のんびりと古代史

自分なりに「削偽定実」を試みる。

天日槍・天之日矛

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垂仁紀では天日槍が先ず播磨国宍粟邑に到着したことになっている。
朝鮮半島の東岸を出発した船団が日本列島に来る時に、
最初に瀬戸内海の奥まったところにある播磨国までくるだろうか。
余程海路にくわしくないとそうはならないだろう。
普通に考えれば古代において朝鮮半島を出た船が
最初に日本列島に到着するのは日本海沿岸のどこかだろう。
仲哀紀八年正月条で、
穴門で天皇を出迎える筑紫伊都県主の祖五十迹手は
筑前風土記逸文によると
天日槍の苗裔と書かれている人物である。
谷川健一氏は「青銅の神の足跡」で
ツヌガアラシトと天日槍は同一人物、
天日槍とその妻(あかる姫)も同一人物、
この三者にまつわる話は金属精錬の技術者が日本に渡来したという事実を
説話風に物語っているに過ぎない、と割り切ったうえで、
天日槍の上陸地は糸島半島だったと断定している。
垂仁紀ではツヌガアラシトが先ず穴門に到着し
伊都都比古という名の王と会っている。
その人となりを見るととても王には見えなかったという。
日本書紀が他の王朝の王を悪く言うのは常套手段なので
文章通り受け取ることができないのは言うまでもない。
伊都都比古は五十迹手(いとて)につながり、
五十迹手は正倉院文書の大宝二年筑前国嶋郡川邊里の戸籍断簡の
嶋郡大領の肥君猪手の「猪手」まで
名前がつながってきている可能性がある。
糸島半島に上陸して、日本海沿岸を北上し、
但馬の豊岡から円山川をさかのぼり
出石へ行った一群もあっただろう。
若狭湾や敦賀湾から琵琶湖周辺を根拠地にした人々もあっただろう。
出雲国風土記大原郡阿用条の、
「目一つの鬼来りて、佃る人の男を食らいき。」
の『目一つの鬼』は鍛工者であるとしているので、
渡来してきた金属精錬の技術者=天日槍の一群のことを
言っているのかもしれない。
 
天日槍たちは糸島半島に上陸した後、
金属資源を求めて全国へ移動していったと考えられる。
 
 
【鉱山師に多い足の疾患】
谷川健一氏は「青銅の神の足跡」で、
古代の鉱山師には足の疾患を持った人が多かったと述べている。
原因としては鉱毒とたたらを踏むことによよる影響を挙げている。
それだけではなく坑道に入って屈んで鉱石を掘り出す作業も
原因の一つかもしれない。
 
【足痛→葦田神社】
兵庫県豊岡市中之郷に葦田神社が鎮座している。
祭神は天麻比止都祢命(天目一箇神)。
社伝では祭神は天日槍の随神であるという。
天日槍が当地を切り開いた時に、
日当たりの良い場所に社を構えるために、
天麻比止都祢命に命じて検分させたが、
天麻比止都祢命はもっとも日当たりのよい場所に自分の屋敷を立てて、
天日槍には別の場所を報告したという。
後にその事実を知った天日槍は怒って天麻比止都祢命の足を斬りつけた。
その後許された天麻比止都祢命は当地に屋敷を立てて、
周囲に住む足の疾患を持った人々を救済したという。
祭神が足を痛めたので足痛が訛って葦田神社になったという。
ところが谷川氏によると、
出石大生部兵主神社の神官を務める黒田家の系図には、
垂仁紀三年条で倭直の祖長尾市と三輪君の祖大友主が
播磨に到着した天日槍を訊問したが、
葦田神社の由来に登場する随神とは、
長尾市その人と
大友主の息子の黒田繁代である、
書かれているという。
葦田神社の祭神天麻比止都祢命(天目一箇神)は
金属精錬と関係の深い神であり、
金属精錬の影響と思われる足痛→葦田を社名にしている神社が
天日槍との関わりを社伝として伝えていることは興味深いことである。
 
【痛足(あなし)、病足(あなし)→穴師】
奈良県桜井市に穴師坐兵主神社がある。
谷川氏によると、
穴師(あなし)には「痛足」、「病足」の字が当てられることもあるという。
穴師は岩穴に入って鉄鉱石や砂鉄を掘る人たちを指す言葉からきている。
穴師坐兵主神社の祭神大兵主神は、
天日槍のことであるとも言われている。
谷川氏はさらに兵主神社は、
中国山東半島の神蚩尤(しゆう)を祀る神社であり、
「蚩尤は鋼鉄の精錬にすこぶる縁の深い神である。」
と述べている。
天日槍について考える時に、播磨風土記は避けて通れない。
ざっと目を通しただけでも十か所ほどに日槍関連の記述がある。
ほとんどが、否すべてが領土争いを描いたものと言っても差支えないだろう。
円山川河口の津居山を切り開いて水はけを行ったということも書かれているが、
領土を広げる方策だったと考えられないこともない。
風土記に記載された地域を地図上にプロットしていくと、
揖保川をさかのぼって征服し、
上流で市川流域に進出し、
円山川を日本海側へ下って行ったものと思われる。
これは播磨国風土記の構成に従って読んでいったからで、
年号が書いてあるわけではないので、
逆に豊岡から円山川をさかのぼって出石辺りに本拠を構えてから、
市川、揖保川方面へ進出したのかもしれない。
 
日本書紀によると、先ず日槍は播磨国宍粟邑に到着している。
播磨国風土記にも揖保郡条に、
「粒丘(いひぼおか)。粒丘と号くる所以は、
天日槍命、韓国より度り来て、
宇頭川(揖保川か)に到りとどまりて、
宿る処を葦原志拳乎命に乞ふ。」
と一群が上陸できる場所を求めると、
葦原志拳乎命から海に止まるように言われて、
海の水をかき回して宿を作って泊まると、
その神業に驚いた葦原志拳乎命は粒丘という場所をを与えた。
そこへ行き、日槍は食事をして口から粒を落としたので粒丘という、
という地名説話を載せている。
新羅から天日槍の大船団がやって来て、
播磨国に対して上陸許可を求めた。
「黒船襲来」と同じような意味を持った出来事だったのではなかろうか。
日本書紀では朝廷から
三輪君の祖大友主と倭直の祖長尾市が派遣されて、
播磨国の宍粟邑と淡路島の出浅邑を自由に使ってよいと許可したが、
いろいろなところを廻って気に入ったところに住みたいと拒否されてしまう。
日槍軍団はその後宇治川をさかのぼって近江国に行く。
 
播磨国風土記の各地における領土争いの記述は
天日槍が連れてきた多数の渡来民が定住地を求めて
先住の人々と争った様子を描いているものと考えられる。
谷川健一氏は「青銅の神の足跡」の中で、
「天日槍が、西播、特に揖保川流域で
先住の鍛冶氏族と激烈な鉱山の争奪戦を行った。」
ことが播磨風土記に述べられていると書いている。
 
天日槍は金属精錬の技術者を同行してきて、
鉱物資源の豊富な土地を求めて根拠地にしようとしていたのだろう。
谷川健一氏は、
天日槍の足跡と金属精錬の神様である天目一箇命を祀る神社の分布の
共通性に注目している。
記紀には天日槍に関する記述はわずかである。
日本書紀には垂仁紀の三年春三月条に、
新羅王子の渡来説話として記述されている。
古事記には応神記に「昔、新羅の国主の子ありき」として書かれており、
「こは伊豆志の八前の大神なり」と結ばれて、
出石神社の八つの神宝の由来説話となっている。
記紀共に天日槍から始まる子孫系図が記されており、
8世孫の神功皇后につながる。
天日槍が神功皇后の7〜8世代前に想定されていて、
垂仁紀の初めに書かれているということは、
垂仁帝(在位期間99年)、
景行帝(在位期間60年)の長期政権であったことを考えると、
辻褄が合わないこともない。
神功皇后の時代を卑弥呼と同時代に想定すると、
AD100年頃のこととなる。
干支2回り分(120年)ずらすとAD220年頃のこととなり、
卑弥呼の時代に天日槍が渡来してきたことになる。
AD100年とすると、銅鐸が使われていた時代である。
3世紀中頃とすると、
天日槍は銅鐸勢力追放に関係している可能性が出てくる。
応神帝の時代を4世紀末とすると、
後者が史実に近い時代設定になるので、
天日槍の渡来は3世紀中頃のことと想定して
考えを進めていきたいと思う。
 
何故そんなことを考えるかというと、
私は天日槍が連れてきた一群の中に息長氏の先祖がいて、
琵琶湖周辺を勢力範囲にして活躍し、
7世紀の舒明帝以降の近畿天皇家の躍進に強い影響力をもち、
皇極帝→孝徳帝→斉明帝→天智帝→天武帝→持統帝→文武帝
と続く近畿天皇家の創生期に
何らかの役割を果たしたと想定しているからである。
九州王朝が白村江の戦に敗れて衰退していく中で、
無傷だった近畿天皇家が唐や新羅と連携しながら
近畿大和に新政権を樹立していったことを考えると、
天日槍の渡来に由来すると考えられる
息長氏をはじめとする近江勢力の周囲を
探ってみる価値があるのではないかと
思い始めたわけである。
記紀の蘇那曷叱智、都怒我阿羅斯等と 天日槍の説話を
要素ごとに検討することによってようやく結論に近づいたようだ。
三つの物語(史実or説話)から成り立っていた。
 
一つは、意富加羅(=任那)王子于斯岐阿利叱智干岐
(うしきありしちかんき、
倭風表記:蘇那曷叱智、
倭国でのニックネーム:都怒我阿羅斯等)
が人質として倭国に滞在し、
帰国後新羅との戦争が始まったという、
任那と新羅が犬猿の仲となった由来説話である。
日本書紀岩波版によると、
于斯岐阿利叱智の朝鮮語の音を漢字で表記すると
蘇那曷叱智となるという。
都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)は
意富加羅(=任那)王子于斯岐阿利叱智干岐の本名(阿利叱智)と
身体的特徴で角が生えているように見えたか、
あるいは角がある鹿の頭のような帽子をかぶっていたかで、
「角がある阿利叱智」を
「角がある人」とニックネームで呼び
「都怒我阿羅斯等」と表記したと考えてよいのではなかろうか。
 
二つ目は、垂仁紀三年春三月条にある新羅王子天日槍の渡来説話。
朝鮮半島のある事情(戦乱か)で、
天日槍が金属技術者、製陶技術者を含んだ一群で
倭国に渡来してきた史実に基づいた説話。
製銅・製鉄遺跡や製陶遺跡や神社などの分布が説話と一致している。
出石に定住した天日槍の子孫が記紀に記されており、
神功皇后の母親の葛城高額姫につながっている。
 
三つめは比売碁曾神社の祭神となる阿加流比売の渡来説話。
卵からかえった乙女が海を越えて日本へ行くという
韓半島に伝わる説話に基づいたもの。
神社の祭神として祀られていることを考えると
何らかの史実によっているのかもしれない。
 
古事記は天之日矛のストーリーに
阿加流比売の渡来説話を組み合わせている。
日本書紀は「一に云はく」で、
都怒我阿羅斯等の渡来の動機として
阿加流比売の渡来説話を導入している。
記紀が脚色として阿加流比売の渡来説話を利用したため、
新羅の王子の渡来説話と任那王子の人質説話が
混同して見えるようになってしまったようだ。

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