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日本書紀によると天武元年(672年)5月30日に、
駐留していた郭務悰は武器(甲冑、弓矢)や土産物(絁、布、綿)を得て帰国した。
郭務悰軍の撤退を待っていたかのように大海人皇子は動き出す。
6月22日、傘下の全軍に対して挙兵の指示を出し、
大海人皇子の軍事的基盤である
美濃国の湯沐邑(とうもくゆう)を管理する
湯沐令(ゆのうながし)多臣品治(おほのほむぢ)には
近江軍と東国を遮断するために不破道を塞がせた。
大海人皇子自身は6月24日早朝、
取るものも取らずに全員徒歩で吉野宮を出発した。
すぐに犬養連大伴が馬一頭つれてきたので、
菟野皇女だけ馬に乗ることができた。
16kmほど進み津振川(津風呂川)辺りでもう一頭馬が手配できたので、
大海人皇子が乗馬した。
一行は大海人皇子、菟野皇女の他、草壁皇子、忍部皇子及び舎人などで、
男性20余名、女官10余名だった。
さらに4km程行き菟田の吾城(宇陀郡大宇陀町)付近で
後発の二人が追いついた。
甘羅村(かむらのむら、大宇陀町神楽岡)では、猟者20数人が合流した。
菟田郡家には伊勢国の馬が50頭用意されており、
ここからは歩いてきた人々も乗ることができた。
大野(宇陀郡室生村大野)という場所にさしかかったところで日が暮れた。
ここまで約32km。
現在の道路で言うとほぼ国道370号線を北上していることになる。
山道は暗く進むことができないので、
むらの家の垣根を壊して火を灯した。
10km程行き、夜半に隠郡(なばりのこほり、名張市)に着くと、
隠駅家(なばりのうまや)を燃やした。
ここまでで約42km。フルマラソンの距離。
ここで村人たちに、
「天皇がこれから東国に入る。一緒に行く人はいないか」
と呼びかけたが、一人も参加者はいなかった。
真夜中に駅家を壊して燃やしているような連中の呼びかけに
応じる人はいないだろう。
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壬申の乱
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日本書紀にとって「天武紀上(壬申紀)」は最も重要な意味を持っている。
史料としてではなく、編纂者にとって。
「養老日本紀」(日本書紀のこと)が完成したのが720年。
壬申の乱は672年の事件。
約50年前の事件のことを書いている。
壬申の乱に20歳で参戦した人が
日本書紀完成時に生きていたとしても70歳近くになっていたということ。
現在で言うと東京オリンピックの頃のことを書いていることになるだろう。
50歳くらいが平均寿命だったとすると、
壬申の乱を経験した生存者はそれほどいなかっただろう。
天武帝の皇子や孫の勢力が中心になっていた
8世紀初頭の近畿天皇家にとって、
養老日本紀の一つの大きな役割は、
「壬申の乱」の大義名分をいかに正当化するかということにあっただろう。
天智帝の病床で出家を願い出て
吉野に退いていた大海人皇子は、
天武元年(672年)6月に、
天智帝の墓を造ることを口実にして兵を集めている近江朝廷に対して、
「近江朝廷の臣等、朕が為に害はむことを謀る」
として、村国連男依、和珥部臣君手、身毛君広に詔して、
近江から東国に通じる要路の一つである不破の道を封鎖することを命じた。
近江の朝廷が
「朕」(この時は大海人皇子は出家のみであり朕を自称する立場ではない)
に対して攻撃を仕掛けようとしている、
この戦いは「近江朝廷の臣等」が仕掛けたもので
自分たちは正当防衛の戦いを始めざるを得なかった、
という位置づけをまず明確に主張している。(遠山美津男説)
近江朝廷と言っても、
天智帝が認めた後継者である大友皇子(弘文帝)ではなく、
周囲にいる「臣等」の謀略によって始まった戦争である、
ということを前提にして壬申の乱の記述は始まる。
東国に向かう準備をする大海人皇子に臣下の一人が、
「近江の群臣、元より謀心有り。必ず天下を害らむ」としているから、
防備を怠らぬようにと進言する。
あくまでも悪いのは「群臣」であると念を押している。
大友皇子の所為にすると、
壬申の乱がクーデターであったことを隠し切れなくなるからだろう。
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