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【息長氏と藤原氏が支配する政権】
崇仏・排仏戦争から舒明帝即位までの経緯を
日本書紀の記述に従って考えてきた。
8世紀初頭の天皇家が息長氏と藤原氏(中臣氏)が支配する政権であることを
前提とするといくつかの疑問点が浮かび上がってきた。
【日本書紀の記述の三つの疑問】
ひとつは、蘇我氏系と考えられる厩戸皇子=聖徳太子を
なぜ美化し英雄視しなければならなかったかということ。
二つ目は、藤原氏の祖先と思われる中臣勝海が
排仏派から崇仏派へ寝返る不可解な行動をとっていること。
三つ目は、息長氏の祖である彦人大兄は本当に崇仏派だったのかということ。
以上の三点である。
【一つ目の解答:蘇我氏系の厩戸皇子をなぜ美化したか】
8世紀初頭の政治状況を考えると唐に対して、
新興の日本国が以前から仏教興隆に力を入れていたということを
示す必要があったことがあげられる。
それではなぜ蘇我稲目の娘小姉君を祖母とする
厩戸皇子でなければならなかったのか。
それは持統帝⇒文武天皇⇒元明天皇⇒元正天皇、
日本書紀成立期の直近の天皇たちに
蘇我氏の血脈が流れていたからに他ならない。
同じ蘇我氏でも厩戸皇子は
宿敵だった蝦夷、入鹿親子とは違う系譜である。
最初の崇仏派である蘇我稲目の孫娘(穴穂部真人皇女)を母としている。
そのあたりも当然配慮されている。
【二つ目の解答:中臣勝海の寝返り】
中臣勝海の崇仏派への寝返りはなかったとしか言いようがない。
物部守屋と並んで排仏派の双頭の立場にあった勝海が、
「呪い殺し」に失敗したくらいで崇仏派に転向するのはあまりにも不自然である。
排仏派のまま彦人大兄邸から出てきたところを
崇仏派の刺客迹見赤檮に殺害されたと考えるのが筋であろう。
【三つ目の解答:彦人大兄は崇仏派だったか】
中臣勝海の寝返りと関連して考えることができる。
崇仏・排仏戦争のさなか、中臣勝海は彦人大兄邸にいた。
ということは彦人大兄は排仏派だったということである。
中臣勝海が寝返ったのではなく、
彦人大兄が勝海と同じ排仏派だったとすると二つの疑問が解けるのである。
排仏派敏達帝の皇子である彦人大兄が、
中臣勝海と同じ場所にいることは不自然なことではなくなる。
日本書紀がベースにした史実があったとすると、
彦人大兄と中臣勝海は共に迹見赤檮に殺害されたのである。
息長氏と中臣氏の祖先である彦人大兄と中臣勝海の最後を
崇仏派として描いた日本書紀編纂者の意図が表れている。
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押坂彦人大兄皇子
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【田村皇子即位と息長氏の覇権確立】
推古帝の崩御後の田村皇子と山背大兄王による皇位継承争いをみてきた。
結果として田村皇子が即位して息長足日広額天皇となる。
以降田村皇子の子孫たちである息長氏が近畿圏の覇者となり、
近畿天皇家を形成し、日本国を建設して今日に至ることになる。
【崇仏・廃仏戦争】
日本書紀の記述を読むと、
この争いは蘇我氏と物部氏による
崇仏・廃仏戦争に端を発していることがわかる。
崇仏派には、敏達帝の皇子である、
廣姫所生の彦人大兄、豊御家炊屋姫所生の竹田皇子、
用明帝の皇子である厩戸皇子が入っている。
廃仏派は物部守屋と中臣勝海が中心メンバーである。
【中臣勝海による彦人大兄殺害】
用明二年四月、中臣勝海は彦人大兄と竹田皇子の殺害を図る。
日本書紀は勝海が二人の像を作って呪い殺そうとしたと記している。
試みが失敗すると即座に勝海は彦人大兄に寝返ったと記されている。
不自然な記述である。
藤原不比等の改竄だろう。
勝海は彦人大兄の家から出てきたところを崇仏派の舎人によって殺害される。
彦人大兄はこの後登場しなくなるので、
勝海によって殺害されたと考えるのが筋だろう。
【崇仏派の勝利と皇位継承争い】
崇峻即位前紀では崇仏派の軍勢が物部守屋邸を襲撃して守屋を殺害する。
崇仏派の勝利である。
崇仏派の中に15歳の厩戸皇子が含まれている。
崇仏派の彦人大兄と厩戸皇子の息子である
田村皇子と山背大兄王が推古帝崩御後の皇位継承争いをすることになる。
息長家と厩戸皇子の別名である上宮家の争いである。
上宮家には血脈から蘇我氏がバックアップすると考えられる。
皇位継承争いは蘇我蝦夷大臣がイニシアティブをとっているので、
山背大兄王有利と思われたが、
蘇我氏が田村皇子派と山背大兄王派に分裂する。
蘇我蝦夷の叔父に当たる境部摩理勢が山背大兄王を支持し、
蘇我蝦夷は田村皇子を選択する。
山背大兄王即位によって境部摩理勢の勢力が強くなることを恐れた
蘇我蝦夷が田村皇子擁立に回ったのだろう。
【息長氏、蘇我氏、上宮家の三つ巴戦】
ここでは彦人大兄―田村皇子の息長氏勢力、
蘇我氏が蝦夷側と境部摩理勢側に分裂しているので
三つ巴の争いだったことがわかる。
皇位継承争いに決着がつくと、
蝦夷は境部摩理勢一族を壊滅させる。
後に蝦夷の子の蘇我入鹿が山背大兄王の一族を滅ぼすことによって
厩戸皇子の血脈である上宮家は消失することになる。
息長氏と蘇我氏の一騎打ちとなるが、
日本書紀は息長氏が蘇我氏を乙巳の変で滅ぼし、
覇権を確立する様子を描いているのである。
【不可解な中大兄と中臣鎌足の関係】
乙巳の変の前夜、息長氏は中臣氏と手を握る。
息長氏の始祖である彦人大兄を殺害した中臣勝海の子孫である中臣鎌足と
息長氏の嫡男である中大兄が手を握る不可解な展開を日本書紀は描いている。
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【山背大兄王の反論(続き)】
山背大兄王の反論はさらに続く。
「推古天皇が私に(後継を託すと)言ったことは、
病床の周りにいた人たちは皆聞いています。
私はお言葉を受けて、一度はおじけづき、一度は悲しみ、
また躍り上がって喜びどうしてよいかわかりませんでした。
そのうちに、国政を任されることは重責である、
私はまだ若いのでなんで今やらなければならないのだろうか、
と考えるようになりました。
叔父の蝦夷大臣や群臣達と相談してみようと思っていましたが、
機会がなかったので今まで何も言いいませんでした。
ちょうどその頃、叔父の病気を見舞うために豊浦寺に行った時、
天皇からの使いが来て、
『あなたの叔父の蝦夷大臣があなたのことを心配して、
百年後にはあなたが即位しないことはないのだから今は自嘲するように。』
との伝言がありました。
私が天下をむさぼるなどということがありましょうか。
ただ聞いたことをそのまま言っいぇいるだけです。
天皇の遺言を正しく知りたいだけです。
群臣の皆様は仲を取り持ってくださいますので、
このことを叔父に伝えてください。」
と群臣達に述べた。
【蝦夷大臣の画策か】
推古天皇は山背大兄王に対しては直接後継指名を行ったが、
その後蝦夷大臣から山背大兄はまだ若いから今回は田村皇子にしよう、
と進言されて翻意したということだろうか。
山背大兄王はその辺の真意を蝦夷大臣から直接聞きたかったのである。
推古帝の後継指名の遺言をめぐる伝言ゲームは以上である。
山背大兄王は蝦夷大臣に何度か真意を尋ねたが、
明確な回答は得られなかったようだ。
【蘇我氏分裂につながった後継問題】
後継問題はこの後、
山背大兄王即位を支持する境部摩理勢臣(蘇我馬子の弟とも言われる)と
蘇我蝦夷大臣の対立に発展し、
境部摩理勢臣は家族ともども殺害されることになる。
推古帝の後継問題が蘇我氏の分裂につながっていくことを
日本書紀は詳述している。
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【山背大兄王が遺言を聞いた状況】
蘇我蝦夷大臣から群臣達が伝え聞いた推古帝の遺言を伝達された
山背大兄王は群臣達に問い返した。
「今あなたたちが言った遺言はいったい誰が聞いたのですか。」
さらに、
「今あなた方が言った遺言は私が聞いたことと少し違っています。」
と言って、山背大兄王が推古帝から遺言を聞いた状況を話し始めた。
「天皇の命で空中に参上したところ、
采女が庭で迎えて大殿へ案内してくれました。
そこには側近の人たちが数十人天皇に付き添っており、
その中には田村皇子もいました。
側近者筆頭の栗下女王が『山背大兄王が参上しました』と伝えると、
天皇は起き上がって私に対して詔をお話になりました。」という状況で、
山背大兄王に対する以下の詔がなされたという。
【山背大兄王が主張する推古帝の遺言】
「朕、以寡薄久勞大業。今曆運將終、以病不可諱。
故、汝本爲朕之心腹、愛寵之情不可爲比。
其國家大基、是非朕世、自本務之。汝雖肝稚、愼以言。」
私はそれ程の力もなしに長い間大任を行ってきました。
今まさに終ろうとしています。私の病は治ることはないでしょう。
私はかねてより内心ではあなたに決めていました。
愛する気持ちは他に比べることはできません。
国家を大切にしなければならないのは私の治世だけではありません。
真剣に務めなさい。
あなたは年が若いといっても慎重に発言するようにしなさい。
わかりやすく意訳すると以上のようなことになるだろう。
山背大兄王は推古帝から直接後継指名を受けたと理解していた。
同席した田村皇子も当然そのことは知っているはずだという認識を示した。
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【山背大兄王の確認】
山背大兄王は蘇我蝦夷大臣から派遣された群臣達に、
推古帝の遺言とは何なのかを質問した。
群臣達は蝦夷大臣から聞いただけだがと前置きして、
詔田村皇子曰「非輕輙言來之國政。是以、爾田村皇子、愼以言之、
不可緩。」
田村皇子に対しては、
軽々しく簡単に将来の国政について発言するものではない、
ものを言うときは慎重にして気を緩めてはいけません、と言った。
次詔大兄王曰「汝肝稚、而勿諠言、必宜從群臣言。」
次に山背大兄王に対しては、
あなたはまだ若い、やかましく発言してはいけません。
群臣達の言うことに従いなさい、と言った。
【伝言による詔の変化】
山背大兄王に対する詔は、
推古36年、「汝肝稚之。若雖心望、而勿諠言。必待群言以宣從。」
蘇我蝦夷の言、「汝獨莫誼讙、必從群言、愼以勿違。」
群臣達の言、「汝肝稚、而勿諠言、必宜從群臣言。」
とほぼ正確に伝わっていると考えてよいだろう。
田村皇子に対しては、
推古36年、「昇天位而經綸鴻基・馭萬機以亭育黎元、
本非輙言、恆之所重。故、汝愼以察之、不可輕言。」
蘇我蝦夷の言、「天下大任、本非輙言、爾田村皇子、愼以察之、不可緩。」
群臣達の言、「非輕輙言來之國政。是以、爾田村皇子、
愼以言之、不可緩。」
推古帝は即位するまでは軽々しく発言するなと述べていることが、
蝦夷大臣は天下を治めるのは大任なので、怠ってはいけないと変化し、
群臣達は将来の国政は軽々しく言うものではないとまた変化している。
推古帝が田村皇子に「軽々しく言うな」と言ったのは
「即位」についてであったが、
蝦夷大臣は「天下を治めること」について言ったことになり、
群臣達は「将来の国政」について言ったと言っている。
いずれにしても田村皇子の即位を支持していることには変わりない。
【日本書紀の意図】
日本書紀は伝言ゲームの心理を楽しんでいるのだろうか。
あるいは日本書紀編纂者は田村皇子即位に否定的なのかもしれない。
8世紀以降国政を実質的に支配することになるのは藤原氏である。
舒明帝即位の時点では、
厩戸皇子系の上宮家と彦人大兄の子孫である息長氏が
覇権争いをしていたと考えることができる。
藤原氏は息長氏と組んで大和朝廷を確立することになるのだが、
漢文で書かれた日本書紀の中で、
息長氏が天下に君臨することに対して
正当性に疑問を投げかけているように感じる。
藤原氏覇権確立の布石を打っているのだろうか。
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