のんびりと古代史

自分なりに「削偽定実」を試みる。

気長・息長・息長氏

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【「倭国」の存在を隠す日本書紀】
虚構の日本書紀の中から少しでも史実を見出していくことが、
古代史の研究者が志していることであろう。
旧唐書は8世紀初頭の日本列島の代表国が「日本国」であることを認定している。
日本書紀は旧唐書が「日本国」以前に存在したとしている「倭国」について
全くふれていない。
ふれていないばかりか同じ「倭国」と書いて
大和地方を指していると思われる箇所が多数見られるので、
意図的に本来の「倭国」と紛らわそうとしたのかもしれない。

【蘇我氏とは?】
日本書紀の記事の中から「蘇我氏」について記されているところを
順を追って抜き出し解釈を加えながら50回になった。
その中で蘇我馬子については途中から実名ではなく
「大臣」とだけ記されるようになっており、
「馬子」という名前の人はいなかったのではないかという疑問を抱いた。
日本書紀は672年の壬申の乱で、
天武帝が天智帝の流れをくむ近江王朝を滅ぼしたとする。
遡ると、天智帝は645年に乙巳の変を起こし蘇我氏本宗家を滅亡させている。
単純に考えると蘇我氏→天智帝→天武帝の図式が成立する。
天武帝以降は持統帝に引き継がれて奈良時代に突入するので、
続日本紀が描く歴史時代に入ってきたと考えられる。
「蘇我氏」とはなんぞや、天智帝とは何ぞや、
ということが七世紀の古代史を考える上での最重要テーマとなるのであろう。

【蘇我氏と息長氏の抗争の始まり】
「蘇我氏と息長氏」と題して続けてきたシリーズも50回目となり、
推古帝崩御後の田村皇子と山背大兄王の皇位継承問題に入る。
日本書紀はここで初めて息長氏を登場させている。
ここまでは息長氏の影はあるが具体的に表舞台に出てくるのは初めてである。
神功皇后は「気長足姫尊」と名前だけ、
敏達帝皇子で息長広姫所生の押坂彦人大兄皇子は、
崇仏・排仏戦争の中で中臣勝海連との不可解な関係で描かれているだけである。
推古帝崩御後の後継争いは、
彦人大兄の子である田村皇子が息長氏代表として
蘇我氏の代表の山背大兄王と皇位を争うという構図である。
皇位継承争いは629年の舒明即位で決着するが、
蘇我氏と息長氏の覇権争いの始まりであり、
乙巳の変、壬申の乱へつながる端緒となる出来事と位置づけられる。
【推古帝崩御後の皇位継承問題】
蘇我蝦夷大臣の最初の活躍の場は推古帝崩御後の皇位継承問題だった。
推古帝が臨終の前に残した不可解な遺言の解釈をめぐり、
田村皇子と山背大兄王のどちらを即位させるべきか群臣達は争うことになる。

【蘇我氏系と非蘇我氏系の争い】
日本書紀は舒明帝となる田村皇子を「皇子」と記しているが、
田村皇子は彦人大兄皇子の息子で正確には皇子ではない。
彦人大兄皇子は敏達帝と息長氏出身の広姫の間の子であり、
蘇我氏の血脈とは全く無関係である。
山背大兄王も日本書紀の岩波版の注は「聖徳太子の子」と断定しているが、
日本書紀には聖徳太子との続柄は記されていない。
山背大兄王という記述から天皇の子でないことは確かであろう。
山背大兄王は後段で蘇我蝦夷のことを「叔父」と呼んでいるので、
蘇我氏の親族であることは間違いない。こ
の皇位継承争いは蘇我系と非蘇我系の「皇子」でない同士の争いだった。
日本書紀はこの争いの経緯を詳細に記している。

【蘇我氏系の内部分裂も】
蘇我蝦夷大臣は非蘇我系の田村皇子を支持する。
蝦夷は推古帝は田村皇子を後継に指名する遺言を残したと主張する。
蘇我系の山背大兄王を支持する勢力の中心は、
蘇我馬子の弟ではないかともいわれる境部摩理勢臣である。

(To be continued)
【祖父蘇我稲目】
蘇我稲目は宣化紀元年2月条に「大臣」として突然登場し、
主な活躍の場は欽明帝の時代である。
欽明31年3月に死去している。
稲目の大臣在任期間は約35年間。

【父蘇我馬子】
蘇我馬子は敏達紀元年4月条に「「大臣」として出現するのが初出。
敏達帝、用明帝、崇峻帝、推古帝の治世下で権勢をふるい、
推古34年5月に薨じている。
各天皇の在位期間で数えると馬子が大臣として活動していたのは、
55年間という長期にわたっていたことになる。

【蘇我蝦夷の登場】
蘇我蝦夷は推古紀18年10月条で、
新羅・任那からの使者を迎え入れる朝廷側の一員として
「蘇我豊浦蝦夷臣」の名で登場するのが初出で、
推古紀に登場するのはここだけである。
舒明即位前紀では、
田村皇子と山背大兄皇子が皇位継承問題で争っている時に「大臣」として出てくる。祖父の稲目が31年間、父の馬子が55年間大臣職についていたのだから、
蝦夷はすでにかなり高齢になっていたものと思われる。
【崩御後の日本書紀の蘇我馬子関連記事】
日本書紀には、舒明即位前紀に「嶋大臣」、舒明二年正月条に「蘇我嶋大臣」、
大化元年八月条に「蘇我馬子宿禰」と薨去後の記事が出ている。

【馬子は「蘇我嶋」が本名か】
推古34年5月条に、
自宅の庭の池の中に小さな嶋を造っていたので「嶋大臣」と呼ばれた、
と人名説話が記載されているが、「蘇我嶋」が本名だったのではないだろうか。
日本書紀編纂者の方針で、
「シマ」を「ウマ」にかえて「馬」の卑字を当てたと考えられないか。
馬は貴重な存在で人名につけたがったという学者の見解を聞いたことがあるが、
眉唾な気がする。

【舒明紀の馬子関連記事】
舒明即位前紀では皇位継承争いのさなか、
蘇我蝦夷と対立する境部摩理勢が嶋大臣の墓に立てこもる。
舒明二年正月条では、
舒明帝夫人法提郎媛(古人大兄皇子の母)の父親として出ている。

【仏教興隆に活躍した馬子】
大化元年八月条では仏教興隆に果たした功績が大きい人物として記されている。
小墾田宮御宇天皇(紀では推古帝のこと)の時に馬子宿禰は、
天皇のために丈六繡像・丈六銅像を造り、佛教を顯揚して、僧尼を恭敬したとある。この文章と同じことを記した推古紀の該当部分と比較してみよう。
「(推古)十三年夏四月辛酉朔、天皇、詔皇太子大臣及諸王諸臣、
共同發誓願、以始造銅繡丈六佛像各一軀。」
ここでは天皇(推古帝)は皇太子大臣及諸王諸臣に詔して共同して誓願を發して、
始めて銅繡丈六佛像各一軀を造る。
こちらには聖徳太子である「皇太子」が記されているにもかかわらず、
大化元年八月条では聖徳太子と諸王諸臣の部分が削除されている。
国内で初めて仏像を造ったという輝かしい記述から、
編纂者が勝手に聖徳太子を削除するなどということは許されることではないだろう。このことから帰結することは、
この段にはもともと聖徳太子の存在はなかったということである。
推古十三年夏四月条は、
大臣以下が手配して仏像を始めて作った記録であったものの中に、
皇太子=聖徳太子を付加したと考えられるのである。
【大臣薨去】
推古34年5月、大臣(注では蘇我馬子)が亡くなり桃原墓に葬られた。
大臣は稲目宿禰の子である。
武略と弁才に長けていた。
三宝を恭敬し、飛鳥川のほとりに住んでいた。
庭には小さな池があり池の中には小さな嶋があった。
時の人は嶋大臣と呼んでいた。
扶桑略記に交薨年76歳。
これだけの情報である。

【石舞台は馬子の墓か】
想像力たくましい人々が石舞台古墳を馬子の古墳という。
古代史が科学と呼ばれないのは、
このような不確かなことを定説としてしまっているからだろう。
古墳の被葬者を突き止めることが古代史の使命ではない。
わからないことはわからないとしておかないと情報が混乱する。
根拠のない断定は避けなければならない。
日本書紀の文脈からはここでいう「大臣」は馬子の可能性が高いだろう。
しかしだからと言ってここでいう桃原墓が石舞台であることとは
全く程遠い情報であることにはかわりない。
推古即位前記に「天皇(崇峻天皇)爲大臣馬子宿禰見殺」
崇峻天皇の殺害者として「馬子」名が出たことを最後にして、
その後は実名は記されていない。

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