のんびりと古代史

自分なりに「削偽定実」を試みる。

倭国と日本国

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壬申の乱について日本書紀は天智天皇崩御後の天智の弟と息子による皇位継承争いだったことにしようとしている。天智が弟の大海人皇子ではなく息子の大友皇子を後継に選んだために身の危険を感じた大海人が吉野に隠遁して天智からの攻撃を避け、崩御後に決起して大友率いる近江朝廷を滅ぼした。日本書紀が描く壬申の乱の要約である。
天武朝になって大きく変わったことがいくつかある。
ひとつは朝廷の場所が近江から飛鳥に移ったこと。皇位継承争いであるならば大友皇子一派を駆逐した後の近江宮をそのまま使うという選択肢があってもよかったはずである。
二つめは新羅との関係強化。天武は天智が九州から近江に移住させた百済系渡来者を重用せずに新羅との関係強化に注力している。新羅からの使節の来朝も遣新羅使の派遣回数も天武紀には非常に多く記されている。
三つめは八色の姓である。天智朝までの重臣と全く異なる氏族が最高位の「真人」を賜姓している。即位する前から天武を支持していた氏族がラインアップされたと考えざるをえない。天智配下の氏族ではないので日本書紀には登場しなかったと考えられる。皇親氏族(公の姓で記されていることから)が真人となったという説があるようだが根拠も説得力もない。
天智は近江京に遷都するに当たり、勢力基盤を異にし、近江を地盤とする天武に4人を嫁がせることによって婚姻関係を結び味方につけた。

古事記の成立と息長氏

【なぜ息長氏の修史事業が古事記に反映されたか】
 永井紀代子は『蘇我氏と息長氏の修史事業』の中で、
「息長氏関係の正史への史実に基いた記載はやはり敏達天皇と息長真手王の女比呂比売との婚姻の記載にはじまると思われる。そして、両者の間に生まれた忍坂日子人太子の子舒明天皇(オキナガタラシヒロヌカ)の時代に息長氏の中央貴族としての活躍が推測され、この時代に息長氏関係の系譜や伝承が記紀の前駆をなす一連の修史事業に組みこまれ、この修史を舒明の子の天武が古事記の原形として継承していったものと思われる。」
と述べている。
  開化記で日子坐王に嫁ぐ天之御影の女息長水依比売の子孫系譜の中に息長帯比売(神功皇后)がいることや、允恭天皇の妃に息長氏出身の忍坂大中津比売(安康天皇、雄略天皇の母)がいることは古事記編纂時における息長氏の造作の可能性があるので史実と考えるのはむずかしい。息長氏の修史事業の中で何らかの史実に基いたものであると考えうるのは敏達天皇の皇后(息長)比呂比売以降であるとする永井の主張は説得力がある。比呂比売所生の日子人太子からその子である舒明を通じて日本書紀の描く7世紀の世界に結びつくからである。それにしても天武朝で制定された八色の姓で最高位の真人を賜姓した息長氏がなぜ神功皇后を息長帯比売と「息長」の名前を付けることができたのだろうか。その疑問に対しては、舒明天皇(息長タラシヒロヌカ)もその息子である天武天皇も息長氏そのものだったからではないかという可能性を考えざるをえないのである。


【ホムダワケ、ホムチワケ、ホムツワケ】
ホムダワケ(古事記では「品陀和氣命」、日本書紀などでは「譽田天皇」)は応神天皇のこと。ホムツワケ、ホムチワケ(古事記に「品牟都和氣命」、「本牟智和氣御子」:同一人物、日本書紀では誉津別命)は垂仁天皇の皇子の名前である。

【応神から継体への系譜について】
永井紀代子氏は『蘇我氏と息長氏の修史事業 釈日本紀所引上宮記系譜の“凡牟都和希王”をめぐって』の中で、吉井巌氏が『ホムツワケ王』の中で上宮記逸文の継体天皇が応神天皇の五世孫であるとする古事記の記述を補う系譜について、応神天皇のことを指している「凡牟都和希王」はホムツワキ王と訓むべきで、ホムダワケとはならないと指摘していることを取り上げている。古事記には応神記の末尾に若野毛二俣王が母の妹百師木伊呂辨またの名弟日売真若比売命との系譜(若野毛二俣王―大郎子またの名意富富杼王、忍坂大中津比売命、他五名)が記載されている。これは上宮記逸文記載の「凡牟都和希王」から乎富等大公王(継体天皇)に至る系譜を記載した原資料から「息長氏の作為」によって古事記に改ざんされて記載されたものとしている。上宮記逸文の若野毛二俣王の母弟日売麻和加(記には弟日売真若比売命)と妻母々恩己麻和加中比売(記には百師木伊呂辨)が「記では若野毛二俣王の妻の名に集中され、一人の女性の名となっている」ことなどを指摘し、結論として次のようなことをあげている。
①若野毛二俣王の母と妻とにかかわる記の系譜は息長氏の作為によって成長したものである。
②若野毛二俣王の母と妻とにかかわる系譜の原形は、記紀上宮記共に同じと判断してよい。
③若野毛二俣王の父にはホムタワケ王とホムツワケ王との二つの伝承があった。
④ホムタワケ(応神)を定立したのは息長氏の作為によるものであり、その定立によって、若野毛二俣王の父としてのホムツワケ王の系譜的地位は失われた。
⑤ホムツワケ王を崇神王朝の後継者として創造したのは蘇我氏である。(⑤については別論文で詳述しているという。)

【息長氏が応神と継体を結び付けた】
「乎富等大公王(継体天皇)」に至る「凡牟都和希王」(あるいはホムダワケ)からの系譜を記した原史料を息長氏が応神天皇と継体天皇を五世孫の関係に結びつけるために改ざんして古事記に記したということであろう。
もちろん「凡牟都和希王」から「乎富等大公王(継体天皇)」に至る上宮記の系譜自体の真偽については吟味する必要があるが、息長氏がその系譜を利用して継体が応神の五世孫であることを古事記内に記したことの中に古代史の真相に迫る要素が含まれていると思う。息長氏にとって応神と継体の間の断絶を埋める必要があったということである。

蘇我氏と息長氏

【記・紀の中の蘇我氏と息長氏】
 倭国と日本国との関係、及び両国と百済・新羅との関係の中に蘇我氏と息長氏の存在が大きくかかわっていると考えている。倭国の天皇と日本国の天皇、蘇我氏と息長氏は天皇との関係において、あるいは天皇そのものとして位置づけられるであろう。
記・紀では両氏の初出は以下の通りである。
「ソガ」と読める名が初出するのは、古事記では孝元記で建内宿禰の子として登場する「蘇賀石河宿禰」である。子孫の筆頭に「蘇我臣」が出ている。日本書紀では宣化元年二月条に「蘇我稲目宿禰をもって大臣とす。」と突然「大臣」となって出現している。
「オキナガ」は、古事記には開化記の日子坐王の4人の后の3番目として「天之御影神之女息長水依比売」と「其母弟袁祁都比売命」が出てくる。特に後者(袁祁都比売命)の系譜には曾孫の代に息長宿禰王、玄孫には息長帯比売が明記されている。日本書紀では仲哀二年正月条の「立気長足姫尊為皇后」、つまり気長足姫尊の立后が初出となっている。
この辺りはどちらも名刺代わりのあいさつのようなものだろう。古事記系譜で注目されるのは、「ソガ」が始祖を建内宿禰とする臣族として位置付けられているのに対して、「オキナガ」の始祖は天之御影神という神様であるということ。そもそもスタート時点から身分が違うということを表現しているのである。
日本書紀において、応神天皇の母が「オキナガ」の名をもつ「気長足姫尊」である。仲哀紀には気長足姫尊立后の後に「これより先に叔父彦人大兄の娘である大中姫を娶って妃にした。」と記されているが、仲哀天皇に先に嫁いだ大中姫の方が良い血筋なのに気長足姫尊が皇后と記されているのはおかしいのではないかとは、これまで多くの人たちが指摘していることである。これに対して蘇我氏は応神天皇の五世孫である継体天皇の息子である宣化天皇の代になって初めて表舞台に登場している。息長氏より遅れをとっているのである。
古事記は蘇我氏についてはほとんどノーカウントである。孝元記で建内宿禰の子として登場する「蘇賀石河宿禰」以降は、欽明記まで待たなければならない。欽明天皇が春日之日爪臣之女糠子郎女を娶って生まれた末子に宗賀之倉王がいる。また欽明天皇は宗賀之稲目宿禰大臣之女岐多斯比売と岐多斯比売の姨小兄比売を娶っている。岐多斯比売と小兄比売の2人から三人の皇位継承者が誕生している。所謂蘇我氏系の天皇と呼ばれる三人、用明、崇峻、推古の各天皇である。

【倭国と韓半島】
 『三国志・魏志』東夷伝)によると、倭国は帯方郡(韓半島中西部)の東南に位置して「大海之中依山嶋為国邑」と表現される国であった。
つづいて「到其北岸狗邪韓国」とあり「其」は倭国のことを指しているので、韓半島の南岸にある「狗邪韓国」は倭国の北岸であったと記されている。(あくまでも古代の話であって現代の日韓問題とは無関係である。念のため!)
さらに、対馬国と一大国(壱岐)の人々は船に乗って「南北市糴」していると記されており、両島の住民によって半島と日本列島の間の情報交換が行われていたことが確認できる。すでにかなりの乗船技術が確立していて、頻繁に船による往来が行われていたと考えられる。
 日本海は冬の荒波が有名だが、春から秋にかけては内海らしくおだやかなで航海に適した状態であることが多い。
大陸から日本列島への渡来は大陸や半島において戦乱などが起こった有事の時に緊急避難したと考えられがちだが、波風の穏やかな季節であればさほどの危険に遭遇することなしに到達することができるのである。
日常的に「南北市糴」している人に導かれればより安全に渡海して日本列島に着岸することができたであろう。

【倭国と百済、新羅の関係】
 日本書紀には神功皇后紀以降欽明紀に至るまで、百済三書(百済記、百済新撰、百済本記)の引用記事が多く記載されて倭国と百済の親密な関係が描かれている。
新羅は百済や倭国領の任那に侵攻を繰り返したり、百済から倭国への使者を妨害して貢物を横取りしたりする敵国として登場することが多い。
天武紀下巻で新羅との友好的な関係が繰り返し描かれているのは日本書紀においては例外的であるともいえる。
 古事記には応神記に新羅王子天之日矛来朝説話が記載され、神功皇后(息長帯比売)の母葛城高額比売は日矛の子孫であると明記されている。日本書紀は神功皇后と天之日矛の関係には触れていない。
 中国史書や日本書紀の記述を見てみると、倭国は魏、西晋、宋などの中国南朝と韓半島では百済との関係が親密である。
8世紀になって日本国は唐へ急速に接近し先進文明の吸収に努めるようになる。

【マクロ的な仮説】
 私は、日本書紀に引用された百済三書などの記載から東アジアにおいて倭国と百済が同盟関係にあって中国歴代王朝や高句麗、新羅と向き合い、8世紀になってからも百済の王族(百済滅亡後渡来してきた)の子孫を大和朝廷内で重用していることを重視しなければならないと考えている。
 先述したように新羅と親密な関係にあった天武期は異例であって、それ以前もそれ以降も(倭国時代も日本国になってからも)百済との人的な関係は維持されているのである。
 壬申の乱で近江朝を滅ぼした天武朝だけが異質で、倭国時代も近江朝も日本を建国した大和朝廷も、百済との歴史的な関係の中で成立していること=「倭国と天武朝以外の日本国は同根」を仮説命題として少しずつ論証していこうと思う。


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