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松本猛、菊地恩恵共著「失われた弥勒の手」に
興味深い内容が書いてあるので要点を書き出してみたい。
●安曇野にある有明山にはもう一つ「戸放ヵ嶽」という名前がある。
(名前の由来が「信府統記」に書かれている。)
●天岩戸説話で、日神が岩戸にこもった時に手力雄命が
岩戸を取って投げた時に落ちたところ、
天下が明るくなったのでこの山を有明山とも戸放ヵ嶽ともいう。
●戸隠山にも天岩戸が飛んできたという伝説がある。
●長野には大和朝廷の力が及ぶ前から天岩戸伝説があった。
その伝説は安曇族の神話だった。
●「有明」という名前は有明海、対馬の有明山につながり、
安曇族にとっては重要な名称だった。
●長野には善光寺平にも有明山がある。
千曲市には摂社に高良社本殿がある武水別神社がある。
「長野にいた安曇族は相当大きな集団だったと考えた方がいい」
と述べている。
天岩戸伝説は安曇族に伝わった神話であったかもしれない。
という仮定は一考に値するだろう。
「有明、戸隠」などの分布からも、
九州からやってきた安曇族は
長野県内のかなり広範囲に浸透していたことが考えられる。
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八面大王
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【秀作論文「志賀海神社の八乙女について」】
安曇族に関する史料をPCで探していたら、
興味深い論文を見つけることができた。
作成年代はわからないが、
北九州大学文学部人間関係学科石橋利恵さんが書いた
「志賀海神社の八乙女について」。
この論文の第三章第二節に「聖なる数字”八”」があり、
志賀海神社で、「八」が大切にされていたことが書かれている。
【「八」を大切にした安曇族】
昨日拙ブログにブロ友のはぎのおさんが、
「八つの耳きく」が志賀島の枕詞になっていることを教えてくれた。
石橋さんは論文の中で、
「志賀島は『八ずくし』と言われるほど、
『八』という数字が重要な意味を持つ。」
としたうえで、「八」にからんだ例を列挙している。
【志賀島で「八」を尊んでいる具体的な事例】
●「八つの耳」が志賀島の枕詞となっている。
はぎのおさんのご指摘と同じ。
神武帝の皇子の一人とされている神八井耳命との関連性が気になってしまう。
●志賀の神は八尋のカメに乗って現れる。
●島の松は八万年も青々と茂る。
●歩射祭(1月15日)で使うワラは新ワラを八束×四組計三十二束作る。
●締める縄は八を二で割る四本を一束にする。
●的の直径は八寸(鯨尺)で、八つの耳(飾り)が付く。
●射手が八人。
●助手格の矢取の少年が八人。
●祭りの世話役が八人。
●矢篠(矢にする竹)を切る日が一月八日。
●矢の数は八×六=四十八本。
●射手の潔斎食の吸い物の身は豆腐一丁を八×三=二十四分割した一切れ。
●ブリのエラで作った八本の剣をお守りにする。
●前日の十四日に沖津宮の禊の後に供えるダイダイが八個。
志賀島で「八」を尊ぶ由来については、
神功皇后が朝鮮に渡る時に、
中西八軒が船を明日からだと言われているという。
中西八軒とはこの地域の漁師の家のことだろう。
【「八」の名を持つ八面大王】
この地域から発して拡散し安曇野に住みついた一群が
「八」を大切にしたことは想像に難くない。
後に近畿天皇家に追われて逃げてきた九州王朝の天子を
「八面大王」と称して崇め奉っていたとしても不思議なことではないだろう。
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【「安曇野」と「信濃」、「科野」】
記紀には「安曇野」という地名は出てこない。
「信濃」、「科野」は記では神武記(神八井耳命の子孫)、紀では景行紀(日本武尊の東征)に出てきている。
このことは遅くとも記紀が完成した頃には、長野県の安曇族は仁科氏に制圧されたと考えて良いことを示している。
八面大王は8世紀はじめには仁科氏によって滅ぼされて、「安曇野」は「科野」、「信濃」となっていたと考えられる。
【神八井耳命の血統を引き継ぐ「科野国造」】
神武記に記された神八井耳命の子孫の中に「科野国造」が出てきている。
神八井耳命の子孫は「意富君」をはじめ、「火君」、「大分君」、「阿蘇君」、「筑紫三家連」など九州関連の名前が多い。
「科野国造」も本来は「安曇国造」で、安曇野を支配していた安曇族のことを指していたのかもしれない。
【『仁科濫觴記』八面大王説話の伝の乱れ】
『仁科濫觴記』では、延暦8年(789年)朝廷の命を受けた仁科和泉守が、田村守宮を将軍とした一軍に八面大王を攻撃させて退治したと記されている。
この話は有明山麓を本拠とする八人の首領を持つ盗賊集団「鼠族」(八面鬼士大王を名乗る)を退治した時の記事である。
八面大王と八面鬼士大王が同一かどうか甚だ疑問である。
八面大王伝説には、口承伝承にありがちな伝の乱れが多く、登場人物や年代などそのまま受け入れることができないことが多く含まれている。
八面大王を滅ぼした将軍は坂上田村麻呂となっているが、これなどは話を伝える時に、話者が主人公を有名な坂上田村麻呂にした方がインパクトが強いので悪気なく変えたものだろう。
坂上田村麻呂が主人公として定着すると自ずから時代は田村麻呂が活躍した時代の出来事となり八面大王は800年頃の人ということになってしまう。
同じころに起こった盗賊「鼠族」退治説話を八面大王と結び付けてしまったのではないだろうか。
【安曇野→科野が示す権力の交替】
記紀が8世紀初めに「安曇野」を使わずに「科野」、「信濃」を使っていることから、安曇族は記紀成立前に仁科氏によって制圧されたと考えられる。
仁科氏による安曇族征圧の物語が八面大王伝説となったのではないかと思う。
八面大王征伐は8世紀初めの出来事ではないだろうか。
八面と八女、福岡の八面山との名前の一致、安曇族の移動、高良玉垂宮の存在(松本市幅)、穂高神社のお船神事、このように八面大王の周辺には九州との幾重ものつながりがある。
八面大王伝説は九州王朝の滅亡説話であり、九州王朝が安曇野の地で最期を迎えたのではないか推理している。
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【八面大王伝説の骨子】
八面大王の物語の概略は以下のとおりである。
いくつかのバリエーションがあるようだが、大同小異と考えて良いのではないだろうか。
●昔中房山に「魏石鬼」がいて、人々を苦しめていた。
●「魏石鬼」は「義石鬼」とも言い、「八面大王」と称した。
●坂上田村麻呂がこれを征伐したという。
●田村利仁将軍が桓武天皇の頃たびたび東夷を征伐したというので、
この中の一つだろう。
●しかし田村利仁将軍が信濃国で夷賊を征伐した記録はない。
●旧俗の言い伝えに従ってここに載せることにする。
●松川組宮城という所に「魏石鬼の岩屋」と呼ばれる遺跡が今も
存在している。
●退治された八面大王の体は生き返らないようにバラバラにされ、
足を埋めたとされるのが「立足」の地名として残り、
胴を埋めた二つの「大王神社」(大王わさび田と狐島)
耳を埋めた「耳塚」。
【九州にも同様な伝説があった】
八面大王伝説は長野県の安曇野地方に残っているが、同様な伝説が九州にもあることが知られている。
宮崎県の高千穂に以下のような鬼八伝説がある。
高千穂の鬼八塚 (首塚)
神武天皇の兄、三毛入野命(ミケヌノミコト)は、神武建国の途中でもとの国、高千穂に御帰還され、留守中にこの地方を支配していた鬼八(きはち)荒神との間で激しい戦いが繰り拡げられました。
鬼八荒神は命に退治されましたが再び生き返り、抵抗して暴威をふるったので、命は神体を三つに切って三箇所にわけて埋めました。
この場所はその首塚と伝えられています。
荒振る神鬼八は霜宮といい、寒霜を司ったので、今では農耕や、厄除けの神として尊敬され日向、肥後地方の里人の信仰を集めております。 昔から鬼八荒神の霊を慰める為、毎年16歳の少女が人身供養として捧げられていましたが、天正年間岩井川の城主甲斐宗摂の進言により、初狩りの猪一頭、米飯三石三斗三升三合が代わりに供えられて以来、この神事は高千穂神社の猪掛祭(ししかけまつり)として現在も伝えられています。 熊本の阿蘇地方にも主人に逆らった鬼八が成敗されて生き返らないようにばらばらにして生められるという「鬼八伝説」があるという。
【勝者の大義名分=正当化のための物語】
「悪行を働く八面大王or鬼八を権力者が退治して、二度と生き返らないようにばらばらにして埋めた。その後平和な世の中が訪れた。」
大筋では共通している。
近畿天皇家が日本を統一する時に、服することのない逆賊を一掃することに全力を挙げた。
特に前政権を担っていた九州王朝の残勢力については念入りに勢力が回復することができないように壊滅をはかった。
近畿天皇家は九州王朝の残勢力が悪行を働いたので、やむを得ず成敗したという物語を残すことによって、自分たちの行為を正当化したものと考えられる。
【八面大王はやはり九州王朝の残勢力か】
八面大王=八女大王は九州から信濃へやってきたのではないか、と推理してきたが、九州に同様な話が残されていることは単なる偶然ではないだろう。
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八面大王の物語はいろいろな史実を暗示しているように感じられる。
●安曇野という地名の起源
●九州王朝と近畿王朝
●近畿天皇家と仁科氏の関係:皇極太子とは誰か
●安曇氏と仁科氏の代理戦争
●安曇野から信濃への地名変更
安曇族の入植から仁科氏が国守になるまでには
いろいろな出来事が絡み合う歴史の流れがあるようだ。
その歴史の流れのターニングポイントとなった出来事を
八面大王の物語は象徴しているのではないだろうか。
坂本博氏が言うように、
安曇族が入植したのは、
磐井の乱の後の6世紀前半のことだったかもしれない。
また、唐・新羅軍が百済を滅ぼす勢いを示している時に、
倭国九州王朝が安曇族がいる地に逃げ城を用意していて、
近畿天皇家が成立した701年以降、
九州王朝の天子だった薩夜麻以下が
この地に逃げ込んだことも十分考えられる。
【安曇野の名前の起源】(ウィキペディアより)
●福岡県の志賀島を中心に活動していた安曇族が全国に散らばり、
各地に定住するようになったが、本拠地はここである。
穂高神社に祖神を祀るようになった。
安曇野という地名の起源は安曇族による。
●仁科濫觴記には、成務天皇が諸国の郡の境界を定めた際、
「保高見熱躬」が郡司であったため熱躬郡になり、
後に皇極太子によって安曇に改称された。
仁科濫觴記の記述は日本書紀に辻褄を合わせた後付けだろう。
安曇族の移住は穂高神社の御船神事などとも整合している。
【九州王朝と近畿王朝】
「九州王朝」とは記紀などを史料批判することによって、
古田武彦氏が考え出した概念であるということもできる。
日本の文献からは九州王朝の存在を具体的な形で見出すことはできない。
しかし中国や朝鮮に残る史料をしっかりと読んでいくと、
九州王朝の存在を確認することができる。
隋書俀国伝の「日出る処の天子」は
阿蘇山が見える地域の国の天子であると書かれている。
九州王朝の天子であることは間違いない。
7世紀初めに隋と交渉していたのは九州王朝だったということである。
九州王朝は白村江の敗戦で急速に衰えていく。
変わって台頭してきたのが、
白村江の戦の直前に参戦を回避した近畿天皇家である。
ここからは仮説だが、
九州王朝が安曇族と行動を共にしながら、
安曇野の地に亡命していた可能性がある。
続日本紀に記述されている
「山沢に亡命」している勢力は
安曇野に亡命した九州王朝の最後の勢力だったかもしれない。
近畿天皇家は武器と禁書を持って亡命していた
九州王朝の残勢力を一掃して禁書を回収し
九州王朝の痕跡を根絶した後、
720年養老日本紀(日本書紀)を完成し、
近畿天皇家にとって都合が良い「削偽定実」を作り上げた。
【近畿天皇家と仁科氏の関係:皇極太子とは誰か】
安曇野の安曇族と九州王朝の残勢力を攻撃し壊滅したのは仁科氏だった。
「仁科濫觴記」によると、
仁科氏は仁科城主として派遣された皇極太子の3歳の子を祖としている。
皇極太子は天武帝に比定されている。
つまり仁科氏は天武帝の子孫ということになる。
正史では、皇極帝の太子は中大兄皇子である。
仁科濫觴記があえて天武帝に比定できる形で
皇極太子という言葉を選んだことは実に興味深い。
皇極帝、天武帝を舒明帝、天智帝以上に尊重する事情があった、
ということかもしれない。
【安曇氏と仁科氏の代理戦争】
天武帝の血を引く仁科氏によって、
安曇野にいた九州王朝の残勢力が壊滅を余儀なくされた。
安曇野の地において、
九州王朝と近畿天皇家の代理戦争が
安曇氏と仁科氏によって行われ、
仁科氏が勝利したことによって安曇氏と共に、
安曇氏に匿われていた九州王朝の残勢力が壊滅した。
八面大王が田村利仁将軍によって退治された物語は、
九州王朝&安曇族が近畿天皇家の臣下である仁科氏によって
滅ぼされた史実を反映しているのかもしれない。
【安曇野から信濃への地名変更】
安曇族が入植して開墾して作り上げた地域を「安曇野」と呼んでいた。
8世紀初めに安曇族を滅ぼしてこの地を征圧した仁科氏は、
安曇族の地=「安曇野」という名前を嫌い、
仁科氏の地=仁科野→「科野」と改名したのだろう。
「科野」が後に「信濃」となって現在に至っている。
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