のんびりと古代史

自分なりに「削偽定実」を試みる。

倭国と日本国

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【律令の先例となる天智天皇の詔】
天智9年(670)正月7日条。ここから律令と対応できる詔が続く。
律令を正当化するために天智天皇もこうおっしゃっていたと先例を示す日本書紀の手口と考えられないこともない。
①「詔士大夫等、大射宮門內。(士大夫等に詔して、盛大に宮門内で弓を射る)
雑令大射条(律令の最後の令の最後の条):凡大射者。正月中旬。親王以下。初位以上。皆射之。其儀式及禄。従別式。兵部式によると、親王以下五位以上が参加し、優秀者には位階別に調布などの豪華な賞品が与えられた。
②「宣朝庭之禮儀與行路之相避。」(朝廷内での礼儀、道路で行きかう時の振る舞いについての詔。)
礼儀の内容は不明。
儀制令在路相遇条:凡そ路に在りて相遇すれば、三位以下は親王に遇えば、皆馬から下りよ。以外は拝礼に准ぜよ。其れ下りない時は皆馬を止めて側に立て。下りるべきと雖も天皇の行幸に従っている時は下りないでよい。
儀制令遇本国司条:凡そ郡司、本国司に遇った時は、皆馬から下りよ。唯し五位、同位以上に非ずは、下りなくてよい。若し官人本国に就きて見えば同位はすぐに下りよ。若し致敬すべくは、並びに下馬令に従え。
儀制令行路条:凡そ行路巷術は、賤しきは貴きに避れ。少きは老いたるに避れ。軽きは重きに避れ。
【近江国在住の百済人の移動】
天智8年(669)是歳条には、百済からの渡来者である佐平余自信・佐平鬼室集斯など700余人を近江国蒲生郡(現在の竜王町、日野町、近江八幡市、東近江市辺りか)に遷らせたという記事が記載されている。
同4年2月是月条で筑紫から神前郡(かみさきのこほり、愛知川に沿った東西に細長い地域)に移された百済人集落が移住者がさらに増えて手狭になったためであろう。
愛知川沿いから日野川沿いに移った。
天智政権及び天武朝の後の持統政権にとって百済からの渡来人たちは重要な役割を果たし、日本国建国を考える時に欠くことができない存在となっていく。

【郭務悰、2000人を連れて筑紫へ】
是歳条には、唐が郭務悰をリーダーとする2000余人を派遣してきたと記されている。
10年11月条にも郭務悰が合計2000人ほどを連れて筑紫に来たとする詳細な記事があり、岩波版の注は、8年是歳条の記事が簡略なのでこちらが重出であろうと書いているが、記述が簡単か詳細かが判断基準になるとは思えない。
2年ほど期間が開いているのでどちらも史実を伝えている可能性は捨てきれない。
【天智朝唯一の遣唐使】
天智8年(669)是歳、小錦中河內直鯨を長とする一行を唐へ派遣している。
天智4年是歳条に小錦守君大石等を大唐に遣わすという記事が載るが、これは百済駐留の唐軍から派遣された劉徳高等(この中に禰軍がいた)を旧百済の地まで送る使いだった可能性が強く、河內直鯨が日本書紀に記されたこの時期唯一の遣唐使ということになる。
一般にはこの河內直鯨一行が『旧唐書』に記された、「日本という国から来た自ら矜大で実をもって対えないために唐側から疑われた」と記された使節であるという説が多いという。
『新唐書』東夷伝・日本に、日本(或いは倭国)が670年に高麗の平定を祝う遣いを送ってきて翌年高宗に謁見したという記事があることが根拠となっているようだ。
【近江宮の大蔵で火災と高安城の修復】
天智8年(669)12月、近江宮の大蔵で火災があった。この年の冬(10〜12月)には斑鳩寺でも火災があった。
またこの冬に高安城の修復が終わり畿内の田租を収蔵した。
近江宮の大蔵の火災と高安城の田租収蔵庫の完成は同時期ではあるがこの記事だけでは関連性は考えられない。
高安城の税倉は壬申の乱で焼失する。

【天智期の火災】
天智8年の冬に大きな火災が2件あったことが記されている。
火災記事は日本書紀に以下の11件記されているが天智紀に4件集中していることは注目に値する。
岩波版の注には天智8年の斑鳩寺の火災と天智9年の法隆寺の火災が重複かもしれないとしているが、寺の名称も火災の書き方も異なっており重複とは即断できないのではないだろうか。
資料が混乱していることが多い編纂事情を考慮しても重複箇所が接近しすぎている。重複だとしたら誰でもすぐに気が付くであろう。
天智6年3月19日条の近江遷都に際して人々が遷都に反対して反抗することが多く起こり火災が頻発した、とあるので天智期の社会情勢が不安定だったことを表しているとも考えられる。

【参考:日本書紀に記された火災一覧】
舒明8年6月条、「災岡本宮、天皇遷居田中宮。」
皇極2年3月13日条、「災難波百濟客館堂與民家屋」
孝徳大化3年12月晦条、「是日、災皇太子宮。時人、大驚怪。」
斉明元年是冬条、「災飛鳥板蓋宮、故遷居飛鳥川原宮。」
斉明2年是歳条、「災岡本宮。」
天智8年12月条、「災大藏。」
天智8年是冬条、「災斑鳩寺。」
天智9年4月30日条、「夜半之後、災法隆寺、一屋無餘。」
天智10年11月24日条、「災近江宮、從大藏省第三倉出。」
朱鳥元年6月22日条、「名張厨司災之。」
朱鳥元年7月10日条、「雷光南方而一大鳴、則天災於民部省藏庸舍屋。或曰、忍壁皇子宮失火延燒民部省。」
【鎌足に「大織冠」、「大臣」の授位、藤原氏の姓を賜与】
天智8年(669)10月15日、天智天皇は自ら見舞った5日後に東宮大皇弟を鎌足の家に遣わし、大織冠と大臣の位を授け、さらに藤原氏の姓を賜与し、これ以降藤原内大臣と呼ばれた。
翌16日、鎌足死去。内大臣と1日だけ呼ばれたことになる。
日本書紀には細注で、
「日本世紀に曰く、内大臣は春秋五十にして私第で薨じた。山の南に遷して殯を行った。天はなぜもうしばらく老人である鎌足をこの世に残さなかったのか。なんとかなしいことか。碑文には五十六歳で薨した」
と記されている。
同月19日、天皇は鎌足の私邸に赴いた。蘇我赤兄に命じて恩詔を読み上げさせ、金の香炉を賜与した。

【『藤氏家伝』でも鎌足礼賛】
『藤氏家伝』・鎌足伝は33項以降最終の41項まで鎌足の追悼に充てられている。
34項「藤原朝臣」に記されるように、天武13年の八色の姓で施行されたはずの「朝臣」姓が記されていることなどに象徴されるように、藤原氏子孫による始祖礼賛の言辞が多く記されていることを含みながら読まなければならないだろう。
日本書紀の「大織冠」、「大臣」の授位なども後の藤原氏の隆盛を正当化する要素となるもので、鎌足死去の前日に行われたというのもすぐには信じがたいことである。
死後に「贈位」されたことに比べて生前にたとえ1日でもその位についていたということの意味は全く違うことであろうから。
このことによって天智天皇の恩詔を読み上げた蘇我赤兄(天智10年に左大臣)と同格以上に位置付けることが可能になる。

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