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【陳寿を信じる】
1971年に朝日新聞社から出版された「邪馬台国はなかった」のはじめにの項で古田は、魏志倭人伝の解明にあたった従来の学者と自身との違いについて言及している。
これまでの学者が、
三国志に記された「邪馬壹国」を「ヤマト」と読ませるために「邪馬台国」と漢字を書きかえたり、
1里を約400m(漢代の里)で計算し三国志に出てくる里程は距離を大幅に大きく誇張して解釈する傾向にあると結論付けたり、
「南」を「東」と読み替えたりして解釈しようとしていることを批判し、
古田自身は、シュリーマンがホメロスの叙述を信じてトロヤの廃墟に到達したように、三国志の著者陳寿を徹頭徹尾信じて原文に忠実に読み進めて卑弥呼の国にたどりついたと述べている。
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古田武彦
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【『「邪馬台国」はなかった―解読された倭人伝の謎』出版までのいきさつ】
『「邪馬台国」はなかった―解読された倭人伝の謎』(以下、邪馬台国はなかった)は1971年朝日新聞社より出版された。
2010年ミネルヴァ書房から古田武彦古代史コレクション1として復刊された。その復刊本の「はしがき―復刊にあたって」に著者は次のように記している。
1969年9月古田の古代史に関する処女論文「邪馬壹国」が東大の『史学雑誌』に掲載された。古田はそれまでの親鸞研究で得た原則「原本を勝手に直すな。」を古代史研究においても踏襲した。原本が著者の自筆ではなく何回目の写本であったとしても、研究者が自分の考えで書き直してはいけない、自説に都合の良いように書き直して解釈すれば書き直した学者の数だけ新たな文面が出来上がってしまう、と考えた。
古田が『魏志東夷伝倭人条』(以下、魏志倭人伝あるいは倭人伝)を読んだ時に、この中に出てくる「邪馬壹国」は大丈夫か、と疑問に感じ、古代史の研究者たちの子の疑問をぶつけようとしたことが論文執筆の動機だったという。『史学雑誌』に掲載された論文は大反響となり読売新聞、朝日新聞の両全国紙が古田に出版を呼びかけた。ところが古田はなかなか首を縦に振ることをしなかった。それは倭人伝に記されている帯方郡から邪馬壹国までの部分部分の里程を足しても総里程に一致しなかったからだという。倭人伝の文面の中に部分部分の合計=総里程を解くカギを発見した古田は粘り強く出版を求めていた朝日新聞から「邪馬台国はなかった」を出版する決意をした。
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【論理の導くところに行こうではないか】
古田武彦は『よみがえる九州王朝』ミネルヴァ版の巻末書下ろしで「論証と実証」論を展開している。東北帝国大学時代の恩師村岡典嗣が「実証よりも論証の方が重要です。」と言ったということを先輩から何度も聞いたという。古田自身は戦争の影響で村岡との接点は実質一ヶ月半ほどしかなかったため直接聞くことはなかった。古田はこの小論の中で「実証」と「論証」の定義を行っている。
「実証」とは「これこれの文献に、こう書いてあるから」という形の”直接引用”の証拠のことです、と述べ、これに対して「論証」の方は、人間の理性、そして論理によって導かれるべき”必然の帰結”です、と述べている。
さらに旧制広島高校時代の恩師岡田甫から教えられた、
「論理の導くところに行こうではないか、たとえそれがいかなるところへ到ろうとも」(趣旨)
こそ本当の論証です、と記している。
【古代史におけるエビデンス】
日本の古代史のように、特に記・紀が扱っている時代は、何が真実かを見極めることはほとんど不可能に近い。中国や朝鮮の海外文献などとの整合性をとりながら多くの学者や研究者が仮説を造り論戦を戦わせているのが実態である。そのような状況なので決定的なエビデンス(証拠、根拠)を求めることはほとんど不可能なのである。文献と比較すると、考古学には発掘物があるので、年代を推定することができる。そのためその発掘物がいかにもエビデンスであるかのような印象を与えることがある。考古学的な発表をマスコミが取り扱うとあたかも史実が確定したかのような雰囲気を醸し出してしまうことがしばしば行われている。
古田は特に確定が難しい古代史のような学問は内外の文献や考古学的な発掘物などをすべて把握したうえであくまでも論理的に証明していくことが重要であるということを言っているのであろう。古代史学の使命は、はるか昔の実証不可能なことを論理によって見極めようということである。
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【評制はいつから始まったか】
日本書紀は「評」を「郡」に改ざんした。
しかし風土記などには「評」がそのまま記されているケースは多いし、木簡や金石文は「評」の存在を現在に伝えている。
701年まで行政単位として「国」の下部組織として「評」が使われていたことは明確であるが、評制の始まりはいつからなのだろうか。
評制の始まりを明確に記しているのは、延暦23年(804)に書かれた『皇太神宮儀式帳』で「難波朝廷天下立評給時以十郷分度会山田原立屯倉」いう文言があり、難波朝廷(すなわち孝徳天皇の治世)で天下に評制を立てられたと記されている。
日本書紀によると孝徳天皇の在位は645年から649年、この間に評制が開始されたことになる。
『皇太神宮儀式帳』が特に年代を偽る理由も考えられないので何らかの史料にもとづいた記述とみてよいのだろう。
評の存在を隠ぺいする日本書紀には孝徳天皇記に「天下立評」記事はない。
1999年(平成11年)11月、大阪市中央区前期難波宮跡から「戊申年」(648年)の紀年銘木簡の他に「秦人国評」などの木簡が出土している。
「評」木簡に干支年が記されていたのではないので必ずしも確定はできないが、この時期に評制度が開始したと考えられる証左であることは間違いない。
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【那須国造碑:国造と評督】
那須国造碑は庚子年(文武4年、700年)正月に没した那須直韋提の墓所に建てられた。
「永昌元年己丑四月飛鳥浄御原大宮那須国造
追大壹那須直韋提評督被賜歳次康子年正月
二壬子日辰節殄故意斯麻呂等立碑銘偲云尓 以下略」
ここには生前の那須直韋提が任じられた二つの官名と一つの位階が記されている。
「那須国造」と「評督」が官名、「追大壹(正八位上相当)」が位階である。墓誌に記された文章は漢文の文法ではなく単語を漢字で並べたというような構成となっている。
通説では「永昌元年己丑四月、飛鳥浄御原朝に、那須国造で追大壹の那須直韋提は、那須評督に任じられた。」という解釈となっている。
この解釈だと韋提の最終官職は「評督」ということになる。
古田武彦氏は、この文章を「飛鳥浄御原大宮、那須国造追大壹を那須直韋提評督に賜る。」と読むべきと主張している。
韋提の最終官職は「那須国造」である。
ここに出てくる位階は「追大壹」だけなので、韋提がこの位階で没したことはほぼ間違いない。
位階の「追大壹」は次の「那須直韋提」とセットである。
「追大壹那須直韋提」が那須国造から評督になったのか、評督から那須国造になったのか、この碑文を解釈することによって国造と評督の上下関係が判明するのである。
古田氏は藤原宮で発見された木簡「己亥年(699年)十月、上挟国阿波評松里」から国は評の上部概念であることの根拠とし、評督の韋提が国造になったと読むのが正しいとした。(古田武彦著『古代は輝いていたⅢ』より要約)
九州王朝の治世においては都督→国造→評督→・・・の序列だったということである。
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