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あまり乱暴な議論をすることは本意ではない。
日本書紀の田村皇子=舒明帝の即位があまりにも不自然なので、
いろいろ考えた結果、
以下の理由から推古帝から皇極帝への権力の移動を正当化するために、
日本書紀編纂者によって、
「田村皇子=舒明帝」が造り上げられたのではないかと考えるに至った。
推古女帝が37年間君臨した後何らかの政変があり、
皇極帝、孝徳帝姉弟の支配する世の中に代わったのではないか。
日本書紀の記述の不自然さを列挙してみよう。
・田村皇子の即位が不自然
・舒明帝と宝皇女(皇極帝)の結婚が不自然
・日本書紀に舒明帝の事跡がほとんど記されていない
・軽皇子(孝徳帝)の即位が不自然
・息子の天智帝、天武帝から舒明帝をリスペクトした言動が見られない。
(彦人皇子、皇極帝&皇極帝の母は皇祖と尊ばれている。)
古事記が推古記で終わっていることから、
8世紀の近畿天皇家は推古帝の時代までを
「古い時代」と考えていたと考えられる。
舒明帝からは新しい時代が始まった。
新王朝が始まったということではないだろうか。
日本書紀に書かれた系図を見ると、
舒明帝(田村皇子)は、
敏達帝と息長真手王の女皇后廣姫との間にできた
押坂彦人大兄皇子を父とし、
同じ敏達帝の子女である田村皇女を母としている。
天皇の子ではないので正式には皇子ではなかった。
しかし直系の皇太子と皇女の間の息子なので
天皇となり得る血脈ではあるのだろう。
一方皇極帝は、
押坂彦人大兄皇子と大俣王(漢王の女とされる)の子茅渟王を父とし、
吉備姫王を母としている。
この系譜だけを見るととても皇位を継承する資格があるとは思えない。
つまり皇極帝が即位するためには
舒明帝の皇后となることが不可欠な条件だった。
言い換えると、
皇極帝の天皇としての正当性は舒明帝との結婚によって
辛うじて支えられているに過ぎない。
その血脈的には天皇としての条件に欠ける皇極帝は弟に譲位する。
皇極帝は皇后という立場から即位したが、
弟には何の資格があって即位することができたのかよくわからない。
こうしたことから日本書紀の編纂者が、
「舒明帝」という敏達帝から直結した血脈をもつ存在を作り上げて、
皇極帝の天皇としての正当化をはかった、
と考えると筋が通るのではないだろうか。
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舒明王朝
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【皇位継承の原則】
日本書紀には、いろいろな形の皇位継承が記されているので
原則などなしにその場その場で
継承者が決められているような印象を与えている。
本来は皇后所生の直系皇子に引き継がれていくことが
最も望ましいことにちがいない。
【女帝の役割と推古帝】
女帝について言えば、
日本古代史に登場する女帝はほとんどが
意中の後継者が幼かったりした場合の
即位待ちのつなぎとして即位しているように見える。
天皇は常に皇統を恙なく継承していくことを
念頭に置いていなければならない。
女帝の長期政権となると直系皇子の数が増えなくなって、
後継候補がどんどん減少する危険性があり、
皇統維持に障害が出る可能性が大きい。
最初の女帝とも言われる推古帝は
長期に天皇位に居たために
臨終におよんで適当な皇位継承の有資格者が
いない状態になってしまった。
【欽明帝の次世代の即位】
6世紀の近畿天皇家は、
欽明帝(在位:540年〜571年)の崩御後
皇后石姫所生の敏達帝が順当に即位した。
敏達帝の後はやはり欽明帝の後宮にいた
蘇我稲目の女堅塩媛所生の用明帝(在位:585年〜587年)、
堅塩媛の妹小姉君所生の崇峻帝(在位:587年〜592年)、
が相次いで即位している。
崇峻帝が蘇我馬子に殺害されると、
何故か敏達帝の皇后だった推古帝(在位:592年〜628年)が
女帝として即位し37年間の長期政権を守ることになる。
日本書紀などの記述を見ると、
崇峻帝殺害の頃にはまだ
皇位継承にふさわしい皇子が何人かいたと思われる。
【推古帝即位の真相】
No.1の候補は前皇后広姫所生の押坂彦人皇子だが、
現皇后(推古帝)は何としても押坂彦人皇子の即位を
阻止しなければならなかっただろう。
この辺りが推古帝即位の真相かもしれないが、
そうなると37年後に押坂彦人皇子の息子の田村皇子を
後継に指名することとは矛盾している。
推古帝所生の敏達帝の皇子は二人(竹田皇子と尾張皇子)いたが、
何らかの理由で即位できなかったと思われる。
推古帝は即位し37年間君臨している。
欽明帝の次の世代は、
敏達帝、用明帝、崇峻帝、推古帝と4代続いて、
在位期間は合計57年間に及んだ。
特に推古帝が在位した37年間の間に
次の世代の皇位継承候補は一人もいなくなってしまった。
【推古帝の後継者】
推古帝の後は押坂彦人大兄皇子と厩戸皇子の息子、
田村皇子と山背大兄皇子が争うことにになった。
どちらの皇子も天皇の孫でしかなく、
十分な皇位継承資格を有しているとは思われない。
そんな状態の中で後継を決定すれば、
以後に禍根を残してしまうことになり、
皇統が途絶えるきっかけにもなりかねないだろう。
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【皇祖という言葉の使われ方】
大化2年3月20日条に、
「吉備嶋皇祖母命(きびのしまのすめみおやのみこと)」、
「皇祖大兄(すめみおやおほえ)」と出ている。
吉備嶋皇祖母は吉備姫王のことで皇極帝の母、
皇祖大兄は彦人大兄皇子のことで皇極帝にとっては祖父に当たる。
「皇祖」とは天皇家の祖先と解釈すると少し様子が違うようである。
日本書紀に使われている「皇祖」を調べてみると
もう少し特殊な使われ方をしていた。
決して歴代の天皇であればだれにでも使うような言葉ではないようである。
【皇祖と呼ばれたのは・・・】
神代の天孫降臨の段では「皇祖高皇産霊尊」と、
高天原の最高神の一人である高皇産霊尊を指して使っている。
対語として「皇孫天津彦彦火瓊瓊杵尊」が出ている。
神武即位前紀には「皇祖天照大神」とある。
神武紀までは高皇産霊尊か天照大神を指した言葉として使われている。
日本書紀はその後に、
綏靖紀で「皇祖の業を承けむ」、
崇神紀には「皇祖、諸天皇等光臨宸極」、
仲哀紀では「我皇祖、諸天皇」、
と神武帝を指して使われている。
神功皇后摂政紀では「皇祖の霊」、
允恭紀では「皇祖の宗廟、
」と特定の天皇ではなく歴代の天皇全般を指す使われ方をしている。
大化元年7月条では、
百済が日本の屯倉となったのは「我遠皇祖之世」以来だ、
といってここでは神功皇后を指しているようだ。
このように日本書紀が皇祖という言葉を使う対象は、
高皇産霊尊
天照大神
神武帝
神功皇后
歴代天皇全般
に対して限定的に使用していることが見て取れる。
それが冒頭で紹介したように、
皇極紀2年9月条で皇極帝の母を「皇祖母命」と言い、
大化2年3月条で彦人大兄皇子のことを「皇祖大兄」と記述している。
その他では皇極帝のことを
「皇祖母尊(すめみおやのみこと)」と述べている箇所が
孝徳紀から天智紀にかけて11回出てくる。
【天皇以外で「皇祖」と呼ばれたのは二人だけ】
日本書紀では「皇祖」という言葉は
慎重にリスペクトされるべき対象に対してのみ使われている。
それだけに彦人大兄、吉備姫王、皇極帝への使われ方が
特異な印象を受けることは否めない。
この3名は皇極帝本人を含めて皇極帝と関係が強い。
8世紀の近畿天皇家にとって
皇極帝の影響が最も強かったということかもしれない。
日本書紀には何らかの事情で
皇極帝の事跡が隠されているのではないだろうか。
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7世紀の近畿天皇家において、皇極帝の経歴は
最大のミステリーと言えるかもしれない。
すでに結婚歴があり高向王との間に漢皇子がありながら
舒明帝に嫁ぎ、皇后の座に就いている。
舒明帝の崩御後皇后という資格だけで皇位を継承し、
乙巳の変の後、皇位継承資格があるとは思えない弟(孝徳帝)に譲位している。
さらに孝徳帝の崩御後再び即位する。
異例づくしである。
最初の夫高向王は用明帝の孫であると斉明紀に記されているだけで
はっきりしたことはわからない。
連れ子の漢皇子は舒明帝との間にできた中大兄皇子よりも
年長であることは言うまでもない。
天武帝が天智帝よりも年長だったという説があることから、
漢皇子と天武帝を同一人物とだと言う人もいるようだ。
日本書紀には推古朝以降「高向」という名前が登場するようになる。
初出は遣唐使(遣隋使の間違いとも言われる)に伴って
学生として中国に渡った高向史玄理。
舒明12年に帰朝し後に国博士となり、
唐で得た知識に基づいて大化の改新の理念設立に尽力した。
また外交官としても新羅と交渉し、
新羅からの朝貢を中止してその代わりに人質をとる取り決めを行い、
金春秋(後の武烈王)を人質として連れ帰った、
と日本書紀は記している。
舒明即位前紀には田村皇子即位を支持する群臣の一人として、
高向臣宇摩が登場している。
乙巳の変では高向臣国押が微妙な立場で登場する。
皇極2年11月条で蘇我入鹿から
山中に逃げ込んだ山背大兄皇子を捕えるよう要請されるが、
「自分の役目は天皇を守ることなので外に出ることはできない」
と断っている。
さらに入鹿が殺害された後に蘇我氏配下の漢直から
蘇我蝦夷を助けるために挙兵するよう求められたが、
蝦夷側に勝ち目はないと、自分の持つ武器を放棄してしまう。
天武帝の治世においても高向臣麻呂が「小錦下」を授位され、
天武13年には天武朝と親交の深かった新羅への遣新羅使の大使となっている。
八色の姓では「朝臣」を賜姓されている。
このように日本書紀の「高向氏」への扱い方は
全て好意的と言えるだろう。
福井県坂井市に継体帝ゆかりの「高向神社」がある。
継体帝の母振媛命の実家があったところで
継体帝が育った場所だという伝承が残っている。
7世紀の高向氏もおそらくこの地の出身で
継体帝と共に動いてきたのではないだろうか。
高向氏は舒明帝の母方の息長氏と共に
7世紀に舒明帝から始まる王朝の成り立ちを知るうえで
重要な氏族であると考えてよいだろう。
皇極帝即位などに対して果たした役割など
日本書紀が隠してしまったことが多々あるように思われる。
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天智帝即位前紀(661年)の八月に百済救援軍派遣の記事が載っている。
岩波版注によるとこの時は発遣されずに翌々年に再編成されたようだ。
この八月に編成された部隊の前将軍が
大花下阿曇比羅夫連、
後将軍が大花下阿倍引田比羅夫臣だった。
百済救援に向かうはずの最初の部隊の
前将軍と後将軍が同じ「比羅夫」という名前だった。
阿曇比羅夫連は皇極紀元年正月条で
百済への遣使として派遣されており、
百済の舒明帝崩御の弔使とともに筑紫まで帰国している。(大仁阿曇連比羅夫)
翌二月条では筑紫に居る百済の弔使のところに、
百済の窮状の詳細を聞く使者となっている。(阿曇山背連比羅夫)
二月二十四日には百済の皇子翹岐(げうき)を
阿曇山背連は自宅にかくまっている。
一方、阿倍引田比羅夫臣は斉明四年四月条で、
180艘の船を率いて蝦夷を討ったことが記されている。
その時に蝦夷の首領恩荷(おが)を降伏させている。
同年是歳条では越国守阿倍引田臣比羅夫は、
粛慎(みしはせのくに)を討ち、
生熊2頭、熊皮70枚を献上している。
五年三月条にも蝦夷・粛慎征伐のことが記載されている。
六年五月条も蝦夷献上の記事がある。
岩波版注はこれらに重複記事は全て六年のことだろうという見解を述べている。
阿曇比羅夫連は記載内容から、
自宅が筑紫にあったことが推察される。
九州王朝の将軍として、
百済との交渉を担当する責任者だったと思われる。
阿曇比羅夫連が九州王朝の将軍だったとすると、
有名な阿倍引田比羅夫臣も阿曇と同様に
九州王朝の蝦夷討伐軍の将軍として活躍していたと考えられる。
白村江の戦においては阿曇比羅夫連は先遣隊として百済に赴き、
皇子豊璋を即位させている。
阿倍引田比羅夫臣は救援軍の将軍として、
戦地に向かい戦死したものと思われる。
ふたりの比羅夫の日本書紀の記載からわかることは、
阿曇比羅夫連の本拠は筑紫にあり、九州王朝の将軍だったということ。
阿曇比羅夫連と同じ派遣軍の将軍となった
阿倍引田比羅夫臣も九州王朝の将軍ということになる。
このことは白村江の戦の倭国軍は
九州王朝の派遣軍だったことを示している。
倭国は白村江の戦で致命的な被害をこうむったにもかかわらず、
近畿天皇家はほとんどダメージを受けなかった。
近畿天皇家が白村江の戦の当事者でなかったことを示している。
九州王朝の存在をなかったことにしている日本書紀だが、
主要な部分でのカモフラージュはできていても、
むしろ細部に史実を残してしまっている可能性がある。
百済との交渉で中心的役割を果たしていた阿曇比羅夫連が
九州王朝の将軍だった痕跡を日本書紀は消し切れていなかったようだ。
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