のんびりと古代史

自分なりに「削偽定実」を試みる。

舒明王朝

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【舒明紀の凶兆の意味するところ】
日本書紀が舒明帝の時代に、
「彗星」、「日食」、「大雨・洪水」、「流星」、「星入月」などの
凶兆を書き連ねたことにはどんな意味があるのだろうか。
事実としてあったのだという解釈もあるだろう。
歴史書は史実であるならば何でも書くという性格のものではない。
手元に集まった資料の中から取捨選択して記事を構成するのが
編纂者の仕事であろう。

【日本書紀編纂者は舒明帝に好意を抱いていない】
結論を言うと、聖徳太子の子の山背大兄皇子を退けて即位した
彦人大兄皇子の子の田村皇子に対して
日本書紀編纂者は好意を抱いていないのである。
そのように考えるのは簡単だが、
以下のような事情から話が少しややこしくなってくる。

【歴史書として不細工な体裁になる舒明紀の凶兆記事】
舒明帝は皇祖大兄=押坂彦人大兄皇子の息子で、
息長氏の中ではじめて皇位に就き、
近畿天皇家の祖と位置づけられる存在である。
記紀は用明帝以降推古帝まで続いた蘇我氏系の天皇から
舒明帝が即位して息長氏系の天皇に時代となり、
天智帝、天武帝を経て日本国を建国する近畿天皇家につながる歴史を
描いている。
舒明帝は息長天皇家の始祖ともいえるのである。
その始祖の時代が「凶兆の時代」であるというのは
歴史書として何とも不細工な体裁ではないだろうか。

【舒明紀以外の悪意記事】
舒明帝以降の天皇に対する記述を思い起こすと舒明帝以外にも、
「孝徳帝の難波宮置き去り」、
「斉明帝の狂心の渠」、
「天武帝の草薙剣の祟り」など、
わざわざ書かなくてもよさそうなことが記されている。
反対に皇極帝、天智帝、持統帝には、
ほとんど「不敬」的な表現は見当たらないのである。

【α群、β群分類では説明できない】
森博達氏は推古紀、舒明紀、天武紀は倭習漢文で記されたβ群、
皇極紀、孝徳紀、斉明紀、天智紀は正格漢文で記されたα群に属し、
書き手が異なると述べているが、それだけでは説明できない。

【藤原不比等の意思か】
ここには古事記を排除して日本書紀が正史として成立した
根本的な事情が潜んでいるのではないか。
舒明紀の凶兆記事は、
心情的に「親天智帝」、「反天武帝」の意思をもつ
藤原不比等の考え方の反映でもあるし、
倭国から日本国へ政権が交代した事情を隠ぺいしていることも
影響しているのではないだろうか。

田村皇子=舒明帝

【舒明帝の誕生】
彦人大兄皇子と聖徳太子、ふたりの太子(ひつぎのみこ)の息子、
田村皇子と山背大兄皇子による皇位継承争いは、
田村皇子が即位して舒明帝となりひとまず決着した。

【印象が薄い舒明帝】
大げさな皇位継承争いを演じて皇位に就いたにもかかわらず、
日本書紀は舒明帝の事績を多く語っていない。
「息長」の名前を持つ最初の天皇として描かれているにもかかわらず印象が薄い。

【「舒明」の意味は?】
遠山美都男に「名前でよむ天皇の歴史」という新刊がある。
歴代天皇の漢風諡号からその天皇の事績や性格をとらえようとする
ユニークな試みである。
「舒明帝」の項目を見てみよう。
まず、「息長足日広額」(舒明帝の和風諡号)を解説している。
「息長足日広額は、『息長氏がお育て申し上げた額の広い聡明なお方』
の意味であり、 ―中略― 、
この天皇は、天皇の支配が空間的に無限におよぶことを象徴した
八角形墳(奈良県桜井市の段ノ塚古墳)に葬られた最初の天皇であったが、
和風諡号はそれに相応しい荘重なものといえよう。」と述べている。
漢風諡号の「舒明」については、
「漢風諡号の舒明の典拠について、
鴎外の『帝諡考』は『淮南子』第一、原道編の一節、
『これを舒ぶれば六合を幎い、これを巻けば一握りにもみたず。
約やかにして而も能く張り、幽くして而も能く明らかに・・・』を引いている」
と紹介した後、
「舒明とは『のべあきらかにすること』であり、 ―中略― 、
『おもむろに君主としての聡明さが明らかになる』の謂いかと見られる。」
と述べている。
漢和辞典を見ると、
「舒」には「のべる、のびる」の他に、
「ゆるやか、ゆるい、おそい、のろい」や「しずか、おだやか、みやびやか」
の意味がある。
日本書紀の記述を読むと、
舒明帝は飢饉の時に何か月も温泉に出かけたりしているので、
後者の意味合いが含まれているかもしれない。

7世紀の年号について

【年号制は皇帝による時間支配を表す中国の制度だった】
年号制は、暦・時刻制とともに、
「皇帝による時間支配を形作り、国家行政に規律を与えた」
(吉川真司「飛鳥の都」)
中国の制度である。
 
【倭国の年号の採用は】
東アジア諸国が中国の王朝の冊封下にあった時には、
独自の年号をもつことは許されなかった。
中国の史書には5世紀から6世紀の初頭にかけて東晋・宋・斉・梁に朝貢し、
「安東将軍」などに任じられた倭の五王のことが書かれている。
倭国は中国王朝の冊封体制に組み込まれていた。
中国の王朝の支配下にはいっている国が
独自の年号をもつことは許されなかっただろう。
倭国に関する記事は梁書武帝紀の倭王武が
征東大将軍に任じられた(502年)ことを示す記述を最後に
中国の正史にしばらく出現しなくなる。
その頃から倭国九州王朝では九州年号の採用を始めている。
517年に「継体」年号を採用し、以後「善記」、「正和、「教到」、・・・と
継続して年号を使用しており、700年の「大長」で終了している。
その後に近畿天皇家によって「大宝」年号が採用されたことになる。
中国が梁になってからもしばらく冊封体制下にいた倭国が
何らかの事情で517年に独立したものと思われる。
年号の採用は独立の意思表示でもあっただろう。
 
【近畿天皇家の年号】
日本は701年に「大宝」という年号を採用した。
それ以前には7世紀の近畿天皇家が三つの年号を採用したことを
日本書紀は記している。
孝徳帝の治世は前半が「大化」(元年〜5年)、
後半が「白雉」(元年〜5年)となっている。
もう一つが天武帝治世の最後の年(15年目)の「朱鳥」(7月20日改元)。
この三元号以外には元号をもたなかった。
元号がないということは独立していなかったか、
日本列島における主権を持っていなかったことを意味している。
それでは何故、「大化」、「白雉」、「朱鳥」の三元号だけ
日本書紀に記されているのだろうか。
古田武彦氏は次のように述べている。
・「白雉」年号について
白雉とは天子の瑞兆を表す言葉である。
九州王朝では多利思北孤が天子を自称しているので、
白雉年号の記事は九州王朝のものを借用したのだろう。
九州年号では「白雉」は652年から660年までで
孝徳8年から斉明6年に当っている。
・「朱鳥」年号について
朱鳥には徳政令のイメージがある。
天武15年7月19日に借財免除の法令を出し、
翌日に「朱鳥」と改元している。
白村江敗戦の後インフレが起こり
九州王朝で借財返済免除の法令が出された。
この法例は豪族・高級官僚の反発を買って
九州王朝の衰退に結びついた。
日本書紀はその法令だけ借用している。
持統元年には元本ではなく利子に訂正している。
九州年号では684年〜685年、天武13年〜天武14年が「朱雀」となっている。
・「大化」について
大化の改新の主要項目は、部民制を廃止して公民制を施行したこと。
九州王朝の制度だった部民制を廃止して
近畿天皇家の制度である公民制に移行した
8世紀初めの状況に合致している。
「二中歴」では700年から701年が「大化」となっている。
日本書紀は「大化」を半世紀遡上させた。
何故か?
天武帝と持統帝が天智帝の遺志を裏切って大友皇子を自殺に追いやった
壬申の乱を正当化するためだとしている。
日本書紀を編纂していた頃の人々はこの事実を記憶していて
大友皇子の悲劇を密かに語り継いでいた。
その過去を覆うべく日本書紀は編まれた。
天智帝の遺志は公地公民制などを実現することにあり、
壬申の乱はその実現のために行われた。
その結果として大宝律令の制定で実現しようとしている制度は
天智帝と藤原鎌足が望んだことだったと主張している。
つまり「大化」を乙巳の変の直後にさかのぼらせることで、
大化の改新と大宝律令の制定をだぶらせて、
壬申の乱の正当化を図ったと古田武彦氏は述べている。
日本書紀は7世紀の情勢、
天皇の治世で言うと推古朝以降を
特に慎重に書き上げている。
正史である日本書紀は日本という国家の
存在証明としての意味合いが強いことは言うまでもない。
それ以上に大宝律令を制定して始めようとしている
律令政治を推進するためのツールとしての機能を求められている。
8世紀以降の近畿天皇家の政権を正当化し確固たるものにするために、
意図的に作り上げられているところがあると思われる。
日本書紀の記述以外から史実として確定できることを確認し、
7世紀の史実を推しはかっていきたい。
 
史実として確定できそうなこと。
700年までは倭国、701年以降は日本国。(旧唐書)
700年から701年の間に評制が郡制に改められた。(藤原宮出土の木簡)
 
古田武彦氏は、700年まで施行されていた評制を制度化したのは
近畿天皇家ではないと断定している。
理由として評制について日本書紀がいっさい記していないことを挙げている。
従来説では孝徳帝時代に中大兄、藤原鎌足主導で
制定されたとされるようだが、
日本書紀編纂の中心的存在だった藤原不比等が
父鎌足の業績を記さない理由がないと指摘している。
評制は近畿天皇家ではなく、
他の王朝=九州王朝が制定したものと断じている。
九州王朝が制定したとする傍証として、
倭の五王が都督とされていることを挙げている。
倭王は中国の王朝=宋から都督と任官されている。
都督とされたのは倭王と百済王が明らかになっているが、
倭国には倭王=都督の居る場所として筑紫都督府があり、
百済には熊津都督府がある。
評制の評督は評の長官だが、都督の下に位置している。
つまり評は筑紫都督府の下部組織ということになる。
そのことから古田氏は評制から郡制への移行、
倭国から日本への変動は、
筑紫から近畿への権力中心の移動を示しており、
701年に権力の正式な移動が行われたとしている。
そのことを前提に日本書紀の7世紀の記述を読んでいきたいと考えている。
 
【天皇系譜の相似形】
初代女性天皇といわれる推古帝から
舒明帝、皇極帝へ引き継がれる皇統の系譜は、
持統帝から文武帝、元明帝と引き継がれた
7世紀末から8世紀初頭にかけての系譜と似ている。
さらに推古帝の後には皇位継承資格者だった押坂彦人大兄皇子を
父とする舒明帝が即位した流れは、
持統帝を引き継いだ文武帝が持統帝の息子の
草壁皇子の息子であることと相似形となっている。
 
・6世紀末から7世紀初め
 推古帝⇒(押坂彦人皇子)⇒舒明帝⇒皇極帝
・7世紀末から8世紀初め
 持統帝⇒(草壁皇子)⇒文武帝⇒元明帝
 
【なぜ舒明帝を創作しなければならなかったか】
持統帝は孫の文武帝の即位を見届けて、
文武6年(大宝2年、702年)に崩御している。
日本書紀の編纂を主導していた前例重視主義の藤原不比等は、
当初持統帝の信頼を得ることに最大の関心を払っていた。
持統帝の最大関心事は孫の軽皇子を即位させることだった。
不比等は天皇の子でない軽皇子を即位させるために、
日本書紀の中に前例を作り出すことを考えて持統帝に提案したのだろう。
前例に従って文武帝へ譲渡するという環境を整えることが目的だった。
そのために押坂彦人皇子の息子田村皇子を
日本書紀の中に造り出して舒明帝として即位させた。
 
【不比等の舒明帝創作企画を持統帝は承認した】
不比等は持統帝を初代女帝で37年間君臨した推古帝に当てはめた。
持統帝は自分が伝説の女王に比定されているのだから満足だっただろう。
不比等は女心を手玉に取ることにも長けていたのかもしれない。
推古帝の皇位を引き継いだのが、
押坂彦人皇子の子供の舒明帝である。
天武帝と持統帝の間の子である草壁皇子の息子の
文武帝が即位することには何の問題もなくなった。
 
舒明帝は文武帝即位のために造りだされた。
 
持統帝は文武帝に譲位することになるが、
譲位の前例も創作する必要があった。
皇位が譲位された前例として
皇極帝の孝徳帝への譲位譚が出来上がった。
無理なストーリーを挿入したため
修正する必要が生じたのだろう。
皇極帝は孝徳帝の崩御後、再即位せねばならなくなった。
日本書紀編纂時にとって近過去である天智帝の時代は周知されているため
整合性をとらなければならなかった。
天智帝の直前の天皇は斉明帝(皇極帝重祚)でなければならなかった。
全ては藤原不比等が持統帝の信頼を得るための画策だったと考えると、
日本書紀に描かれている、
舒明帝即位の不自然さ、
皇極帝の重祚、
に対する疑問が解決する。

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