のんびりと古代史

自分なりに「削偽定実」を試みる。

舒明王朝

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押坂彦人皇子

【日本書紀は彦人大兄について多くを語らない】
舒明帝の父押坂彦人大兄皇子についての詳細はほとんど残されていない。
日本書紀によると敏達紀四年正月条に
敏達帝と息長真手王の女廣姫の第一皇子と記されている。
用明紀には押坂彦人大兄皇子が出てくる日本書紀で唯一の説話がある。
用明帝は臨終の床で、
「三宝に帰らむと思ふ。」
と仏教帰依を宣言する。
これに対して排仏派は反発する。
物部守屋大連を中心とする排仏行動の中で、
中臣勝海連は太子彦人皇子と竹田皇子の像を作り、
呪いをかけて殺そうとする。
呪いがうまくかからないことを知った中臣勝海連は
彦人皇子側に寝返る。
しかし勝海連は彦人皇子の宮から出てきたところを
物部側の迹見赤檮に暗殺されてしまう。
良くわからない話ではあるが、
彦人大兄皇子に関する貴重な記述であると言わざるを得ない。
 
【疑惑の中臣勝海連】
彦人大兄皇子は排仏派に呪いをかけられているので、
崇仏派ということになる。
排仏派の中臣勝海連は何故か彦人大兄皇子に帰服している。
排仏派は中臣勝海連を裏切り者として処分している。
藤原不比等が日本書紀編纂に関わっていたので、
ここでは精一杯中臣勝海連をかばっているものと思われる。
史実としては彦人大兄を殺害した張本人なのかもしれない。
寝返り方があまりにも不自然である。
 
【彦人大兄皇子の生存期間は?】
彦人大兄皇子はこの後系譜以外には登場しない。
息子の舒明帝が推古元年生まれと推定されており、
さらに舒明帝には弟の茅渟王(皇極帝、孝徳帝の父)がいることが
知られているため彦人大兄皇子は
推古朝になってもしばらくは生存していたものと考えられている。
となると崇峻帝が蘇我馬子側に暗殺された後、
聖徳太子と共に後継候補に挙がっていたことになる。
有力な後継候補が二人もいたにもかかわらず
推古帝が女帝として即位して37年間も在位したことは
不可解なことではないだろうか。
 
【二人の彦人大兄】
彦人大兄は日本書紀にはもう一人同じ名前が出てくる。
仲哀紀二年正月条に、
「叔父彦人大兄が女大中姫を娶りて妃としたまふ。
香坂皇子、忍熊皇子を生む。」
仲哀帝の叔父として出ている。
神功皇后の凱旋後の標的となった二人の皇子の
母方の祖父ということになる。
姓氏録山城皇別には「息長彦人大兄」と出ている。
二人とも息長氏系であるという共通点があるようだ。

推古朝の史実とは?

【古事記には推古朝の記事は四十七文字だけ】
古事記は推古帝まで記述されている。
記述と言ってもわずか四十七文字である。
「妹、豊御食炊屋比賣命、坐小治田宮、治天下参拾漆歳。
戊子年三月十五日癸五日崩。
御陵在大野岡上、後遷科長大陵也。」
推古帝は小治田宮で37年間天下を治められた。
628年3月15日に崩御された。
御陵は大野岡上に在ったが後に科長大陵に遷された。
と必要最小限の記述が残されただけで古事記は完了している。
 
【日本書紀の推古朝記事は盛りだくさん】
それに比べて日本書紀の推古紀は内容が豊富である。
何といっても即位の年に厩戸豊聡耳皇子(聖徳太子)を摂政として
すべての政治を任せたという記述がある。
このことには疑問点がある。
摂政は本来天皇になるべき人が幼かったり、
女性でだったりした時に、
実力のある人が天皇を助けて政治を行うことを言うはず。
摂政になるだけの実力を備えているならば、
何故用明帝の皇子で皇位継承権のあるある
厩戸豊聡耳皇子が即位しなかったのだろうか。
推古紀には摂政である厩戸豊聡耳皇子の事跡が多く紹介されている。
よく知られたところでは、
「冠位十二階」の実施と「十七条憲法」の制定がある。
後の天智朝で制定されたという「近江令」や
持統朝の「飛鳥浄御原令」については
具体的な条文が何も残されていないのに、
「十七条憲法」は全文が完璧に日本書紀に記されている。
十七条憲法の直後には「改朝礼」が出されて
宮門を出入りする時の作法が定められている。
厩戸豊聡耳皇子は仏教の普及に力を入れたらしく、
仏教経典の講義を行ったことが記されている。
その他にも寺の建立、仏舎利・仏像のことなど仏教関連の記述が多い。
外交でもこの時代まで任那問題が継続していたようだ。
任那奪還のために軍隊を派遣して新羅攻撃を行っている。
日本書紀に書かれていることが事実だと
推古帝時代には盛りだくさんの出来事が起こっていたことになる。
 
【日本書紀推古朝記事は他王朝からの借用と創作か】
古事記には厩戸豊聡耳皇子のことは
用明記に皇子誕生記事の中に触れられているに過ぎない。
古代史上のスーパースターについて
古事記が一切の事跡を不記載にしていることは
不思議としか言いようがない。
不記載の理由は、
①厩戸豊聡耳皇子に関する史料が
 古事記編纂者の手元にはなかった。
②古事記編纂者には厩戸豊聡耳皇子のことに
 触れることができない理由があった。
③厩戸豊聡耳皇子の事跡のほとんどは
 他の王朝からの借用か
 日本書紀編纂者の創作によるものだった。
の3通りくらいが考えられるところだろう。
①はたとえ資料がなかったとしても
これほどのことであれば伝承で残っていて
古事記の問わず語りに組み込むことは可能だっただろう。
②については、厩戸豊聡耳皇子の事跡は
近畿天皇家にとって誇りに感じることはあっても
隠すようなことはではなく、
古事記編纂者の判断でカットするようなことはありえない。
となると消去法的に③しかなく、
仏教普及・寺院建立や新羅出兵などは
中国・朝鮮と関係の深い筑紫王朝の出来事を借用した可能性が高い。
また十七条憲法や冠位十二階は、
大宝律令を実施しやすくするために
創作したものではないかとの疑いを持っている。
推古帝が臨終の床で二人の皇子に残した遺言についても
日本書紀編纂者の創作の可能性が極めて強いと考えている。
日本書紀は矛盾する記述が多くみられる。
その矛盾の中に日本書紀が隠そうとした史実を
垣間見ることができる。
日本書紀の編纂者の中に歴史家としての良心をもつ人がいて、
後世のために真実を解くヒントを隠していてくれたのかもしれない。
 
史実は矛盾の中に隠されている。
 
舒明紀九年に以下のようなことが記されている。
蘇我蝦夷の朝廷の方針に叛く行為が目に余るようになったので、
上毛野形名を将軍として討伐しようとしたが
返り討ちにあってしまう。
逃げ帰ってきた形名の妻はふがいない夫を嘆き自ら刀をとって蜂起し、
蝦夷を攻撃し滅ぼしてしまう。
(蝦夷は女性に滅ぼされるような存在だったと侮蔑的に描こうとしたのか。)
皇極紀元年は蝦夷攻撃事件の5年後になるが、
「蘇我臣蝦夷を以て大臣とすること、故の如し。」
との記述がある。
 
舒明九年に滅ぼされたはずの蘇我蝦夷が、
皇極元年に大臣として再任されている。
 
皇極紀には中大兄皇子、中臣鎌足が
横暴な振る舞いの蘇我氏を滅ぼした
「乙巳の変」が描かれている。
後から構想された「乙巳の変」の方が採用となり構成が途中で変更されて、
皇極紀に蘇我蝦夷が大臣のままいる必要が生じたにもかかわらず、
舒明紀の蘇我蝦夷滅亡記事が
消されずに残されたままになってしまったのだろう。
 
日本書紀の編纂者は蘇我氏滅亡のストーリーを途中で変更した。
舒明紀の勇猛な上毛野夫人の蘇我蝦夷攻撃も、
有名な「乙巳の変」も、
蘇我氏滅亡を勧善懲悪譚にするための作り話だった可能性が
極めて濃厚であるということになる。
推古帝崩御後に行われた、
蘇我氏から息長氏への武力による権力移行を正当化するための
日本書紀の記述にほころびが見られたということだろう。

息長氏の台頭

【蘇我氏から息長氏へ】
舒明帝の即位は、
息長氏が蘇我氏から権力を奪い取ったことを意味しないだろうか。
 
【舒明帝即位】
推古帝は欽明帝の次女で
欽明帝の三人の皇子たち(敏達帝、用明帝、崇峻帝)の後に即位し、
36年間在位した。
推古帝崩御後に即位したのが舒明帝だった。
日本書紀では、蘇我稲目の孫に当たる推古帝が難解な遺言を残して、
皇位を息長氏系の田村皇子に引き継いだことになっている。
 
【敏達帝最初の皇后廣姫と彦人大兄皇子】
敏達帝の最初の皇后は息長真手王の娘廣姫である。
廣姫は一男、二女を産んだ後、立太后された敏達四年に逝去している。
廣姫が産んだ男児が押坂彦人大兄皇子である。
彦人大兄皇子は用明二年条で
崇仏、排仏の争いに巻き込まれたことが記されているが、
はっきりした没年や死因は未詳。
廣姫自身も早逝してしまったが、
所生唯一の皇子である彦人大兄皇子も即位することはできなかった。
蘇我氏の包囲網が出来上がっていたのかもしれない。
 
【推古帝は廣姫の後の皇后だった】
推古帝は庶兄敏達帝の2番目の皇后だった。
敏達帝の後を継いだ用明帝、崇峻帝は短期に終わったため、
敏達帝の皇后だった推古帝が即位する。
推古帝には敏達帝との間に二人の皇子がいたようだ。
その一人の竹田皇子は彦人大兄皇子と同様に
仏教を受容するかどうかの争いに巻き込まれていることが
用明紀に出てくる。
推古帝は崩御後竹田皇子の墓に葬られることを自ら望んだと記されている。
竹田皇子が即位することを望んでいたのだろう。
もう一人の尾張皇子も即位するには及ばなかったようだ。
 
【息長氏の台頭】
推古帝崩御後に実権をもつ蘇我氏がみすみす皇位を
息長氏系の田村皇子に渡すとも考えられないので、
おそらく山背大兄皇子が即位したのではないだろうか。
皇極紀二年条に蘇我入鹿が山背大兄皇子を滅ぼした状況が記されている。
蘇我系の古人大兄皇子を即位させるためという理由になっている。
少々無理筋ではないだろうか。
古人大兄皇子即位のためには、
山背大兄皇子よりもむしろ中大兄皇子の抹殺を考えるのが先だろう。
実際には、山背大兄皇子を攻め滅ぼしたのは田村皇子ではないだろうか。
日本書紀編纂時点の近畿天皇家にとって
自分たちの祖先である田村皇子が
聖徳太子の息子(山背大兄皇子)を
死に追いやったことにはしたくなかっただろう。
推古帝崩御後に田村皇子が即位したことにより、
息長氏は氏族直系の天皇を実現することができた。
敏達皇后の廣姫に託した息長氏の執念が40年後に実現したことになる。
その後の近畿天皇家には脈々と舒明帝からの血が流れ続けることになる。
推古帝は臨終の前に皇位継承候補の田村皇子と山背大兄皇子を
相次いで呼んで遺志を伝えた。
日本書紀を読むと、田村皇子には、
「天位に昇りて鴻基を経め綸へ、万機を馭して黎元を亭育ふことは、
本より輙く言ふものに非ず。恒に重みする所なり。
故、汝慎みて察にせよ。軽しく言ふべからず。」
と言っている。
天皇になって人々のために事を為す人はいつも重いことなの、
で軽々しく口外してはならない、
と伝えたようだ。
山背大兄皇子に対しては、
「汝は肝稚し。若し心に望むと雖も、諠き言ふこと勿。
必ず群の言を待ちて従ふべし」
と言ったという。
お前はまだ若い、もし帝位を望んでいてもうるさく言うのではなく、
周囲の意見をよく聞きなさい、
という意味に読み取れる。
この後日本書紀では推古帝の遺言をめぐって、
田村皇子側と山背大兄皇子側に分かれて争うことになる。
しかし私の読解力が不足しているとはいえ、
推古帝は明らかに田村皇子に、
天皇になったら気を引き締めてしっかりやりなさいと託しており、
山背大兄皇子には、
あなたはまだ若いから周囲のの意見に従って今回は自重しなさい、
と言ったと解釈できるだろう。
これは日本書紀の記述である。
実際には推古帝が本当に田村皇子の即位を望んでいたとはとても思えない。
溯って系譜から人間関係を見ると、素直に納得することはできない。
推古帝は三代前の敏達帝の皇后だった。
敏達帝崩御後、用明帝病死、崇峻帝殺害と相次いで天皇がなくなったため、
急きょ欽明帝次女の推古帝が即位することになった。
実は推古帝は敏達帝の最初の皇后ではなかった。
敏達帝ははじめ息長真手王の娘廣姫を皇后とした。
廣姫所生の嫡男が彦人大兄皇子だった。
そして田村皇子は彦人大兄皇子の息子である。
推古帝にとっては田村皇子は前妻の孫だった。
推古帝自身は欽明帝と蘇我稲目の娘堅塩媛の間に生まれている。
生粋の蘇我系の天皇である。
田村皇子が即位するということは、
外戚としての実権が蘇我氏から息長氏に移ることを意味している。
そのような判断を蘇我系の推古帝がしたとはとても思えない。
同じく蘇我系聖徳太子の子息山背大兄皇子の即位を望んでいた、
と考えるのが筋ではなかろうか。
舒明帝即位は実は息長系による帝位略奪だったのではないか。
日本書紀はこのクーデターを隠しているのではないだろうか。
舒明帝が皇后とした皇極帝には高向王との婚歴があり、
前夫との間に漢皇子という息子がいる。
そのことも無関係ではないだろう。

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