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倉本一宏氏の著書「壬申の乱を歩く」は、
倉本氏が壬申紀の記述に沿って丹念に辿り書き上げた名著である。
写真と地図が豊富に掲載されているので非常に読みやすい。
今回は倉本氏の著書に基づいて、
遠山美都男氏が引率してくれるツアーに参加した。
私はこのブログで書いたように、
壬申紀の天武帝の6月24日から26日にかけて行われた、
吉野宮から桑名郡家までの150km以上の逃避行について
懐疑的に考えているので、
実際に確かめてみることが目的だった。
結果的にはバスに乗って移動したところで
本質的なところは何もわからないということだった。
現在の国道は峠越えの難所にはトンネルが掘られていたり
橋が架けられていたりするので
いつの間にか通り過ぎてしまう。
徒歩や乗馬でどれほどの困難があったかは全くわかりようがなかった。
若い頃に100kmマラソンに出て10時間ほどで走り切った経験がある。
車で100km走るととても人間が走ることができるとは思えない距離が
実際に走ってみると何とかなるものだということは知っている。
それにしても大海人皇子、菟野皇女、皇子たち、
側近の家来たち、後宮の女官たち数十名が
徒歩で出発すること自体が無謀であると言わざるを得ない行動である。
日本書紀によると、吉野宮を徒歩で出発した一行は
すぐに県犬養連大伴の鞍馬に出会う。
大海人皇子は馬に乗り、菟野皇后は駕籠に乗ることができた。
また出発してから25kmほど先の菟田郡家では
伊勢国の駄馬50頭と出会う。
そこからは全員が馬に乗ることができたという。
大海人皇子一行の逃避行は実は周到に準備されていたと思われる。
倉本氏は著書の中で、
かつて大海人皇子一行と同じように
午前10時45分頃吉野宮(宮滝)を出発して
菟田郡家(現在の榛原)まで歩きとおしたことがあると書いている。
到着したのが6時間半後の午後5時16分。
途中関戸峠で両足の裏の皮がむけてしまったという。
草履くらいしかなかったであろう後宮の女官たちが
本当にここまで来れたのだろうか。
また、古田武彦氏の「壬申大乱」によると、
騎兵の経験がある三森堯司氏はその著書「馬から見た壬申の乱」で、
馬に乗るには馬具をつけなければならないので、
駄馬が50頭用意されたからといってすぐに乗れるものではない、
と書いてあるそうだ。
また三森氏によると、
壬申紀に書かれている行程で馬を歩かせることは
ほとんど不可能に近いとも言っているらしい。
馬は生き物なので食べ物も休憩も必要で
不眠不休で歩かせ続けることはできないという。
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壬申の乱
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701年から始まる近畿天皇家による律令体制を理解するためには、
日本書紀に書かれている天武紀上=壬申紀をどう解釈するかが
重要になることは言うまでもない。
前回まで見てきたように、
大海人皇子一行は6月24日から6月26日まで
丸三日間ほとんど一睡もせずに
約150km程にもなる上り下りのある厳しい道を進んだことになっている。
最初の日の夕刻に馬が手に入ったが日中は歩きとおしだった。
現在は国道になっているので舗装道路になっているが
当時はコンディションの悪い道を
草履のようなものを履いて歩いたにちがいない。
馬がいても残りの二日間歩き続かせるのは不可能だ。
16km毎にあるという駅家に50頭もの馬がいたのだろうか。
スタート時は男性20名余り、女性10名余りで
この30数名は全行程に参加したのだろう。
筆者は今週末、吉野宮から桑名郡家まで
一行が歩いた道のりをバスで走ってみようと思っている。
日本書紀の記述のリアリティを肌で感じてみたい。
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吉野を出発して丸二日たった6月26日の辰時(午前8時頃)、
大海人皇子一行は
朝明郡(あさけのこほり)の迹太川の辺(とほかはのへ)に到着した。
ここで大海人皇子は、
「天照大神を望拝(たよせにをが)みたまふ。」とある。
前夜、三重郡家において
「山部王、石川王並びに来帰れり、故、関に置らしむ」
との鈴鹿関司の急使の報告に対して、
帰還した迎えの使者の路直益人(みちのあたひますひと)は
無事に大津京を脱出できた大津皇子の一行を同行してきた。
「関に置らしむ」のは山部王、石川王ではなく、
大津皇子の一行だった。
日本書紀ではここで大津皇子と合流して、
「天皇(まだ実際には天皇ではない)、大きに喜びたまふ。」
さらに腹心の村国連男依が早馬に乗ってやって来て、
「美濃の軍勢3000人によって不破道を閉鎖することができた。」
ことを報告した。
壬申の乱において天武帝側の大きな勝因の一つとして、
美濃をはじめとする東国の勢力を味方につけることができたことが挙げられるが、そのために伊勢神宮が果たした役割が大きかったのだろう。
乱後、皇室が伊勢神宮と緊密な関係を築き、
皇祖神として伊勢神宮=天照大神を崇め奉るようになったのも、
この時の伊勢神宮の貢献が影響していると言われている。
大津皇子と合流した大海人皇子は「大きに喜びたまふ」とあるが、
先に積殖の山口で高市皇子と合流した時には、
日本書紀はその事実を記述しているだけである。
とくに大海人皇子の感情については伝えていない。
大津皇子に対する強い思いが現れているのではないだろうか。
(日本書紀の編纂者は大海人皇子が大津皇子を後継者に考えていた
と認識していたということではないだろうか)
大海人皇子は、
朝明郡(あさけのこほり)の迹太川の辺(とほかはのへ)で、
●大津皇子と合流することができた。
●懸案の不破道閉鎖が成功したという報告を聞いた。
●この時点で東国勢力の協力を取り付けるめども立った。
近江朝廷との戦を有利に進める準備が完了した。
四日市市大矢知町の南端、斎宮(いつき)の地には
「天武天皇迹太川御遙拝所跡」の標石が立てられている。
ここには幹周り約9㍍、樹齢500年を超える
「天武天皇のろしの松」がある。
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吉野を出て二日目となっても、大海人皇子軍の強行軍は続く。
莿萩野(たらの)で食事をとった後、
さらに現在の国道25号線を東北東に8km程進み
積殖山口(つむゑのやまぐち)に到着した。
ここで甲賀方面から来た高市皇子一行と合流することができた。
高市皇子は近江宮を抜け出して草津経由で
現在のJR草津線が通っているルートでやってきたものと考えられる。
徐々に数を増した一軍は加太越え(伊勢大山、鈴鹿山地)で伊勢の鈴鹿に到った。
ここまでで吉野から約100km。
ここで伊勢国の国司守や湯沐令の一群と合流、
五百軍となって鈴鹿山道を越えて、
20km先の川曲の坂下(伊勢国河曲郡、鈴鹿市山辺付近)到着。
ここで二日目の日が暮れてた。
菟野皇女が疲労の色が濃いので休息をとろうとしたが、
突然の雷雨となり寒くて耐えられなくなったので、
さらに4km進んで三重郡家(四日市市采女町)まで行き、
家を一軒燃やして暖をとった。
吉野から124km。
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吉野宮を出発して日没までに大野(宇陀郡室生村大野)まで行き、
火を灯しながら隠駅屋(名張市)まで、
少なく見積もって42kmフルマラソンの距離を歩きとおした。
横河(名張川)にさしかかると突然空に
十余丈(30m四方程の大きさか)の黒雲が現れた。
異様に感じた大海人皇子は灯を掲げて式(ちく、占いの用具)をとって占った。
「天下両つに分かれむ祥(さが)なり。
然れども朕遂に天下を得むか」
占いの結果、この戦いで勝利を得ることを確信したようだ。
行軍を急いで20km程歩いて伊賀郡に着き、伊賀駅屋を燃やした。
7kmほど先の伊賀の中山まで行くと、
郡司達が数百の兵を連れて集まってきた。
夜明け方には莿萩野(たらの、三重県阿山郡伊賀町付近)に到着、
食事をとった。
ここまで吉野を出てから約80km、
昼夜一睡もしないで歩きとおしたことになっている。
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