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推古帝の遺言をめぐって後継を
山背大兄皇子にするか田村皇子にするか
あれほど大騒ぎして即位した舒明帝であるのに
舒明紀には舒明帝の事跡がほとんど残されていない。
舒明帝に対する抵抗勢力の行動も全く記されていない。
不審だ。
山背大兄皇子側の勢力は舒明帝が在位していた13年の間
何も行動を起こさなかったことになっている。
ざっと年表形式に舒明紀の記述を書き出してみよう。
舒明元年正月 型通りに辞退した後に即位する。
四月 田部連を掖玖に遣わす。・・・意味不明
二年正月 妃、皇子・皇女の紹介
三月 高麗、百済から朝貢
八月 遣唐使覇権
高麗、百済の使いをもてなす。
九月 高麗、百済の使い帰国
田部連、掖玖から帰る
十月 岡本宮設営
是歳 三韓館修理
三年二月 掖玖人帰化
三月 百済皇子豊章入質
九月 有馬温泉行幸
十二月 有馬温泉よりもどる
四年八月 唐から高表仁来朝、対馬に留まる
十月 高表仁、難波津泊
五年正月 高表仁帰国
六年八月 篲星、南に見ゆ
七年三月 篲星、廻りて東に見ゆ
六月 百済朝貢
七月 百済の使者を饗応
是月 瑞蓮、剣池に生える。
八年正月 日食
三月 采女を姦した者を処罰
五月 霖雨、大水
六月 岡本宮火災、天皇田中宮に移る
七月 蘇我蝦夷、大派王の要請に従わず
是歳 大旱、天下飢之
九年二月 流星、有音似雷
三月 日食
是歳 蝦夷征伐
十年七月 大風、折木發屋
九月 霖雨
十月 有馬温泉行幸
是歳 百済、新羅、任那朝貢
十一年正月 有馬温泉からもどる。新嘗祭欠席
無雲而雷
大風雨
篲星
七月 大宮(百済川)、大寺(百済大寺)設営
九月 唐から学問僧恵隠来朝
十月 新羅客を饗応
十二月 伊予温湯宮に行幸
是月 百済川のほとりに九重の塔建設
十二年二月 星、月に入れり
四月 天皇、伊予より戻り厩坂宮へ
五月 恵隠僧、無量寿経を説く
十月 遣唐使帰国
是月 百済宮に移る
十三年十月 崩御
このように舒明帝は有馬温泉や伊予温泉に行幸した以外は
ほとんど何も事跡が記されていない。
書かれている内容も近畿天皇家で行われたことではなく、
おそらく他の王朝で残された記録の流用ではないだろうか。
百済、高句麗、新羅からの使いをもてなす記載などは
大宰府近辺での出来事で九州王朝の出来事だろう。
このように見てみると、舒明帝の十三年間の記載は
この期間を埋めるための埋めネタを用いているとしか思えない。
推古紀後継者争いの勢いから考えると、
舒明派と山背大江派に別れて
血で血を洗うような争いが行われている方が
まだ抵抗なく理解できるきがする。
皇極帝の時代になると堰を切ったように
皇位継承争いが再燃してくる。
舒明帝の時代の静けさには
強く不審を感じる。
舒明帝は推古帝からの遺言を聞くためだけに存在していたかのようだ。
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舒明王朝
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【舒明帝には妃が少ない!?】
8世紀の近畿天皇家にとって
舒明帝は実質的な皇祖に当たる天皇ではないだろうか。
その舒明帝の妃が日本書紀には3名、
皇子・皇女は合計5名記されているに過ぎない。
山背大兄皇子との争いに勝ち、
ようやく手に入れた天皇位なのだから、
多くの妃を選び皇子・皇女をたくさん産んで
皇位の継承をしやすくするのが普通だと思うのだが・・・。
【舒明帝の妃、皇子・皇女】
舒明紀に記されている妃は以下の通り。
皇后は宝皇女、所生は葛城皇子、間人皇女、大海皇子。
次が蘇我嶋大臣の女法提郎媛、所生は古人皇子のみ記されている。
もう一人は吉備国の蚊屋采女、所生は蚊屋皇子とある。
蚊屋采女以外は日本書紀の以降の展開に
欠くことのできない古代史上重要な人々である。
【他にもいた妃・子女】
舒明帝の妃も皇子・皇女もこれだけではないだろうと調べてみると、
敏達紀に豊御食炊屋姫尊(推古帝)の所生のひとり
田眼皇女が舒明帝に嫁いだと記されている。
舒明紀の記載以外にも妃が存在することがわかった。
敏達帝と推古帝の間に生まれた皇女を省略するとは
本来であれば許されないことではないだろう。
その他にも「帝王編年紀」には、
栗田臣鈴子の女香櫛娘(亦名を狭狭浪娘)との間に押坂錦間皇女、
蘇我蝦夷の女手杯娘との間に箭田皇女がいたと記されているという。
【宝皇女を皇后にするための苦肉の策】
宝皇女を皇后にしなければならなかった日本書紀の編纂者は
敏達帝の皇女である田眼皇女ではなく
宝皇女を皇后にする理由がつけにくかっただろう。
田眼皇女をさしおいて
再婚の宝皇女を皇后とすることはむずかしかった。
書き忘れたことにしようということになったのかもしれない。
後の学者の中には、
田眼皇女は早世したのだろう、と
日本書紀編纂者の意図通りになっている人もいるようだ。
その後2度も即位することになる宝皇女を皇后にするために
舒明紀には必要最小限の妃だけ記載したということだろう。
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皇極元年6月は小雨が降っただけで旱魃となった。
7月末に群臣たちは、
「祝部の指示に従って牛馬を殺して
いろいろな神社の神や水霊を祭ったが効果がなかった。」
と言ってきた。
蘇我大臣(蝦夷)は、
「寺寺で大乗経典をあげさせて雨乞いをしよう」
と指示し、多数の僧を集めて経を詠んだが、
小雨が降る程度だった。
8月1日に皇極帝は
南淵の河上
(岩波版注には高市郡明日香村坂田とあるが、
滋賀県息長川:現大野川の河上ではないか)
に跪いて拝み天に向かって祈ると
雷が鳴り大雨が降った。
雨は5日続き天下は潤された。
百姓たちは喜び皇極帝の至徳に感謝した。
諸処の神社や寺を拝むよりも
皇極帝の霊力の方が優っていることが証明された。
日本書紀は蘇我氏に対する皇極帝の優越性を表現している。
さらにその直後に、
皇極帝は百済大寺の造営を指示したことが記されている。
皇極帝が霊力だけもった単なるシャーマンではなく
仏教に対する信仰心も持っていることを記しフォローしている。
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日本書紀の目的の一つは、
持統帝の大津皇子殺害を正当化することにあったと考えている。
日本書紀編纂時点の近過去において、
有能で人望の高かった大津皇子に濡れ衣をかけて逮捕、処刑したことは
持統帝以降の直系相続を意図する天皇家にとっては
何としても汚点にはしたくなかっただろう。
持統帝をバックアップする藤原不比等は
有力後継候補の皇子が抹殺されたケースを
前例として日本書紀の中に挿入しようとしたのではないか。
その一つが古人大兄皇子。
古人大兄皇子は、
大海人皇子が大友皇子の近江王朝を転覆させた時と
同じような行動をとったことになっている。
つまり出家して吉野にこもるということは
クーデターの意図があると当時は連想されたのだろう。
もう一つは彦人大兄皇子。
推古帝は竹田皇子を即位させたがったはず。
竹田皇子が早世した状況は持統帝と草壁皇子の関係に似ている。
後継候補の彦人大兄皇子がいるにもかかわらず、
即位後厩戸皇子を摂政にしたことについて日本書紀は何も語っていない。
推古帝と竹田皇子
皇極帝と中大兄皇子
持統帝と草壁皇子
この三組の共通点は母の女帝が息子を溺愛していたことと、
三人の女帝が皆皇后出身でどうやら三人とも二番目の皇后であり、
一番目の皇后には有力な後継候補の皇子が存在しているということ。
推古帝の場合、
敏達帝の最初の皇后は広姫。彦人大兄皇子の母である。
皇極帝の場合は、
舒明帝の最初の皇后は法提郎媛(蘇我馬子の女)。古人大兄皇子の母。
そして持統帝は、
大海人皇子の第一夫人は大田皇女。大津皇子の母である。
(大田皇女は天武帝即位前に死亡しており皇后ではなかったが)
7世紀の皇后出身の女帝の共通点の中に彦人大兄皇子の秘密など、
舒明王朝の秘密が隠されているようだ。
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【日本書紀の基本的な立脚点】
日本書紀の基本的な立脚点は、
舒明帝に始まり持統帝までの近畿天皇家と
8世紀になって台頭した藤原家に都合が良いように記述されていること、
と考えて大きな間違いはないと思う。
【凶兆が多い舒明紀の記述】
しかし、何故か始祖である舒明帝の時代の記述は
どう解釈したらよいのかわからないものが多い。
推古紀が聖徳太子の事跡や仏教興隆など
華々しい実績を掲げているだけに落差が大きく感じられてしまう。
本来であれば、天智帝、天武帝の父親で
皇極帝(=斉明帝)の夫である舒明帝については、
多少の誇張をつけて華々しく描いてあっても良いのではないか。
ところが、
「彗星」(6年8月条、7年3月条、11年正月条)、
「日食」(8年正月条、9年3月条)、
「霖雨」(8年5月条、10年9月条)、
「岡本宮火災」(8年6月条)、
「大旱天下飢之」(8年是年条)、
「大星従東流西、便有音似雷」(9年2月条)、
「大風」(10年7月条、11年正月条)、
「無雲而雷」(11年正月条)、
「星入月」(12年2月条)
と凶兆と考えられるものが、
ここにあげただけでも14項目出てきている。
たとえ事実だとしてもここまで羅列することはないのではないか。
編纂者が何らかの意図をもって記述しているいる、
と考えるべきなのではないだろうか。
瑞兆としては7年7月是月条に
「瑞蓮生於剣池、一茎二花」があるが、
皇極3年6月条にも同様な記述があるので、
まぎれて舒明紀に記されたのではないか。
【舒明紀の不吉な記述の理由?】
舒明紀が新王朝らしい華々しさに欠けること、
舒明帝の統治が凶兆として描かれていることには
深い意味が隠されていると解釈できる。
舒明帝の皇后の宝皇女が再婚だったことと
何らかの関係があるのだろうか。
舒明帝には宝皇女以外に
「夫人蘇我嶋大臣の女法提郎媛」(古人大兄皇子の母)と
「吉備国の蚊屋采女」が日本書紀に記されている。
再婚の宝皇女が皇后となり、
舒明帝の崩御後に何故即位して皇極帝となることができたか、
を理解するにはまだまだ不明なことが多すぎるような気がする。
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