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神野志隆光氏は、
「記紀は神器の起源を語ることはない」
と言っている。
古事記では鏡・剣・玉が降臨するニニギに与えられたが、
それを天皇に伝えてきたとは書かれていない。
神武帝即位に際しても三種の神器についてなにもふれていない。
「最初の天皇の即位に役割をもたないものが『神器』でありえるでしょうか。」
と述べている。
日本書紀も、
「神武帝即位にあたって、鏡等になにもふれないことは、
『古事記』とおなじです。」
神野志氏は後に忌部氏が著した「古語拾遺」において、
践祚において鏡剣をたてまつる役を負って、
忌部氏が自らの立場を根拠づけるために
神器神話を作り上げたものが定着した、と論を展開する。
古田武彦氏は、
「魏志倭人伝」で魏王から卑弥呼へ当てられたものの中に、
剣・鏡・玉の三種の神器が深まれていることに注目している。
それ以来、三種の神器は倭国王・日本国王のレガリアとして機能していた、
と考えているようだ。
邪馬台国の場所の比定においても氏は、
三種の神器と絹が出土することを条件として挙げており、
それに適応している場所は博多湾岸以外にないと主張している。
天日槍が持ち込んできた神宝は、
古事記と日本書紀では微妙に異なっている。
古事記では、
玉がふたつ、
領布が四枚、
鏡がふたつ、
合計で八種の神宝となっている。
日本書紀(本文)では、
玉みっつ、
剣(小刀1、桙1)二本、
鏡ひとつ、
熊神籬ひとつ、
合計七種。
日本書紀(「一に云はく」では、
玉がみっつ、
剣(刀子1、槍1、太刀1)三本、
鏡ひとつ、
熊神籬ひとつ、
合計で八種である。
古事記には剣が書かれていないが天日槍の名前が「槍」なので、
持ち込んできたことは間違いないだろう。
日本書紀は本文も「一に云はく」も領布にふれていない。
そのかわりに熊神籬がでてきている。
熊神籬は難解だといわれている。
「神籬(ヒモロキ)」とは台の上に榊と幣を立てたものらしいが、
天日槍が実用性のないものを運び込むことはないので、
日本書紀の創作の可能性が濃厚である。
領布を出したくなかったのかもしれない。
(絹の普及において九州が先進地域だったため、
天日槍の持ち込んだ神宝に絹を入れると、
天日槍が九州に上陸した史実につながることを恐れたのかもしれない。)
いずれにしても、新羅王子が持ち込んできたものが
アイテムとして「三種の神器」に共通していることは意味のあることだろう。
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三種の神器
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魏志倭人伝には景初二年六月に、
倭女王卑弥呼の使者が朝貢してきたことに対する返礼として、
同年十二月に卑弥呼に対して報じられた詔書が記載されている。
それによると、
倭国は魏に対して、
男生口四人・女生口六人・班布二匹二丈
を奉ったという。
それに対して魏王(明帝)は卑弥呼を親魏倭王に任じて金印紫綬を授け、
使者難升米と都市牛利には銀印青綬を授けた。それ以外にも、
「絳地交竜錦五匹、
絳地縐粟罽十張、
蒨絳五十匹、
紺青五十匹、
を倭国に、
その他に卑弥呼個人に対して、
絳地句文錦三匹、
細班華罽五張、
白絹五十匹、
金八両、
五尺刀二口、
銅鏡百枚、
真珠・鉛丹各々五十斤を賜う」
とある。
魏王が与えるこれらの品々を国中の人に示して、
国家(魏)が卑弥呼を哀れむ(支持している)ことを知らしめるようにと
わざわざ賜物の目的を記している。
狗奴国との戦争に困惑して
魏に助けを求めた卑弥呼にとっては
何よりのプレゼントだっただろう。
魏王からの贈り物を卑弥呼が
「三種の神器」として権力の象徴にしたことは想像に難くない。
それがそのまま大和朝廷まで伝わったということは断言できることではないが、
受け取ったものの中に、
「剣」、「鏡」、「玉(真珠)」が含まれていることは
注目すべきことではなかろうか。
魏志倭人伝には、
三種の神器より前に絹製品が筆頭にあげられている。
中国にとっては三種の神器よりも
絹製品の方が価値があるものであったのだろう。
絹製品・毛織物・薄絹の順序で書かれているが、
これらが一体どんなものであったかが、
布目順郎氏の名著「倭人の絹」の中の
『倭王と魏帝が取り交わした織物類』に記されている。
絳地交竜錦:「絳」は日の出のような濃赤色、
「交竜」は陰陽和合。
日の出のような濃赤色の地に二匹の竜が描かれている錦。
絳地縐粟罽:「縐粟」は細かい縮み織のこと、
「罽」は動物の毛を織って作ったカーペットのような毛織物。
蒨絳(せんこう):「蒨」は茜草のこと、
蒨絳は茜染めの布か帛布(はくふ、うすぎぬ)。
紺青(こんじょう):濃い群青色の帛布。
次に卑弥呼個人に与えられた品々を見てみよう。
絳地句文錦:「句文」は勾連雷文(こうれんらいもん)と呼ばれるジグザグの文様。
日の出のような濃赤色の地に勾連雷文が描かれている。
細班華罽:細かい花模様を班に出した毛織物。
白絹:白い帛布。
中国では、
「衣服の文様はその文様の持つ霊力が
その衣服をまとう人物に作用するものと考えられていた」(「倭人の絹」)ので、
竜の文様の錦を卑弥呼に与えて霊力を与えたのだろう。
同著には、
「中国周辺国の王で竜文のある衣服を身に着けた者に西夏王の例がある」
とも書かれている。
日本の遺跡から出土した絹を調べた布目順郎氏は、
絹が出土する弥生時代の遺跡が
北部九州の福岡県、佐賀県、長崎県に限られていることから、
「倭人伝で倭といっているのは
北部九州を中心とする地域を指しているのではないか」(「倭人の絹」)と述べ、
さらに、
「弥生時代後期の絹製品を出した遺跡もしくは古墳は、すべて北九州にある。
したがって、弥生時代に比定される邪馬台国の所在地としては、
絹を出した遺跡の現時点での分布からみるかぎり、
北九州にあった公算が大きいと言えるだろう。」(布目順郎著「絹の東伝」)
と論じている。
このように三種の神器+絹製品は邪馬台(壹)国北九州説の
強力な証拠となっていると言えるだろう。
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時代が下ってからは、明治31年に国学者栗田寛が著した
「神器考証」の中の『神剣現状』に神剣について記されている。
これは「玉籤集」という吉田家に伝わる本からの引用という体裁をとっている。
「玉籤集と云う書の裏書に、(この裏書をかける年月詳らかならず、)
八十年許前、熱田大宮司社家四五人と志を合せ、
密々に御神體を窺奉る、土用殿に御剣御鎮座、
渡殿は剣宮にも同様なる御璽の箱在す也、
御璽の箱、御戸口の方に副て、在坐けると也、
扨(さて)内陣に入るに、雲霧立塞がりて、物の文も不見、
故各扇にて雲霧を払い出し、隠し火にて窺奉るに、
御璽は長五尺許の木の御箱也、其内に石の御箱あり、
箱と箱の間を、赤土にて能つめたり、
石の御箱の内に、樟木の丸木を、箱の如く、内をくりて、内に黄金を延敷、
其上に御神體御鎮座也、
石のお箱と樟木の箱との間も、赤土にてつめたり、
御箱毎に錠あり、皆一鎰にて開、開様は大宮司の秘伝と云う、
御神體は長さ二尺七八寸許り、
刃先は菖蒲の葉なりにして、
中程はムクリと厚みあり、
本の方六寸許りは、節立て魚等の背骨の如し、
色は全體白しと云ふ、
大宮司窺奉る事、神慮に不叶にや、不慮のことにて、流罪せらる、
其余も重病にて亡び、其内一人幸に免れて此の事を相伝せり、云々、・・・」
この玉籤集の裏書が書かれた年がわからないので、
ここに書かれている事件がいつだったのかわからない仕組みになっている。
熱田神宮の宮司たちが
土用殿にあった御神體(御剣)の箱を開けてみたという話。
箱は五尺くらいの長さの木の箱、
その中に石の箱があり、
木の箱と石の箱の間は赤土で詰められている。
石の箱の中には樟の丸木をくりぬいたところに黄金を延敷いて
その上に御剣は置かれていたという。
石の箱と丸木の間にも赤土が詰められていたようだ。
箱にはすべて錠がかけられていたが、
大宮司に伝わる鍵ですべて開いたらしい。
御剣は長さ二尺七八寸、刃は菖蒲の葉のような形をしており、
真ん中あたりは厚みがある。
本の法の六寸ほどは節立て魚の背骨(どんな形か?)で
全体に白っぽかったらしい。
大宮司はこの剣で罪に問われて流罪になり
すぐに病となって亡くなったが、
罪を免れた人が一人いてこのように伝わったということである。
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三種の神器の内、瓊(玉)だけは失われることもなく
神代から現在に続いていると言われている。
その玉が実際にどのような形をしてどのくらいの大きさのものなのかは
知る由もないが、
14世紀に花園天皇が記した日記「花園天皇宸記」に
玉が収納されている箱(璽筥)についての記述が残されている。
応長2年(1312年)2月18日(甲申)。
天皇の自筆の漢文で記されているので解釈不能なところもあるが、
玉が入った箱はおおよそ次のようなものらしい。
日記には天皇自筆の絵が描かれているので
文章よりも絵の方がわかりやすい。
興味のある方は図書館などでご覧下さい。)
天皇のところに関白が参内しその箱を持ってきた。
ひもがついた絹の袋にに入っているが
その袋はぼろぼろになっていたので袋を取り換えることにした。
中納言の女官が新しい袋を持参してきた。
古い袋を取り去ると箱の形が見えた。
その箱は蓋がついていた。
前後はわからないが、
一応その箱の後ろには蓋に鍵が二つ付いていた。
箱には辛櫃のような壺が入っていた。
壺は三個あり紫色のひもで固く結ばれていた。
この箱は四方の角が丸くなっていた。
埃が重なるようになっていたが掃わないでそのまま袋に入れた。
絹の袋には青い綾模様があり、小さな葵の文がついていた。
袋を折りたたんで箱を包み込み二重にひもを掛けた。
二重に掛けられたひもが5か所あったので今回も同様にした。
結び終わった後その上に古いひもを(捨てずに)結んでおいた。
以上が花園天皇が記した内容である。
どうやら三種の神器の一つである「瓊」は
辛櫃のような壺の中にあり、
その壺は鍵のかかった箱に入っており、
箱は絹の袋に包まれてまわりをひもで二重掛けして、
五か所で結ばれている。
そんな形で保管されているという。
やはり天皇でも中に入っている「瓊」は実見できないようだ。
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「禁秘抄」は鎌倉時代承久3年(1221年)に成立した、第84代順徳帝による有識故実の解説書である。
ここにも三種の神器についての記述がある。
剣については以下のように記されている。
今宮中にある「御剣」は神代に三本あった剣の一つである。
子細についてははっきりしないことが多いが、三本とも実物が伝わってきている。
寿永年間に海に沈んで紛失した後は、後鳥羽院の時以降24年にわたって、清涼殿の御剣が三種の神器として用いられている。
神代に三本あった剣とは、一剣は天叢雲剣、後に草薙剣と呼ばれているもので、
これは大蛇の尾から出たもので、今は日本紀によると熱田にあるという。
この剣は崇神天皇6年に護身用の御剣として(レプリカを)新造したものがあり、それは(壇ノ浦の戦いで)海に沈んで紛失した。
一剣は「羽斬剣」で元々は十握剣という名で呼ばれて、素戔嗚尊が所持していたもの。
これは石上神宮にある。
一剣は「高庫剣」、一名「太刀苅」またの名は「神戸剣」とも呼ばれ、味耟高彦根神が所持していたもの。
現在は熊野神社にあるという。
神代にあった三剣は今も伝来しており、壇ノ浦で海中に沈んだのは崇神天皇が護身用に作ったレプリカだった、と記されている。
天皇家では代々そう伝えられてきたのだろう。
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