のんびりと古代史

自分なりに「削偽定実」を試みる。

倭国と日本国

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【孝徳紀の中大兄と皇太子は同一人物か】
中臣鎌足が孝徳天皇の配下だったとする文武天皇の宣命からいろいろなことが推測できる。
孝徳と中大兄はの接点は孝徳即位前紀で中大兄が皇極天皇からの譲位を断って孝徳を推薦する流れの中で描かれている。
中大兄が鎌足の考えを受け入れて皇位を孝徳に譲るくだりである。
孝徳紀には古人大兄謀反を制圧する時に中大兄の名前で登場しているが、その他の箇所では「中大兄」の名前は出てきておらず、ことごとく「皇太子」として登場している。

孝徳派だった鎌足】
 軽皇子時代の孝徳と中臣鎌足の関係については皇極紀に記されている。
「皇極三年正月一日、中臣鎌足は神祇伯に任命されたが、再三固辞し病気と称して三島の実家に引きこもった。その時軽皇子は足の病のため朝廷に出ることができなかった。中臣鎌足は元々軽皇子との関係はよく、軽皇子の宮に泊まったりした。軽皇子は中臣鎌子が意気高逸=心もちが高くすぐれていてふるまいに隙がなかった。軽皇子は寵妃の阿倍氏に命じて別殿を清掃してきれいにし新品の寝床をあつらえて万事こまごまとお世話をされ、鎌足を敬い重んじること特別だった。中臣鎌子は軽皇子からの特別待遇に感動して舎人に、皇子から受けた恩は望んでもいないことだった。天下に王とおなりになることを妨げることができるものは誰もいない、と語った。」
 軽皇子と鎌足の親密な関係について述べられている。文武天皇の宣命は皇極紀のこの文章に通じるものである。

【不比等が鎌足の孝徳との関係を中大兄にすり替えた?】
 文武の宣命と皇極紀のこの記事が真であるとすると、中大兄と鎌足が蹴鞠の会場で偶然出会って親しくなったとする出来事は一気に信憑性に疑問が生じてくる。
蹴鞠会場の出会いから乙巳の変の遂行に至るまでのストーリー展開は不比等による造作部分がかなり含まれているのではないだろうか。
 『藤氏家伝』には、鎌子が乙巳の変を画策するに及んで中大兄を選んだ理由として、「軽皇子の器量は共に大事を謀るには不足である。」とし、「君を選ぼうと王族を見渡すと中大兄だけが雄略英徹で共に(蘇我氏の)乱を治め正道に戻すことができる。」と述べている。
藤原鎌足→不比等→(武智麻呂)→仲麻呂(『藤氏家伝』の著者)と続く藤原氏の代々のご都合主義があぶりだされているような気がする。

文武天皇の宣命第二詔

【不比等を讃美した文武の「宣命第二詔」】
 続日本紀慶雲4413日条に文武天皇の宣命第二詔が記載されている。その前に宣命に関する説明が岩波版の補注(1−10)に記載されているので見てみたい。
「天皇の政治に関する意思を百官もしくは万民に向かって告ることが宣命の本質だったと考えられる。宣命の文案の起草は、大宝令以降中務省の内記が行い、朝廷などに列立する臣下の前で宣読された。その宣読は大臣・納言・中務卿などが担当した。」
ということである。
 当条に記された宣命第二詔は藤原氏の忠臣ぶりを讃美するもので、最後に不比等に賜封することで結ばれている。したがって不治の病の床に就いた文武に対して何らかの方法で不比等の朝廷内での地位を高める行動をとらせようとしたのではないか。元明天皇が即位すると不比等は大納言から右大臣に昇格している。

【孝徳天皇の臣下だった中臣鎌足】
 宣命の中で、難波大宮御宇天皇(孝徳天皇)の時に不比等の父鎌足は大錦冠や紫冠を受けたので同じように不比等に対しても食封五千戸与えるということを述べている。日本書紀の孝徳紀の中には中臣鎌子(鎌足)については、上記の二つのことしか出てこない。つまり書紀に記されるような事績がなく授位記事だけが記載されている。鎌子は乙巳の変で中大兄の協力者として有名だが、ここでは孝徳天皇との関係が特筆されていることに違和感がある。文武が宣命の中で特筆しているにもかかわらず、鎌子が孝徳天皇に貢献した記事がなぜ日本書紀にないのだろうか。

【文武から聖武へ、女性天皇による継投】
 草壁の皇統維持は困難をきわめたようだ。草壁自身が若くして死去(天智即位元年生まれと考えているので享年22歳)、草壁の息子文武も25歳で早世している。幸か不幸か文武には藤原不比等の娘宮子との間に首皇子(聖武天皇)がいた。慶雲4(707)に文武が崩御した時に首皇子はまだ7歳、当時の常識では即位には早すぎる年齢だった。文武に宮子を嫁がせて首皇子の外祖父となった不比等はどうにかして首皇子を即位させる方法を考えねばならず、文武の母と姉を相次いで即位させる女性天皇による継投策をとることにした。文武の母元明天皇の即位にあたり不比等は天智天皇による「不改常典」を持ち出している。前例のない天皇の母の即位を正当化するために実体のない「不改常典」という概念を掲げて天智天皇のご意思であるとして周囲を黙らせた。

【文武崩御前後の不比等の画策】
  文武は慶雲4年(615日に崩じているが、同年草壁皇子の命日である4月13日を国忌とした後、15日に突然宣命第二詔(第一詔は即位の宣命、文武元年8月)を発布し難波孝徳朝以来の藤原氏の仕えぶりを讃美して不比等に賜封している。元明天皇即位前紀によると、文武は慶雲311月に不治の病となり母の阿閇皇女へ譲位の意思を示したという。不比等にとって最も恐れなくてはならなかったことは、文武が崩じた後首皇子が即位年齢に達する間に生存する天武の皇子たち(長、舎人、新田部、穂積)が即位の意欲を示すことだった。文武が母への譲位の意思を示したこと、草壁の命日を国忌としたことなどは彼らの即位への願望を封じ込めるためである。不比等による画策を疑わなくてはならない。


【天武の皇子たちの中で筆頭は誰か】
 史料批判である。日本書紀は天武紀下において天武の皇子たち、天智の皇子たちの序列を記している。(天武855日、吉野の盟約)ここで突然草壁皇子が筆頭に列せられている。天武紀上においては高市皇子が名実ともにナンバー1の活躍をしている。天武紀下でも、天武5年正月4日の官服の配布においても高市をトップとしている。ここまでの記述からは天武皇子の序列は高市を筆頭にして壬申の乱で自立した行動をとった大津が二番手、その他の皇子たちという印象である。

【「吉野の盟約」の史料批判】
ところが吉野の盟約ではいきなり草壁が筆頭となり、以下大津、高市、河嶋、忍壁、芝基の順に記されており、この中には天智の皇子が二人(河嶋と芝基)が入り込んでいる。本文中に記される草壁皇子の宣言の中にここに集まっているのは母は異なってもみんな天武の皇子たちととれる内容が含まれている。「吾兄弟長幼幷十餘王、各出于異腹(私たち兄弟年長から年少まであわせて十人余りの王はそれぞれ母を異にするけれど)」の表現には天智の皇子が入ることを前提としていないのは明らかである。草壁の宣言とされる部分と参列した皇子たちの中に天智の皇子を含めたこととは整合しない。この段階で、草壁が筆頭皇子であることと、次世代を担う皇子たちに壬申の乱で敗れたはずの天智の皇子たちの復権が許されていることを正史の中に記しておくことを目的とした作為を見ることができるのである。

【草壁皇統に対する不満】
 天武天皇崩御後に皇后持統は有力な皇位継承者とみられていた大津皇子に謀反の罪をかぶせて処刑した。その後所生の草壁皇子即位を意図していたが草壁が早逝した為、草壁の子文武の成人を待って立太子させ、同年に譲位して即位させた。その後文武も25歳の若さで崩御した為、文武の子聖武が即位年齢に達するまでを元明、元正の女性天皇がつなぐことになる。
 続日本紀は以上のような歴史を記しているが、その間、数多く生存している天武の皇子たちは黙っていたのであろうか。もし草壁の立太子が史実であったとしても、草壁が死去した時点で天武の皇子たちにも皇位継承の可能性は高まったはずである。『懐風藻』葛野王の段に記されている日嗣問題を協議している時に弓削皇子が異議を唱えて葛野王に𠮟責された事件は象徴的である。持統が望む草壁皇統の実現を快く思わない人々もいたということである。特に天智皇女を母に持つ血統の良い皇子たちの中には内心皇位を望んだ者もいたであろうことは容易に想像できる。

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