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古田武彦は「天降る」の記紀における使い方から
「天国」の場所を割り出している。
第一、
「天降る」という動詞は「天国」から他領域へ行くことを示している。
他領域とは、筑紫、出雲、新羅の三領域だけ。
ということはこの三領域は「天国」ではない。
第二、
『「天国」から他領域へ行く際、中間寄継地を必要としていない。
このことは「天国」が他領域=筑紫、出雲、新羅に囲まれた
地理的中心にあるということを意味している。
いいかえれば、「天国」は壱岐、対馬を中心とする対馬海流の海上領域にある。
第三、
古事記神代記の大八島国の生成に
「亦の名」が付けられた場所がある。
その中に「天の・・・」と名付けられたものを挙げると次のようになる。
隠岐之三子島、亦の名は、天之忍許呂別
伊伎島、亦の名は、天比登都柱
津島、亦の名は、天之狭手依比売
大倭豊秋津島、亦の名は、天御虚空豊秋津根別
女島、亦の名は、天一根
知訶島、亦の名天之忍男
両児島、亦の名は、天両屋
ここに出てくる「天」を頭字にした「亦の名」をもつ地域が「天国」の領域だった。
そしてこれらは対馬海流上の島々に限られている。
しかしこの中に二つ例外がある。
ひとつは、女島、亦の名は、天一根。
天一根は天国から分岐した一つの根を意味している。
つまり対馬海流圏から瀬戸内海へ分岐したところを意味している。
女島=姫島。
もう一つは、大倭豊秋津島、亦の名は、天御虚空豊秋津根別。
この名前の解釈については、
古田は「盗まれた神話」の中で次のように説明する。
この島だけ「大倭」が冠せられていることからわかるように、
豊秋津島を大和を中心とする本州全体と定めた、
後代の近畿天皇家中心主義の理解による書き加えたと断じている。
記紀神話の認識は対馬海流圏の島々を「天国」とみなし、
「天国領域」から周辺の他領域に行くことを「天降る」と称した、
と古田武彦は解明した。
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古代は輝いていた
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日本書紀には、伊弉諾尊・伊弉冉尊が天浮橋の上から
「天之瓊矛を以て、指し下して探る」と
「矛の鉾より滴瀝る潮、凝りて一の嶋に成れり」
大八洲生成神話の始まりである。
天之瓊矛とは何か。
本居宣長は、
「玉以て飾れる矛なるべし、古はかかる物にも玉を飾れる、常のことなり」
と述べている。
宣長が常のことと言ったことに対して古田武彦は異議を主張する。
弥生時代の遺跡から、玉で飾られた矛の出土はそれほど多くない。
弥生時代の近畿の遺跡からは全く出土しない。
「勾玉類+細矛」がセットで出土しているケースは極めて稀である。
「常のこと」では決してない。
まれなケースとして、
福岡県の須玖岡本遺跡からは細矛5本と多数の勾玉・管玉が出土している。
同じく福岡県の三雲遺跡からも細矛2本と多数の勾玉・管玉が出ている。
古田は宣長が「常のこと」と認識したのは
考古学の知識がないためでやむを得ないこととしている。
古田は須玖岡本遺跡と三雲遺跡から
「勾玉類+細矛」がセットで出土していることから次のように述べている。
「『国生み神話』とは、この須玖・糸島などの王者の
『王権の尊厳とその支配領域の拡大』を語る説話であった、
そう解すべきこととなろう。
わたしは、この『国生み神話』の第一の聴衆が、
眼前に『天之瓊矛』を誇りやかに提示された公式儀礼の場で
これを聴かされたこと、それを疑うことができない。」
さらに古田は「勾玉類+細矛」のセットについて考えを進めている。
勾玉などの玉は縄文期以来の日本列島の出土物であるのに対して、
矛は中国ないし朝鮮からの舶来品である。
となるとこの複合セットの成立には二つのケースが考えられる。
第一は、縄文以来勾玉を貴重なシンボルとしてきた
日本列島人が渡来の矛を加えて複合セットを作った。
第二は大陸からの渡来人が征服者となってもち来った矛に
在地民のシンボルである玉を添付して複合シンボルを作った。
どちらのケースだったかを判断する裏づけとして、
古田は土器の変遷を挙げる。
もし渡来者によって征服されたのであれば、
弥生期には漢式土器が支配的になっているはずなのに、
実際には縄文期以来の伝統に立った弥生土器が中心である。
したがって「勾玉類+細矛」がセットの所有者は第一のケースで、
大陸からの渡来征服者による支配の実態はなかったと主張している。
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記紀に記された神話や説話、
神社や習俗に遺存した神話や説話伝承は、
これらを先入観としてのイデオロギーに左右されずに
徹底した実証を貫き通すことによって、
日本列島内の古来からの精神の伝統を実証する無比の史料になる、
と古田武彦は強調している。
古田は実例として記紀冒頭の国生み神話を挙げている。
伊弉諾尊と伊弉冉尊が天瓊矛によって生み出した国の名前は
三つの表記法に分かれている。
<一段地名>筑紫(洲)、大(洲)、越(洲)
<二段地名>豊のアキツ(洲)、伊予のフタナ(洲)、吉備のコ(洲)
<島名>淡路洲、佐度洲、壱岐洲、対馬洲
分析のポイントは以下の通り。
●豊のアキツ(洲)、伊予のフタナ(洲)、吉備のコ(洲)、
これらの二段地名はいずれも瀬戸内海県の地点。
●「洲」はシマではなくクニ。
「大洲」は「オオクニ」であり出雲のこと。(大国主命の「オオクニ」)
一段地名の
筑紫国(福岡県)、
大国(出雲、島根県)、
越国(能登半島中心に福井県、石川県、富山県、新潟県)
はすべて日本海側の国名。
日本海側の中心は筑紫国。
●この国々の地理的分布は
筑紫を原点に日本海側に勢力圏を伸ばして、
瀬戸内海側には勢力の寄港点を伸ばして淡路島を東限としている。
⇒【結論】これは筑紫矛を原点とする
弥生時代の細形銅矛の分布圏と大略一致している。
古田武彦は記紀神話を分析することによって
考古学の発掘結果と合致する(銅矛勢力圏)
弥生時代前半期の「リアルな政治地図」をあぶりだすことに成功した。
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1965年に南米エクアドルのバルディビア遺跡から、
縄文土器と酷似した土器群が発掘されたことを
エクアドルの考古学者エバンス夫妻が発表した。
縄文中期の有明海沿岸部の土器群と共通する文様をもっているという。
博士夫妻によると、
①その相似点は複合した共通性をもっており偶然の一致とは言えない。
②日本では数千年以上の伝統の上に培われた
土器技術である縄文土器と同種のものが
土器づくりの伝統がないパルディビアに突如開花したように見える。
③黒潮、北太平洋海流、カリフォルニア海流が貫流しており
縄文人の船がこの海流に乗るとエクアドル到着は可能である。
これらの点からエバンス夫妻は、
バルディビア遺跡から出土した土器は
縄文文明から派生したものである、
との結論に至った。
エバンス夫妻のこの発表に対して日本の考古学学会は一笑に付したという。
古田武彦はこのエバンス夫妻の発表を、
「魏志倭人伝」に記されている、
日本列島の東南方向に船行一年の場所にある
「裸国・黒歯黒」との関連を考えているようだ。
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『論衡』(王充著)には、
「成王の時、越常雉を献じ、倭人暢草を貢す」(巻十九)以外にも、
巻八に「周の時、天下太平、越裳白雉を献じ、倭人鬯艸を貢す。」の記述がある。
論衡は古記録に基づいて漢代(後漢、一世紀)に書かれたものだ。
周代に書かれたとされる『尚書』にも倭人と考えられる記述がある、
と古田武彦は書いている。
「海隅、日を出だす。率俾せざるは罔(な)し。」
この文章を古田は次のように訳している。
「東の海の彼方の一隅に日の出るところがある。
そこに住む夷蛮の地から、
貢献の使者がやってきた。
(そんな遠方まで、およそ貢献しないものはいなくなった。)」
『尚書』の冒頭には次のようなことが書かれている。
「島夷皮服 海曲、之を島と謂う。
島に居るの夷。島は是れ、海中の山。」
東方の島に住む人(倭人か)は獣の皮を身に着けている、という。
さらに『尚書』と同時代の『礼記』には、
「東方、夷と曰う。被髪文身、火食せざる者あり。」とある。
『魏志倭人伝』の記載と共通するものが多い。
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