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国譲りと天孫降臨において高天原の最高神は高皇産霊尊だった。
それを古事記は8世紀の近畿天皇家の事情に合わせて最高神を天照大神に書き換えた。
しかし日本書紀の編纂を司っていた藤原不比等はあえて伝承されてきた原話を尊重し高皇産霊尊を最高神とすることにこだわった。
高皇産霊尊は娘の栲幡千千姫命を天照大神の息子の天忍穂耳命に嫁がせることによって瓊瓊杵尊の外祖父となっている。
これは7世紀末に持統帝が切望して即位させた孫の文武帝に藤原不比等が娘の宮子を嫁がせて生まれた首皇子(聖武帝)を即位させることと事情がよく似ている。
高皇産霊尊と天照大神の関係(瓊瓊杵尊の外祖父と祖母)は藤原不比等と持統帝の関係のようでもあるし、不比等と元明帝の関係とも似ている。
持統帝をモチーフに天照大神を創造したのだろうが、首皇子が生まれて元明帝が即位すると、不比等は自分の存在を高皇産霊尊にだぶらせる構想を得たのではないだろうか。
日本書紀に前例を仕込むことによって自分の立場を正当化することは不比等の常套手段だったようだ。
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高皇産霊尊
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日本書紀と古事記では、高皇産霊尊の登場の仕方がまるで異なっている。
和銅5年(712年)に選録されて元明帝に献上されたにもかかわらず
古事記が採用されなかった原因のひとつだったかもしれない。
高皇産霊尊は、日本書紀では神代上には一書のところどころに出てくるだけで、
本文には神代下の冒頭に天照大神の子天忍穂耳尊に嫁ぐ
栲幡千千姫命の父として登場するまででてこない。
栲幡千千姫命が瓊瓊杵尊を生むので天孫瓊瓊杵尊の母方の祖父となる。
古事記では最初の段の「別天つ神(ことあまつかみ)五柱」に
天之御中主神に次ぐナンバー2で、
「高御産巣日神」(以降高皇産霊尊に統一)と出てくる。
高天原の最高神の一人である。
天照大神が天の岩屋戸に閉じこもった時に、
知恵を絞って活躍する思金神は高皇産霊尊の子である。
葦原中国の平定では天照大神のパートナーとして諸神のまとめ役となっている。
天孫瓊瓊杵尊は天照大神の子天忍穂耳尊が
高皇産霊尊の娘万幡豊秋津師比賣命を娶ってできた次男。
天孫の外祖父である設定は同じになっている
古事記では、高天原の原初神である高皇産霊尊が
伊弉諾尊の左目から生まれた天照大神と
子供同士が結婚する関係になっている。
記紀ではよくある世代を無視した乱暴な関係を作り上げている。
大切な部分があまりにも無神経に扱われているので古事記は没にされて、
日本書紀では高皇産霊尊を本文では高天原の原初神としては登場させずに、
瓊瓊杵尊の外祖父として登場するまで温存したのだろう。
(To be continued)
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日本書紀巻第二神代下から国譲り、天孫降臨の説話が始まる。
古事記岩波版には「葦原中国の平定」という段落のタイトルが付けられている。
日本書紀の国譲り・天孫降臨説話は本文の他、一書が第一から第八まで8種類記述されている。
日本書紀では一書(第一)が、国譲りの使者を派遣する高天原の主体が天照大神となっているが、他では主体が具体的に登場しているものについては、「高皇産霊尊」を主体として描かれている。
(一書(第二)では「天神」と「高皇産霊尊」が併用されている)
特に本文においては「皇祖高皇産霊尊」という表現さえも使用されている。
古事記では、天照大神と高皇産霊尊は並んで登場してくるが、どちらかというと天照大神を上位にしている印象がある。
(書き出しが「天照大神の命もちて、・・・」となっている。)
記・紀が編纂された8世紀初頭の近畿天皇家では、おそらくすでに天照大神を最高神としていたものと思われる。
その朝廷の環境の中で、国譲り→天孫降臨を行った主体が日本書紀本文と古事記で異なっているのはどういうことなのだろうか。
もし元々の伝承が高天原の最高神を天照大神としていたとすると、日本書紀が本文において天照大神を高皇産霊尊に書き換えるということがありえるだろうか。
編纂に携わっている史官が近畿天皇家の最高神を他の神に変更するなどということは起こりうることではないだろう。
したがって元々の伝承は、
「高天原の最高神は高皇産霊尊だった」
ということになる。
古事記が編纂時点で近畿天皇家を慮って「天照大神」に変更した可能性が強い。
それでは何故国史として最終的に採用された日本書紀が原文のまま「高皇産霊尊」を使ったのかを検証していこうと思う。
「皇祖高皇産霊尊」とあえて天照大神を凌ぐ表現を用いていることも気になるところだ。
(To be continued)
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