
中国人にとって古代から太陽が上がる方向を認識することは
今以上に重要なことであっただろう。

邪馬壹国所在論争

【倭国の盟主「邪馬壹国」】
「魏志倭人伝」(正式には「魏志東夷伝・倭人条」、以下「倭人伝」)で考える時、卑弥呼の居住する場所は「邪馬壹国」にある。
邪馬壹国は倭国の盟主の国である。
倭国は30国ほどの国で構成されており、その中の代表国が邪馬壹国である。
 
【魏の使いは卑弥呼に会っている】
「倭人伝」では卑弥呼の使いが魏の都洛陽まで行っている。
魏からも帯方郡の太守が倭国に来て倭王(卑弥呼)と会っている。
「倭人伝」の「邪馬壹国」までの行程は、帯方郡を基点としているので、正始元年(240年)の帯方郡太守の邪馬壹国訪問の時の情報を使用しているものと考えられる。
「倭人伝」は倭人からの聞き取りだけで記述されたものではない。
 
【「邪馬壹国」はどこか】
「邪馬壹国」がどこにあったか、明治時代以来古代史学界を二分しているテーマである。
「倭人伝」によると、帯方郡の太守一行は「詔書・印綬を奉じて、ー 中略 ー、金帛・錦罽(きんけい)・刀・鏡・采物」を持参していたという。
彼らは対馬、壱岐を経て末盧国(唐津のあたり)に上陸した。
上陸後、伊都国などを経て邪馬壹国に至ったことになっている。
さらっと読むと邪馬壹国は九州のどこかだろうと思う。
邪馬壹国近畿説の人はなぜそれを近畿にあったと主張するのか。
「倭人伝」に、邪馬壹国に至る前、不弥国の後に、「南至投馬国水行二十日」とあり、
その後に「南邪馬壹国」と出てくる箇所を、瀬戸内海を通って20日間で投馬国に着いて、投馬国の南に邪馬壹国があるので、邪馬壹国は近畿大和にあるのだと言っているらしい。
 
【「混一疆理歴代国都之図」】
九州から南へ水行しても近畿には行かないが、近畿説の論者は15世紀に朝鮮で作成された世界地図「混一疆理歴代国都之図」を持ち出す。
その地図によると、日本列島は九州を最北端にして南側に伸びている。
だから南に水行二十日で近畿地方に到着してもおかしくないという。
 
【魏の使いはなぜ九州に上陸したか】
たくさんの荷物を持った一行が近畿大和へ行く時に、一度九州に上陸して北部九州を陸路横切り、再度船に乗船して瀬戸内海航路に出る。
こんな航路を取るだろうか。
港で休んで船でまた出かけるのが普通ではないだろうか。
 
【傍線行程】
ちなみに不弥国から「南至投馬国水行二十日」は、不弥国から南に水行すれば20日間で投馬国へ着くことができる、
ということを述べた傍線行程。(古田武彦説)
邪馬壹国近畿説が、15世紀の日本列島に関しては不正確な地図を引っ張り出して成立していることに少々驚いてしまった。
倭人伝は実際に邪馬壹国までやってきた人の情報で書かれているので、
彼らは方位を間違えるなどということはありえないだろう。
 
【邪馬壹国は九州内にあった】
倭人伝には、
「女王国東渡海千余里復有国皆倭種
(女王国の東、海を渡る千余里、また国あり、皆倭種なり。)」
と記述されている。
このような場所は日本には九州以外ない。
 
 

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