のんびりと古代史

自分なりに「削偽定実」を試みる。

天日槍・天之日矛

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天日槍の子孫考

古事記と日本書紀にどちらも天日槍の子孫についての記述がある。古事記に書かれた系譜については昨日書いたが再掲出する。
天日槍は多遅摩俣尾の女前津見を娶って多遅摩母呂須玖を生む。
多遅摩母呂須玖以降の系譜は、
多遅摩母呂須玖→多遅摩斐泥→多遅摩比那良岐→多遅摩毛理。
古事記の系譜ではこの多遅摩毛理の弟に多遅摩比多訶と清日子がいる。
多遅摩比多訶が清日子の娘菅竈由良度美を娶って生んだのが息長帯比賣の母とされる葛城高額比賣である。
日本書紀では、天日槍は但馬国出嶋の人太耳の女麻多鳥(またを)を娶り但馬諸助を生む。
但馬諸助以降の系譜は、
但馬諸助→但馬日楢杵→清彦→田道間守
記紀の相違点は、
●古事記系譜の多遅摩斐泥が省略されていること。
●古事記では多遅摩毛理の弟となっている清彦が日本書紀では田道間守の父親となっていること。
●日本書紀の系譜は田道間守で終わっており、息長帯比賣(神功皇后)までの系譜 については触れていないこと。
日本書紀は何らかの理由で天皇家の伝説的ヒロインである息長帯比賣が新羅王子天日槍の子孫であることを隠したのだろう。
8世紀初頭の新羅との冷えた関係が影響しているのかもしれない。
記紀の系譜の中で清日子(清彦)だけ多遅摩(但馬、田道間)がつかない。
清彦は但馬から出て、他の場所で暮らしたのではないだろうか。
天日槍は出石に落ち着く前に近江国に滞在したことがあり、近江国鏡村に天日槍の従者が陶器作りを生業にして暮らしているという。
清彦は祖先の知り合いを頼って近江にわたり住んだのではないだろうか。
娘菅竈由良度美と孫の葛城高額比賣も同行しており、葛城高額比賣は近江の豪族となっている息長宿禰王に嫁いで、息長帯比賣(神功皇后)を生むことになる。
 
天日槍から息長氏へのつながりがうまくいかなくて、
昨日も途中まで書いたブログを中止した。
 
仲哀帝の第二夫人となった息長帯比賣は
第一夫人(大江王の女大中津比賣)の皇子達を攻撃し、
息子の応神帝を即位させて、
近畿天皇家にとって伝説的な皇后となる。
 
天日槍から息長帯比賣への系図が古事記に書かれている。
天日槍が多遅摩の俣尾の女前津見を娶って多遅摩母呂須玖を生む。
その後、
多遅摩斐泥→多遅摩比那良岐→多遅摩毛理。
多遅摩毛理は日本書紀には垂仁紀に、
田道間守として垂仁紀末期に垂仁帝の忠臣として登場している。
田道間守を祭神とする神社は兵庫県豊岡市にある中嶋神社、
お菓子の神様として名高い。
田道間守は但馬の国守という意味だろうと
日本書紀岩波版は注に書いている。
古事記の系譜ではこの多遅摩毛理の弟に
多遅摩比多訶と清彦がいる。
この多遅摩比多訶が清彦の娘菅竈由良度美を娶って生んだのが
息長帯比賣の母とされる葛城高額比賣である。
多遅摩毛理=田道間守は天日槍の嫡系なので
但馬に残ったものと考えられる。
多遅摩毛理の弟の多遅摩比多訶は姪を娶って近江の息長村へ行き、
そこで生活を始めたと考えられなくもない。
景行帝の末期から宮は近江に移っており、
成務帝、仲哀帝は近江で即位した可能性が高い。
仲哀帝は近江の息長村から第二夫人として息長帯比賣を迎えた、
ということを仮説として残しておこうと思う。
息長氏はこの頃から勢力を伸ばしはじめていたのだろう。

田道間守

天日槍の説話は田道間守説話につながっている。
田道間守は垂仁帝の命令で常世国に、
「非時の香菓(ときじくのかくのみ)」を取りに行く。
しかし持ち帰る前に垂仁帝は崩御してしまう。
垂仁帝の病をいやす目的を果たすことができなかったことを苦にして、
垂仁帝の陵の前で田道間守は自害して果てる。
子孫である田道間守が天皇家の忠実な家臣となったことで
天日槍の物語は結ばれている。
大軍を率いて渡来し、文明と争乱をもたらし、
最終的には天皇家の家臣としてのポジションを得たことになる。
古事記の系譜によると田道間守は
息長帯比売命(神功皇后)の母親葛城之高額比売命の伯父に当たっている。
また田道間守は三宅氏、糸井氏の始祖と言われている。
天日槍は円山川の河口を切り開いて灌漑をおこない
耕作地を広げた功績が語られている。
その子孫に三宅氏がいる。
三宅氏の「三宅」は「屯倉」で天皇直轄の耕作地につながっている。
天日槍は国土開発に貢献し、天皇家の忠実な家臣となり、
外戚ともなったということで、
後の蘇我氏や藤原氏の立場を連想させられると言えないこともない。
どの程度史実を反映しているのかはっきりしたことはわからないが、
正史に記録されている渡来人で子孫の系譜が残されている
最古の人が天日槍だろう。
播磨風土記によると、
揖保川流域で葦原志挙乎命や伊和大神と領土争いの抗争を展開した後、
出石に定住し太耳の娘麻多鳥(またを)を娶り、
但馬諸助を生み、諸助以下の系譜が紹介されている。
谷川健一氏は朝鮮半島から来た天日槍が、
「ミミ」がつく太耳の娘と結ばれていることに注目している。
「ミミ」の名を有しているのは、
耳に大きな飾りをつけて耳たぶを大きく見せることを
権力の象徴にしていた人々、
彼らは「揚子江沿岸から海南島にいたる中国南部に住む海人族であり、
彼らは常時大きな耳輪を下げる風習をもっていた。」(「青銅の神の足跡」)
東シナ海を渡って渡来してきた人「ミミ」と
対馬海峡を渡って渡来してきた人が
日本列島で結びついて子孫を残したということになる。
谷川氏によると同様な例として、
素戔嗚尊が婚姻した出雲の須佐之八耳の娘の例を挙げている。
神武帝も三嶋溝橛耳の孫娘を正妃に迎えて、
神八井耳命と神渟名川耳命を生んでいる。
対馬海峡を渡ってきた人々と
東シナ海を渡ってきた人々が交わりあって
日本の歴史を作り始めたということは間違いないことだろう。
天日槍説話はその象徴でもあると思われる。
谷川健一氏は「青銅の神の足跡」の中で天日槍のことを、
「彼こそは古代の日本に最初の緊張をもたらした異国人である。」
と言っている。
垂仁紀三年春三月条の「一に云はく」の記事と
播磨国風土記に何度も出てくる領土争いの記述から類推していくと、
天日槍は播磨国の宍粟郡の揖保川流域の地に魅力を感じていたと思われる。
谷川健一氏は、その辺りで採取できる砂鉄や鉄鉱石の資源が目当てだった、
と述べている。
揖保川河口に停泊した天日槍の船団は、
先住していた葦原志挙乎命に定住地を与えてくれるように求めている。
実際には領土の割譲を要求したのだろう。
弥生時代以来、東シナ海や日本海を渡って
中国や朝鮮から人々が日本列島にたどり着き、
縄文時代からの先住者を追い払ったり、
共存したりしたことは何度もあっただろう。
秦の時代には徐福が数千人を引き連れて海を渡って帰ってこなかった、
という言い伝えが残されている。
日本側にも各地に徐福伝説があり、
出発地と到着地の言い伝えが合致している。
徐福に代表される弥生時代中期頃の渡来者が
どういうやり方で日本列島に上陸を果たしたかは知る由もない。
「天日槍」は記紀にも風土記にも記録が残された大移民団の渡来説話である。
初期の弥生人の渡来は石器くらいしか武器を持たない縄文人が相手なので、
比較的穏やかな上陸が実現したのかもしれない。
しかし弥生時代後期になると
日本列島の中にもすでに金属文明などが浸透しているので
新たな渡来者との間には激しい争いが生じたことだろう。
播磨国風土記に揖保郡条に、
上陸を求める天日槍に対して葦原志挙乎命は
「海中を許したまふ」とある。
海岸に停泊することを許された天日槍は
「剣を以て海水を撹きて宿りたまふ」。
具体的には何をどうしたのかはっきりしないが、
葦原志挙乎命はその行いを見て「畏みた」=恐れおののいたらしい。
天日槍は先住者より進んだ技術をもってきていた。
剣で海水を撹いた行為は
江戸時代末期にやってきた黒船が
大砲などで行った威嚇行為と同じような意味を持っていたようだ。
葦原志挙乎命の緊張感は一気に高まったことだろう。

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