のんびりと古代史

自分なりに「削偽定実」を試みる。

舒明王朝

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日本書紀編纂段階で、
意図的な「削議定実」が行われていたことは間違いないだろう。
日本書紀は養老4年(720年)、元正帝(女帝)の時代に成立している。
元正帝は先帝元明帝の皇女(父は草壁皇子)で文武帝の同母姉になる。
天武帝の崩御後即位した持統帝が、
自分の血筋以外に帝位を渡さないと直系相続を決意したものの、
息子の草壁皇子は早世し、
草壁皇子の子の文武帝も即位後約10年で25歳の若さで崩御。
文武帝の息子の聖武帝が成人するまでの間を、
元明帝→元正帝の女帝でセットアップしている時期に
日本書紀は「日本紀」として成立した。
持統帝の遺志を元明帝、元正帝は引き継いでいたと言えるだろう。
日本書紀に書かれている歴代天皇の系譜を見ると、
8世紀初頭の天皇家は、
629年に即位した舒明帝に起源していると言えるのかもしれない。
舒明帝以前と以降では帝位の継承の仕方がすっかり変わっている。
系譜が断絶後即位した継体帝の後、
安閑帝→宣化帝→欽明帝と三代継体帝の皇子達が兄弟で皇位を継承している。
欽明帝の後は、
敏達帝→用明帝→崇峻帝→推古帝と四代つづいて
欽明帝の皇子・皇女に継承されている。
兄弟間の継承が基本で一巡した後、
次の世代に引き継がれるという考え方だったと思われる。
日本書紀は推古帝が臨終前に
田村皇子(後の舒明帝)と山背大兄皇子に対して、
帝位を引き継ぎについてどちらとも取れるような
不可解な遺言を残したとしている。
結果的に田村皇子が即位して舒明帝となる。
舒明帝の後の皇位継承はこれまでとは全く様相が異なっている。
舒明帝の後を皇后が引き継いで皇極帝となっている。
その後皇位継承権の有無はよくかわからないが、
乙巳の変の後、皇極帝は弟の孝徳帝に譲位している。
孝徳帝が中大兄皇子に見捨てられて失意のうちに崩御した後、
姉が重祚して斉明帝になる。
舒明帝、皇極帝(=斉明帝)、孝徳帝の三名の共通点は、
敏達帝の太子だった押坂彦人大兄皇子の直系であるということだ。
大化二年三月条で中大兄皇子は彦人大兄皇子を指して、
「皇祖大兄」と呼んでいる。
敏達帝と皇后廣姫(息長真手王の娘)の皇子で
舒明帝の父である彦人大兄皇子を皇祖とし、
舒明帝を直系の初代天皇と考えている。
舒明帝即位以後、
その血脈の中で皇位が死守され、
持統帝の強い意志によって直系相続が始まったということだろう。
 
したがって、記紀が神武帝から開化帝までの九代の系譜を
直系で引き継がれたことにしているのは
極めて意図的で史実とは考えにくい。
八世紀の近畿天皇家の直系相続の理念を
初代からの伝統として表現したものではないだろうか。

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