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【八面大王とは(ウィキペディアより)】
「八面大王」とは、「魏石鬼(義死鬼)」の別称である。
出典となった『信府統記』に読み仮名がないため、正式な読み方は不明である。
【大王わさび農場】
長野県安曇野市、豊科インターの近くに大王わさび農場がある。
北アルプスからの清流を利用して広大なわさび田を作っている。
年間120万人ほどが訪れる観光スポットである。
以前訪れたことがある。
その時に敷地内の休憩施設の側にある大王神社を見た記憶は残っているが、おとぎ話や民話に過ぎないと思い大した関心を持たなかった。
大王わさび農場の「大王」は大王神社に由来し、この神社には八面大王の胴体が埋葬されているとされる。
「大王わさび」は八面大王に因んだネーミングだった。
【八面大王は八女大王か】
ウィキペディアの説明にもある通り、八面大王は福岡県の八女との関係が考えられているという。
八女と言えば筑後川水系のお茶の名産地である。
古代史では邪馬台国との関係を主張する説もあるようだ。
日本書紀では、景行十八年七月条に、八女津媛に因んで八女国という名がつけられたという地名説話が紹介されている。
【信州と九州のつながりは】
筑後川流域の久留米市には筑後国一の宮である高良大社がある。
「高良」の名をもつ神社は、筑後久留米方面には高良大社の他にも何社か存在している。
久留米市の高良玉垂宮、八女市高良玉垂神社など。
信州にも高良玉垂宮があちらこちらに祭られているという。
松本市幅の高良幅玉垂の水、佐久市の高良社、千曲市の武水別神社摂社高良社本殿など。
高良の名前をもつ神社がこれほど集中している地域は日本全国他にはないだろう。
【古田武彦の九州王朝遷都説】
古田武彦氏によると、倭奴国、邪馬壹国以来博多湾岸を中心としていた九州王朝は4〜6世紀にかけて南下した高句麗の「倭都侵攻」を恐れて都域を筑後川流域に移した。
隋が中国を中国全土を制圧し、さらに唐が引き継ぐと、唐軍は新羅と結んで百済を滅ぼし、危機は九州王朝にも及んできた。
唐軍は有明海側から侵入してくることも考えられるので、筑後川流域も安全エリアではなくなった。
そこで九州王朝は「信濃遷都」を企てた。
唐軍の侵攻を考えると海岸線から遠い信州は要塞の地だった。
【日本書紀に書かれた信州遷都企画】
日本書紀には信州遷都企画の記事が出ている。
「天武紀十三年二月二十八日、是の日に、三野王、小錦下采女臣筑羅等を信濃に遣して、地形を看しむ。是の地を都せむとするか。」
「同年四月十一日、壬辰、三野王等、信濃国の図を進ず。」
「天武十四年十月十日、壬午、軽部朝臣足瀬・高田首新家・荒田尾連麻呂を信濃に遣して、行宮を造らしむ。」
天武紀に三件の信濃関連記事が唐突に表れている。
天武天皇による信濃遷都の事実はない。
古田氏によれば、この天武紀の記事は九州王朝の史料からの借用記事だとする。
唐・新羅軍の侵攻を恐れた九州王朝の遷都記事である。
天武天皇には飛鳥宮から遷都しなければならない強い動機は感じられない。
持統紀にも信濃関連記事が一ヶ所出てきている。
「持統紀五年八月二十三日(辛酉)、使者を遣して龍田風神、信濃の須波、水内等の神を祭らしむ。」
龍田神は毎年4月と7月に祀ることが定例であって、8月に祀る龍田神の記事が出てくるのはここしかない。
同時に信濃の神を二社祀っていることは八面大王と何か関連があるのだろうか。
岩波版の注は諏訪大社を祀ったことにしているが、あまり根拠があるとは思えない。
【八面大王は九州王朝最後の天子薩夜麻か】
古田武彦氏は、八面大王は白村江の戦で捕虜となって唐に抑留されて天智十年に帰国したと思われる九州王朝の最後の天子薩夜麻ではないかと述べている。
持統紀四年十月に、薩夜麻の唐での解放のために身を売った大伴部博麻が持統天皇から顕彰されている。
前項の信濃二社に対する祭礼は翌年のことである。
博麻の顕彰と信濃への使者派遣を関連付けることはできないだろうか。
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八面大王
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