のんびりと古代史

自分なりに「削偽定実」を試みる。

倭国と日本国

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【律令国家の成立】
701年、「大宝」を建元、「大宝律令」を制定して、日本国=大和朝廷が律令国家を目指してスタートした。
「大宝」は対馬嶋から金が奉られたことに因んでの命名という。

【少年天皇→女性天皇→女性天皇】
続日本紀によると、「大宝」を建元したのは文武天皇のとき。
文武は3年前に15歳で即位している。少年天皇である。
その後文武は25歳の若さで崩御し、母の阿陪皇女が即位する(元明天皇)。
元明は在位7年で娘の氷高皇女に譲位(元正天皇)。
「大宝」を建元してスタートした日本国は少年天皇→女性天皇→女性天皇と続いている。
ふつう新しい国を造り、元号を建て、律令を制定することは生半可なことではなく、強い権力にもとづいた指導力を必要とするであろう。
中国の正史によると弱体化して徳を失った前王朝を新しい勢力が武力で放伐したり禅譲を強要したりすることによって新王朝は成立するのが一般的である。
ところが日本国=大和朝廷は前記したような決して強権を有しているとは思えない天皇をいただいていた。
「日本国は弱体天皇で始まった」。
【神武は九州の王の傍系】
 中小路駿逸氏は『宣命の文辞とその周辺―日本文学史の構図へのアプローチ―』の冒頭で、神武の東征で日本書紀が「天基を草創した(初、天皇草創天基之日也)」と記していることに関して、「天基を草創する人は初代王にほかならず、王の子孫が初代王になるのは、王の傍流の子孫の場合である。すなわち書紀には、わが王朝は九州の昔の王の傍流の子孫によって建てられた一王朝である、としているのである。」と書いている。

【大和に「天基を草創した」神武】
 中小路氏は、日本書紀は神武が天孫瓊瓊杵尊の子孫が統治する九州の王朝の傍流であって、東征して大和の地で「天基を草創した」としていることに注目する。
つまり神武が出発した九州の地には瓊瓊杵尊の嫡流が支配する王朝が継続して存在しているということである。
さらに中小路氏は、「つまるところ、“はじめから近畿の一王権のほかは王権はなかった”というような事実もなく、また“王の東遷(ないし遷都)による王権の拡張”などといった事実もなく、九州の一分流というべき王権が、ある時期、近畿大和の地に立てられ、それがのちに“統一”の中心となった、と考えるほかはない。

【持統と文武の間に統一王権となった大和】
 続日本紀の文武天皇即位の詔にはじまる「宣命」には「高天原に事始めて」あるいは言葉は異なるが同様のことを意味する言辞が断続しながらも淳仁天皇の宣命に至るまで記されている。
「わが王朝は、九州の昔の王の傍流の一子孫にはじまる、いわば分流の一王権である。だが、その種(天神との祖孫関係)と格(神授の唯一王権)とにおいては、かの“降臨の君”と同じであり、その“種”と“格”とは“高天原”以来一貫して存在しているのだ。」
日本書紀がわが朝の初代君主は神武天皇であると明記していることと、明らかに異なっている。
日本書紀が完成した養老4年(720)にはすでに何回も宣命は出ており、書紀編纂者が上記「高天原に事始めて」を知らなかったはずがない。
書紀編纂者にとって宣命の「高天原に事始めて」と日本書紀の「天皇草創天基」は矛盾せずに存在していたことになる。
それはなぜか、中小路氏は次のように記している。
「持統・文武朝の間に、それまでは九州系傍流の一地方王権であった近畿大和の王権が、九州の王家にとってかわり、すなわち九州の王位は継受せず、ただその“格”のみ継受して、ここに九州まで支配する“統一王権”となったので、この“格づけ”が、本来の“種”とともに宣言される必要があったのだ。」


【天智天皇崩御】
天智10年12月3日、天智天皇は近江宮で崩御した。天智7年正月3日の即位なので、丸4年間の在位であった。
日本書紀には天智天皇の事績はほとんど記されていないので、近江京での状況がいかなるものであったかよくわからない。
最後の4年間は何らかの形でトップの座にいたのであろう。
日本書紀編纂者が最も極端に美化している対象なので、最も慎重に読み解かなければならないことは確かである。

【壬申の乱勃発を正当化する天智紀の締めくくり】
天智紀は天地崩御の後吉野に去った大海人皇子と大友皇子の皇位継承をめぐる経緯を諷刺する歌謡(三篇)を載せる。
また王朝交代を暗示する前兆を記すことによって壬申の乱を正当化しているともとれる文章で締めくくられている。

最後は少し強引に天智紀を終わらせてしまいました。
悪しからず。
皆様がよい新年をお迎えになることを心より祈っております。
【天智天皇最後の詔】
天智10年11月23日条は、大友皇子が実質的に即位したことを表しているようだ。
病床の天智天皇が後継を依頼した大海人皇子が辞退して出家し、太政大臣である大友皇子の即位を妨げるものはなくなった。
大友皇子は內裏西殿の織仏像の前で5人の重臣(左大臣蘇我赤兄臣・右大臣中臣金連・蘇我果安臣・巨勢人臣・紀大人臣)たちに対して天皇の詔に従うことを誓わせている。
ここに記された「天皇の詔」とは大友皇子を後継者に指名する詔と読み取ることができる。
【百済より47艘の大船団が筑紫へ】
天智10年11月10日条は興味深い内容である。
対馬国司が筑紫大宰府に遣いをよこし、
「(今月の)2日に、沙門道久・筑紫君薩野馬・韓嶋勝娑婆・布師首磐の四人が唐からきて、唐国の郭務悰が600人、送使沙宅孫登(唐の捕虜となった百済人、解放されてリーダーとなっているか)が1400人率いて船47艘に分乗して比知島までやってきて、我々一行は船も多いし人数も多い、このまま筑紫までいけば、防人たちが驚いて戦おうとするだろう。だからまず我々4人を寄こして船団でやってきた理由を伝えたい。」
と言ってきた。

【白村江戦の倭国、百済の難民搬送か】
対馬国司は筑紫に使いを出し、上記のことを伝えた。
比知島から4人の使いが来て明らかになったことは、総勢で約2000人が47艘の船に乗って比知島まで来ていること、2000人の内訳は唐の郭務悰が率いているのが600人(これはおそらく白村江戦で捕虜となった倭人であろう)、送使沙宅孫登が率いているのが1400人(これは滅亡した百済で難民となった人々であろう)を筑紫まで連れて行くので倭国で引き受けてほしいということであろう。

筑紫君薩野馬(薩夜麻)も】
対馬まで使いとしてきた4人、沙門道久・筑紫君薩野馬・韓嶋勝娑婆・布師首磐は倭人のリーダーで対馬国司に疑われることがない人選であろう。
特に筑紫君薩野馬(薩夜麻)は持統4年10月22日条で、唐の捕虜解放に際して大伴部博痲が身を犠牲にして帰国させた要人の中に含まれており、倭国のかなりの要職にあった人物であると思われる。


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